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2015年2月15日 (日)

中漠:林下編①林下とは?

 本編においては、臨済宗大徳寺派と妙心寺派を中心に見てゆく予定です。そもそも林下とは、夢窓疎石の流れを汲む臨済宗主流派以外の禅宗諸派を指します。足利幕府の庇護のもと、南禅寺を筆頭に五山、十刹、諸山と確立された序列に属する臨済禅宗寺院全体を指して叢林と呼ばれます。寺院の一つ一つを一本の木になぞらえ、それぞれの木が集まって林をなしている状態を指しているわけですね。
 林下とは、その叢林の下に位置するもの、という意味です。曹洞宗もまた、五山の序列に属さぬ禅宗であるが故に、林下の範疇に入ったりするのですが、そのあらましは以前に一通り紹介しましたので、本編においては省略します。

 大徳寺派と妙心寺派の二つを取り上げるのは、双方とも宗祖を同じくし、時に交流を行っていたりしていただけではなく、戦国期にあって妙心寺派は大躍進を遂げて叢林を凌ぐ教勢を得たことによります。歴史学者の小和田哲男氏の著書に「戦国武将を育てた禅僧たち」という本があります。これによると、名だたる戦国武将が禅僧を師として成長を遂げたと書かれております。例えば、同書には武田信玄の師の岐秀元伯、上杉謙信の師の天室光育、徳川家康の師(というより、今川義元の参謀だろうと思いますが)の太原崇孚、伊達政宗の師である虎哉宗乙の四名が挙げられていますが、このうちの天室光育が曹洞宗であるのをのぞき、残り三名はみな妙心寺派であったりするのですね。
 室町幕府とともに完成形を迎え、発展の際まで行った叢林は室町殿の権威の低下に合わせて衰退します。

 衰退した室町殿に対して勃興してきたのが戦国大名たちでしたが、それに歩調を合わせて教勢を伸ばしていったのが、妙心寺派だったわけです。いわば禅宗における下剋上を果たしたわけですね。
 そもそも、中世における新興宗教は人々に新しいライフスタイルを提示する者でした。それは茶であり、味噌であり、醤油などの新たな食材だけでなく、書院造りなどの建造物、そこで行われる悟りを開くための修行生活等がワンセットのものであったのです。自力で悟りを得るための修行をするとなると、金と時間がかかるものです。浄土宗や浄土真宗などの他力本願系の教団はすそ野を本来寺院で修行するべくもない庶民にまで広げることにより、寺院は修行の場を確保でき、庶民には簡易な修行道具、例えばお文だったり、お札だったりを与えて、悟りへの道のトリクルダウンを図っていったわけです。

 公家や武家をターゲットにしていた禅宗はそういう手が使えませんので、中央権力にすり寄るか、地方領主に外護してもらい、ライフスタイルの伝授と引き換えに修行生活の場を得ることができたわけです。この場合、室町殿をスポンサーにしていた五山派はその没落と運命をともにせざるを得ず、妙心寺派は戦国大名の勃興とともに繁栄を手に入れました。
 そういう体制に最も激しく突っ込みをいれたのが、織田信長です。彼はそういうライフスタイルの共有というのは、別に宗教を経由しなくてもできるのではないか、という疑問を唱え、そういう社会の構築に邁進しました。安土桃山時代がルネッサンスに比べられるのもむべなるかなです。

 話を戻しますと、大徳寺派・妙心寺派は成り立ちが成り立ちなので、初期においては本当に鳴かず飛ばずです。教勢を伸ばそうとはするのですが、失敗を重ねてゆくのですね。それが、臨済宗最大勢力となる画期になったのが、義天玄承・雪江宗深と細川勝元との結びつきでした。それ以前は色々とがんばるのですがことごとく裏目に出てなかなか歴史の表舞台にはあらわれないのでした。本稿ではそのような大徳寺・妙心寺を扱います。

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