« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月22日 (日)

中漠:林下編②わらしべ大徳寺

 本稿では大徳寺という寺院について語ります。
 一山一寧と西澗子曇以降に来朝した禅僧たちを元系渡来僧と言ったりしますが、彼らはほぼ浙江省の南人だったりします。そもそも禅宗というものは、独学で勉強できるものではないので、子弟の結びつきが非常に強固なものだったりします。元朝は大都を首都とし、五山のある浙江省とは少々離れているのですが、日本は大都よりも寧波の方ばかりを見ておりました。そこに五山があったからです。貞時以降の執権たちも、中国に禅僧が健在であることを知ると、禅僧の招聘を再開します。

 逆に蘭渓道隆以来、日本から中国に渡って留学し、本場の寺で修業して印可を受けようと考える人々もいました。日本僧、雪村友梅などは元の官憲に日本のスパイと疑われて成都に流されたこともあったりします。彼は一山一寧の侍童をするという経験を有しておりました。この一山一寧や蘭渓道隆らも日本側からスパイとして疑われていたこともあるのです。可能性として、雪村友梅が日本側のスパイであったことは完全には否定できないでしょう。
 人の交流があるところ、物資やお金も流れます。本稿では省いているのですが、京、鎌倉のほかに、禅宗の日本における入り口として博多があります。栄西が日本に禅宗を持ち込んで最初の布教拠点にしたのが博多でした。それ以後、蘭渓道隆などの中国の禅僧が日本に来る時にはまず、ここに腰を落ち着けてから、京・鎌倉へと向かったわけです。

 博多から京に向かう場合は瀬戸内の水路を使います。その途中に播磨国があるわけですが、ここの出身者で、禅道を極めた人に宗峰妙超という人物がいました。彼は浦上(うらのえ)氏という土豪の一族の者で、高峰顕日、南浦紹明ら国師号をもつ日本人の名僧を師として印可を得ます。彼の禅風は中国のものをさらに突き詰め、峻烈無比なものであったと言います。印可を受けた禅僧は国家が放置しないのですが、この宗峰妙超は自らに乞食同然の生活をする行を課し、それを実践していたのでした。所謂托鉢のことなのですが、現代の京の辻々に立っている小奇麗な坊さんではなく、ぱっと見乞食と区別のつかないような格好でやっていたというエピソードが残っています。
 自らに厳しい行を課す宗峰妙超のために京都の紫野の地に小さいお堂を建てた者がいました。同郷の赤松則村です。播磨国佐用庄赤松村地頭代家の出なのですが、この宗峰妙超に帰依して出家します。法号を円心としました。後に護良親王の令旨を得て鎌倉幕府に叛旗を翻すことになる赤松円心入道でした。

 それから十年のうちに宗峰妙超は花園上皇の帰依を受けることになります。この頃の皇統は二つに分裂していました。持明院統と大覚寺統です。ともに後嵯峨天皇の皇子の系譜ではあるのですが、単純に長子相続と決められない事情もあって、ゴタゴタが続いていました。そこで鎌倉幕府が調停にのりだし、十年ずつ交替で天皇を出すということで手を打ちました。これを文保の和談と言います。花園上皇は持明院統系の上皇で、治世は大覚寺統の後醍醐天皇の手にありました。
 花園上皇は上皇ではありましたが、傍系であるため治天の君ではありませんでした。和談により、後醍醐天皇には持明院統の皇太子量仁親王(後の光巌天皇)が立てられていましたが、それは花園上皇の甥に当たる人物です。花園上皇の直系子孫は皇統から外されていたわけです。上皇とはいっても政治に参与が許されない隠居としての立場だったので、都で評判の宗峰妙超に気楽に会うことが出来ました。その時の宗峰妙超は達磨大師並みに超然とした態度で会見に臨んだようです。そこで上皇が「仏法不思議、王法と対坐す(超訳:仏法だかなんだか知らないが、王法最上位である上皇の前でタメはってんじゃねぇ)」と言うと、宗峰妙超はすかさず「王法不思議、仏法と対坐す(超訳:国王の権威は仏法と比較可能なものではありません。)」と切り替えしました。 この受け答えが気に入って、花園上皇は宗峰妙超の小さな堂を勅願寺にしたそうです。時1324年(正中元年)でした。この勅願寺は号して大徳寺と言います。

 この大徳寺という寺の創建当時の状況や絡んでくる人物をみるに、この出会いのエピソードも単なる、国王の前でも無礼が許される道化の類とはとらえられないのですね。若干の妄想を交えて語りますが、臨済宗の諜報網というのは実在したのかも知れません。となれば、花園上皇は大徳寺を通して諜報網にアクセスできるようになったととらえることが出来るかも知れません。
 傍系という点においては、後醍醐天皇も花園上皇と同じ立場でした。彼の後継の大覚寺統皇子は邦良親王と言い、後醍醐天皇の甥に当たる人物です。また、文保の和談で定められた在位十年の期限も迫っていました。そこで彼は討幕運動をするのですが、 その試みは、結局失敗して後醍醐天皇は隠岐に流刑になります。その時、帰国の途についていた雪村友梅と同道していた明極楚俊という渡来僧が後醍醐天皇の復位を予言したなんて話が残っています。当時の複雑な政治状況を整理したうえで、的確な予見をなせるというのは、よほどの霊感の持ち主でないとすれば、優れた諜報網にアクセスできたからなのではないか。そんな風に思えます。

 流刑になった後醍醐天皇を救うべく、立ち上がったのは西国武士団でした。楠木正成と赤松円心入道則村です。鎌倉幕府は楠木正成に対して圧倒的な軍勢で囲みますが、攻め切れません。その間に播磨で挙兵した赤松円心は一気に京を目指していいところまで行ったのですが、撃退されて摂津国国境近くの山城国山崎まで引きます。その間に山陰方面に幕府軍として出陣していた足利高氏が後醍醐天皇方に寝返って、幕府の京都における拠点、六波羅探題を落としました。これをもって後醍醐天皇の復位がかなったのです。それに伴い、後醍醐に変わって玉座に合った持明院統の光巌天皇は、後醍醐の甥で立太子されていた大覚寺統の康仁親王とともに、廃位されていました。

 復位した後醍醐天皇は、赤松円心が建てた小さな堂から始まり、持明院統の花園上皇が勅願寺にした大徳寺を鎌倉幕府が選んだ五山に変わる新五山に選んだのです。あわせて自らが創建した南禅寺もこの五山の中に入っているのですが、親政を行っている後醍醐天皇の権勢にくらべれば、持明院統傍流の花園上皇の権勢は余り大きいものとは思えません。にもかかわらずこのような特別扱いを行った意図とは、おそらくは宗峰妙超を通した諜報網に対する報酬であり、花園上皇は後醍醐天皇の同志であり、赤松円心はその実働部隊長だったのではなかったでしょうか。

 赤松円心は播磨国守護を望みましたが、後醍醐天皇はそれを認めず、播磨国佐用庄の安堵のみに留めました。これは後醍醐天皇が赤松円心よりも、宗峰妙超を賞せば充分に報いたことになると考えたのやも知れません。赤松円心は恩賞に不服のまま播磨に帰り、足利尊氏の叛乱に参加します。後醍醐天皇方は一度はこれを撃破。足利尊氏は九州に落ち延びます。これを追って新田義貞が西下しますが、これを阻んだのが赤松円心でした。

 この段階に至って、後醍醐天皇は大徳寺に対して宗峰妙超ゆかりの地である播磨国浦上庄を寄進しています。おそらくは円心に通じる宗峰妙超を味方に引き込む工作なのでしょう。その際、宗峰妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配することを申し出、天皇は了承します。宗峰妙超の一族である浦上為景は浦上庄半分地頭職となりました。それから間もなく、後醍醐天皇は敗北し、吉野で南朝を立てることになります。赤松円心は晴れて播磨国守護の座を手に入れました。その赤松円心が一族の菩提寺として、赤穂に建てたのが金華山法雲寺です。そこに開山として招かれたのは、かつて元に留学していた雪村友梅でした。これらの動向をみるに、赤松円心入道則村は臨済宗人脈のかなり深いところにいたと言えるかも知れません。

  浦上為景の一族は、後に赤松家の被官となります。赤松円心の子孫の赤松満祐が公方足利義教を暗殺したため、一度没落します。その御家再興のために後南朝に偽って投降し、後南朝の皇子を殺害して三種の神器を奪いました。その投降が可能であるのも、南朝にゆかりのある大徳寺のコネクションがあったのかも知れません。戦国期においては、浦上一族は赤松氏を凌駕する戦国大名となり、宇喜多氏勃興の母体ともなるのです。

 ともあれ、後醍醐天皇は九州からの足利尊氏の東上を押しとどめられず、比叡山に籠もるも降伏。虜囚となるも吉野に落ち延び、そこで南朝を立てます。大徳寺はこの最終段階で足利側につかなかったが故に、五山を中心とした臨済宗禅林の秩序から一度外され、林下と呼びならわされる羽目に陥ります。以後はかつて高峰顕日からともに学んだ夢窓疎石と足利氏による新たな宗教史が築かれることになるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月15日 (日)

中漠:林下編①林下とは?

 本編においては、臨済宗大徳寺派と妙心寺派を中心に見てゆく予定です。そもそも林下とは、夢窓疎石の流れを汲む臨済宗主流派以外の禅宗諸派を指します。足利幕府の庇護のもと、南禅寺を筆頭に五山、十刹、諸山と確立された序列に属する臨済禅宗寺院全体を指して叢林と呼ばれます。寺院の一つ一つを一本の木になぞらえ、それぞれの木が集まって林をなしている状態を指しているわけですね。
 林下とは、その叢林の下に位置するもの、という意味です。曹洞宗もまた、五山の序列に属さぬ禅宗であるが故に、林下の範疇に入ったりするのですが、そのあらましは以前に一通り紹介しましたので、本編においては省略します。

 大徳寺派と妙心寺派の二つを取り上げるのは、双方とも宗祖を同じくし、時に交流を行っていたりしていただけではなく、戦国期にあって妙心寺派は大躍進を遂げて叢林を凌ぐ教勢を得たことによります。歴史学者の小和田哲男氏の著書に「戦国武将を育てた禅僧たち」という本があります。これによると、名だたる戦国武将が禅僧を師として成長を遂げたと書かれております。例えば、同書には武田信玄の師の岐秀元伯、上杉謙信の師の天室光育、徳川家康の師(というより、今川義元の参謀だろうと思いますが)の太原崇孚、伊達政宗の師である虎哉宗乙の四名が挙げられていますが、このうちの天室光育が曹洞宗であるのをのぞき、残り三名はみな妙心寺派であったりするのですね。
 室町幕府とともに完成形を迎え、発展の際まで行った叢林は室町殿の権威の低下に合わせて衰退します。

 衰退した室町殿に対して勃興してきたのが戦国大名たちでしたが、それに歩調を合わせて教勢を伸ばしていったのが、妙心寺派だったわけです。いわば禅宗における下剋上を果たしたわけですね。
 そもそも、中世における新興宗教は人々に新しいライフスタイルを提示する者でした。それは茶であり、味噌であり、醤油などの新たな食材だけでなく、書院造りなどの建造物、そこで行われる悟りを開くための修行生活等がワンセットのものであったのです。自力で悟りを得るための修行をするとなると、金と時間がかかるものです。浄土宗や浄土真宗などの他力本願系の教団はすそ野を本来寺院で修行するべくもない庶民にまで広げることにより、寺院は修行の場を確保でき、庶民には簡易な修行道具、例えばお文だったり、お札だったりを与えて、悟りへの道のトリクルダウンを図っていったわけです。

 公家や武家をターゲットにしていた禅宗はそういう手が使えませんので、中央権力にすり寄るか、地方領主に外護してもらい、ライフスタイルの伝授と引き換えに修行生活の場を得ることができたわけです。この場合、室町殿をスポンサーにしていた五山派はその没落と運命をともにせざるを得ず、妙心寺派は戦国大名の勃興とともに繁栄を手に入れました。
 そういう体制に最も激しく突っ込みをいれたのが、織田信長です。彼はそういうライフスタイルの共有というのは、別に宗教を経由しなくてもできるのではないか、という疑問を唱え、そういう社会の構築に邁進しました。安土桃山時代がルネッサンスに比べられるのもむべなるかなです。

 話を戻しますと、大徳寺派・妙心寺派は成り立ちが成り立ちなので、初期においては本当に鳴かず飛ばずです。教勢を伸ばそうとはするのですが、失敗を重ねてゆくのですね。それが、臨済宗最大勢力となる画期になったのが、義天玄承・雪江宗深と細川勝元との結びつきでした。それ以前は色々とがんばるのですがことごとく裏目に出てなかなか歴史の表舞台にはあらわれないのでした。本稿ではそのような大徳寺・妙心寺を扱います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月 8日 (日)

中漠:東亜動乱編⑥朝鮮王朝の成立と廃仏運動

 1374年高麗の恭愍王は反元派の宦官に暗殺され、その子の王ウ(示禺)が十二歳で王位につきます。この頃朱元璋は倭寇対策として海禁策に踏み出します。この頃の倭寇は朝鮮半島の内陸部にも進出していたようで、全羅南道の智異山や全羅北道の南原に倭寇が籠もっていたらしいです。私は倭寇というのは海賊で、倭寇退治というのは船を仕立てて海賊船を追い込むものを想定しておりましたが、実際は陸戦だったのですね。これに李成桂が戦いを仕掛けて破るわけですが、チートな李成桂は結果をだし、その武名は上がってゆきます。この時点で李成桂に勝てる武人はこの国に一人もおりませんでした。

 対元戦争の英雄としてはもう一人おります。それが崔瑩でした。1361年の紅巾軍の乱入や1364年の元軍の侵攻を防いだのも彼です。彼は娘を王ウに嫁がせていました。李成桂の出自が元軍所属の軍人だったことに対して、崔瑩は生粋の高麗人でした。なので、彼が李成桂を使う立場であったとしても何ら問題はないと思います。
 朱元璋が元帝国を駆逐して明を打ち立てると、今度は高麗と国境を接することになります。高麗と明は誼を通じていたとはいえ、実際に国境を接するとならば具体的にどこからどこまでが高麗領なのかはっきりさせる必要がでてきます。
 大明帝国は高麗に対し、鉄嶺(元中華人民共和国遼寧省)というその当時高麗領だった土地の以北を明の領土とし、これの割譲を迫りました。領土問題はいつの時代も簡単にかたづくものではなく、崔瑩は明の領土である遼東へ、先に進出・確保して交渉材料にすることを企図します。李成桂はこれに反対しますが、崔瑩は王ウを動かして押し切ります。李成桂は曹敏修とともに、軍を率いて北上を開始するのですが、この軍が鴨緑江で反転し、開京を包囲します。李成桂のクーデターでした。これを威化島回軍と言います。王ウは息子の王昌に譲位し、崔瑩は処刑されます。この王昌擁立の工作を行ったのが曹敏修でした。新王擁立で主導権を取ることによって、李成桂と新王の間にうまく割り込んだのでした。しかし、逆に言うと今度は曹敏修が崔瑩の立場に立たされたとも言えるわけです。彼も軍事的な貢献は高く、威化島回軍で見せた通り政治的なセンスも持ち合わせた人物ですが、李成桂の野心と容赦のなさを甘く見ていた感はあります。と言うか、政変の共謀者であり自分を敵に回して周囲を味方につけることができる名分などあり得ないと思っていたのでしょう。それは一面正しくはありましたが、結果は彼の致命傷となりました。

 李成桂が曹敏修を陥れ、政治的主導権を取るために取った手段はえげつないことでした。それは十八年前に処罰された僧出身の辛ドンを徹底的に悪魔化する行いでした。すなわち、王ウは実は先々代恭愍王の子ではなく、辛ドンと前々王妃との間で密通した結果の子であると宣伝したのです。それはつまり、前王のみならず、現王である王昌の王位の資格を否定するものでした。そして王族である定昌府院君を押し立てて二度目のクーデターを謀ったのです。
 曹敏修は一年足らずで失脚、王ウと王昌親子はともども処刑されるに至ります。そして、即位した定昌府院君は恭譲王を名乗るわけですが、これは臣下ナンバーワンである李成桂に王位を譲るためにだけ存在を許された王でした。彼も数年で禅譲を行い、間もなく一族ごと殺害されることになります。

 朝鮮半島のことわざに水に落ちた犬は叩けという言葉がありますが、辛ドンは王に死の処罰を受けた後、新たに密通の罪を着せられたわけです。この時代の裁きですから、証拠があったとは思えません。その本当にあったかどうかわからない罪を強弁することでしか正当性を担保できなかったわけです。故に、彼の人格は捻じ曲げられて、王政を壟断した末期ロシアのラスプーチン的な怪僧に仕立て上げられていったわけです。

 権知高麗国事李成桂の統治は六年程で終了します。彼には八人の男児がいて、お家騒動を起こしたのです。李成桂は末子の李芳碩を後継者としようとしていましたが、兄たちが結束してクーデターを起こしました。このクーデター事件で太祖は次男(長男は既に没していました)の李芳果に譲位し、自らは出家して咸鏡道に隠遁します。咸鏡道は父の李子春がいた父祖の地でありそこに引きこもってしまったわけですね。引退したとはいえ朝鮮半島の覇者となった李成桂の名望は侮れない者でした。
 クーデターを敢行した李芳果の政権も安定しません。それまで太祖の王子たちは私兵を持つことを許されていましたが、これを李芳果が取り上げようとしたことをきっかけに再び兄弟間で諍いが勃発し、四男李芳幹が粛清されて李芳果も退位するという結末になりました。この事態を収拾したのが五男の李芳遠で、彼は李芳果に代わって権知高麗国事となります。この頃、ようやく明からの冊封が認められ、李芳遠は正式に朝鮮王に封じられ太宗と名乗ります。王都漢陽を何とか安定させた太宗が次に取り組まねばならなかったのが父李成桂対策です。

 李成桂は故郷で出家したはずなのですが、出家の地である咸鏡道の咸興は不穏な空気に満ちておりました。彼はクーデターを起こして末子李芳碩を粛清した李芳果と太宗を憎んでおりました。彼らは李芳碩とは母親が異なり李成桂は末子の方の母親神徳王后を愛していたようなのですね。その咸鏡道で神徳王后の親族である趙思義が、地域の豪族たちを従えて蜂起します。この反乱に李成桂は関与していたのでしょう。朝鮮王に即位した太宗が李成桂に使者を遣わして自分を李成桂の後継者として認めるように何度か求めたのですが、その使者は悉く帰ってくることはなかったという話が残っています。1402年に太宗は趙思義の反乱を鎮圧し、それと同時に李成桂と太宗は和解し首都漢陽に戻ることになりました。
 和解と言っても実態は幽囚であったと思われます。帰還後の李成桂は京畿道の逍遥山で念仏三昧をしたと言います。その目的は不遇に死んだ神徳王后の子供たちの菩提を慰めるためであったそうです。

 太宗にとって李成桂は父であり、新たに導入された朱子学の見地から言って自らの正統性を担保するためには兄弟に対して行ったような粛清はできませんでした。その李成桂が行う念仏は太宗には呪詛のように聞こえたのではないでしょうか。そして辛ドンの「姦淫」事件と李成桂の幽閉はその後の朝鮮王朝における仏教政策にも反映されてしまいます。

 1407年、第三代朝鮮王太宗は、仏教寺院を十二宗八十八寺に限定します。それは李成桂が死ぬ前年のことでした。その翌年、李成桂は仏教徒として亡くなるわけですが、彼は朝鮮王国の太祖と諡号されて儒教の宗廟にまつられることになりました。李芳碩の母である神徳王后は李芳碩粛清の前に亡くなっており、漢陽城内の墳墓に葬られておりましたが、李成桂の死と共に太宗の手によってその墳墓は破壊されたそうです。
 さらに1424年には第四代朝鮮王世祖が、仏教寺院を二宗三十六寺にまで削減するに至ります。蓮如一人が一代で作らせた一宗の寺院の数と比べても凄まじい数にまで減らされております。
 日本が新たな仏教知識を求めて明に使節を送り込んだのはほんの二十三年前に当たります。代わりに朝鮮王朝が取り入れたものは朱子学でした。南宋の時代に禅宗を導入した日本でしたが、戦乱の断絶があり、改めて禅を学ぼうとした日本にとって、既に大陸も半島も、昔日の仏教を崇めていなかったという現実が突き付けられたわけです。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月 1日 (日)

中漠:東亜動乱編⑤バヤンテムルの高麗回復運動

 朝鮮半島にある高麗はモンゴル帝国の侵攻を受け、1258年頃にはモンゴルの支配下に置かれてしまいました。王太子はモンゴル帝国に人質として送られ、国王が死んだ時にモンゴル帝国から王太子が送り返され王位を継ぐシステムになっておりました。
 高麗王忠烈王はそうして高麗国王の座に就いた人物でしたが、1298年弁髪・胡服令を発布し、高麗の民の上下を問わずモンゴル風の装束に改めるように命令を下しました。そればかりか、この忠烈王は日本征服を時の大元皇帝クビライ・ハーンに提案、結果、文永・弘安の役が起こります。忠烈王は日本征服を口実に元軍を高麗に駐屯してもらい、不安定な統治を安定させようとしたものと思われます。しかし、結果としては日本遠征は失敗に終わり、軍費負担がのしかかるという結果に終わりました。日本においてもそうですが、遠征の失敗は国内政治の乱れを生じます。
 国王に不祥事があった時には、国王がモンゴル帝国から呼び出しを食らったり、その間は王太子が派遣されたり、呼び出しを食らった国王がモンゴル帝国にお灸をすえられて反省させられたりした後に、国に返してもらうことができました。この忠烈王も宗主国に呼び出しを食らい、一時的に息子に王位を譲っております。モンゴル帝国―元朝支配下の高麗国は正真正銘の属国状態でありました。
 国王はモンゴル人の嫁を取らされ、王太子にはモンゴル風の名前を付けられたりしました。イジリブカ(忠宣王)、アラトトシリ(忠粛王)、ブダシリ(忠恵王)、パドマドルジ(忠穆王)、ミスキャブドルジ(忠定王)、バヤンテムル(恭愍王)といった具合です。そして、モンゴル風の名前を持つ六人目の高麗王に至って初めて元朝支配からの脱却を志す国王が登場したのです。それがバヤンテムルこと恭愍王です。

Photo


 恭愍王も幼時は元宮廷で育てられておりました。先代、先々代の高麗国王が幼君だったことを元朝が不安視して送り込まれた人物です。忠定王は恭愍王に譲位後、1351年にわずか14歳で鴆毒により暗殺されております。直接関係ありませんが、この翌年に日本では足利直義が死ぬのですが、太平記はこの死を鴆毒による中毒死と伝えております。直義暗殺説そのものは根拠のない話なのですが、高麗国王の暗殺の話が伝わって太平記に記載されたのかもしれません。
 彼が即位したのと同年に、元の安徽省で紅巾の乱が勃発しております。機を見るに敏な恭愍王はここで忠烈王の代に出された弁髪・胡服令を廃止します。ただ、これは高麗宮廷内の親元派の貴族たちを刺激することになります。

 当時の高麗宮廷においては奇氏が勢力を持っておりました。この奇氏は一族から高麗貢女として元に差し出した女官が、元朝皇帝のトゴンテムル(順帝)に見そめられて二番目の皇后(次皇后)なり、トゴンテムルとの間にアユルシリダラ(後の北元の昭帝)を生み、彼が皇太子に建てられることで大きな権力を握るに至った結果でした。元々高麗宮廷における奇氏はあまり身分の高いものではなかったのですが、一族から宗主国の皇后を出すに及んで、その引きによって一大権門に成り上がっていました。1356年、恭愍王はこの一族に粛清をかけることによって反元闘争の魁としました。そして、元の元号の利用を止めて、咸鏡南道にある元の拠点、双城総管府に攻撃を仕掛けたのです。双城総管府には高麗軍に内応する者がいて、恭愍王はこれを落とすことができました。この時協力したのが地元勢力の李子春、李成桂の父親です。彼は新羅王朝で司空という役職を務めた李翰を祖とする全州(朝鮮半島南西部)李氏の末裔というのが通説ですが、彼には実は女真人(いわゆる満州人)であるという説があり、その説によると女真人としての名としてウルスブハという名前を持っていたそうです。李子春、李成桂の親子はそれまで元の軍人でしたが、双城総管府攻略の功をもって高麗王朝に就くことになりました。この他、僧侶の遍照が還俗して辛ドンと名乗り、これが高麗王朝に仕えて重用されます。恭愍王は門閥を弱め、その為に人材を広く集めて反元闘争を開始したのでした。もちろん、この挙は元帝国皇后の奇氏にはたまったものではありません。中国・朝鮮における粛清というものは、本人だけではなく五族、九族皆殺しが当たり前のように行われます。女子供は関係ありません。高麗に自らの寄る辺を失った奇皇后が復讐に走ることを止めることはできないかと思います。
 ただ、この頃は紅巾の乱の最盛期で、元朝も手が付けられなくなってきている所でした。高麗にもその一派が流れ込んできて王府である開京を一時占領しますが、この時は李成桂らが反撃して王府を奪還します。
 奇皇后が夫のトゴンテムル(順帝)の尻を叩いて恭愍王を廃位させ、高麗征服に乗り出したのは1363年のことでした。しかし、咸興平野(咸鏡南道)に差し掛かったところで、李成桂と戦いになり敗北するにいたります。その前年に応天府では朱元璋が呉王を名乗っており、江南の反元勢力に加えて朝鮮半島においても騒乱の種が増え、これに耐え切れなくなって元帝国は北に撤収することになります。

 李成桂が軍事的にチートな活躍をしている間、内政で頑張っていたのが僧侶出身の辛ドン(日屯)でした。彼は父親不詳で母親は桂城県玉川寺の奴婢であり、王に見出されて長大な肩書きを付けながら、元帝国からの自立を唱える恭愍王の政策を内政から支えておりました。とは言え、奇氏粛清や双城総管府攻略は巨大な権力の空白を生み出します。その再分配の調整は既存勢力と新勢力をどのように組み合わせるか、難しい問題は自分で預かるほかはなく、その結果肩書きだけが長くなってゆきました。普通の貴族ならこういう負担に対しては門閥を作って分担対処が曲がりなりにも可能なのですが、恭愍王から政策の実行を丸投げされた彼には政策スタッフは自分で作るほかはなく、それを行うにはまるで時間が足りませんでした。それでも改革を進め、適正な再分配を施すには自らの手に権力を集中させるほかありません。それを見透かされて、彼は誣告され、失脚に至ります。
 辛ドンは水原に流された後、1371年に処刑されます。その三年後に彼の主君の恭愍王も暗殺されて後を追うことになります。

 辛ドンのような失脚のパターンは良くあることですし、実際に彼がどんな役割を果たしたかはよくわかりません。問題は彼が僧侶出身であるということでした。しかも、元々の身分が低いこともあり、徹底的に悪魔化されることになります。それは旧来の門閥貴族から向けられていた物だけではありませんでした。その誹謗の最悪の物は彼と同時期に恭愍王に仕えた者の口から恭愍王の死後に放たれたものでした。

Photo_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »