« 中漠:東亜動乱編④日明交易と禅宗の変質 | トップページ | 中漠:東亜動乱編⑥朝鮮王朝の成立と廃仏運動 »

2015年2月 1日 (日)

中漠:東亜動乱編⑤バヤンテムルの高麗回復運動

 朝鮮半島にある高麗はモンゴル帝国の侵攻を受け、1258年頃にはモンゴルの支配下に置かれてしまいました。王太子はモンゴル帝国に人質として送られ、国王が死んだ時にモンゴル帝国から王太子が送り返され王位を継ぐシステムになっておりました。
 高麗王忠烈王はそうして高麗国王の座に就いた人物でしたが、1298年弁髪・胡服令を発布し、高麗の民の上下を問わずモンゴル風の装束に改めるように命令を下しました。そればかりか、この忠烈王は日本征服を時の大元皇帝クビライ・ハーンに提案、結果、文永・弘安の役が起こります。忠烈王は日本征服を口実に元軍を高麗に駐屯してもらい、不安定な統治を安定させようとしたものと思われます。しかし、結果としては日本遠征は失敗に終わり、軍費負担がのしかかるという結果に終わりました。日本においてもそうですが、遠征の失敗は国内政治の乱れを生じます。
 国王に不祥事があった時には、国王がモンゴル帝国から呼び出しを食らったり、その間は王太子が派遣されたり、呼び出しを食らった国王がモンゴル帝国にお灸をすえられて反省させられたりした後に、国に返してもらうことができました。この忠烈王も宗主国に呼び出しを食らい、一時的に息子に王位を譲っております。モンゴル帝国―元朝支配下の高麗国は正真正銘の属国状態でありました。
 国王はモンゴル人の嫁を取らされ、王太子にはモンゴル風の名前を付けられたりしました。イジリブカ(忠宣王)、アラトトシリ(忠粛王)、ブダシリ(忠恵王)、パドマドルジ(忠穆王)、ミスキャブドルジ(忠定王)、バヤンテムル(恭愍王)といった具合です。そして、モンゴル風の名前を持つ六人目の高麗王に至って初めて元朝支配からの脱却を志す国王が登場したのです。それがバヤンテムルこと恭愍王です。

Photo


 恭愍王も幼時は元宮廷で育てられておりました。先代、先々代の高麗国王が幼君だったことを元朝が不安視して送り込まれた人物です。忠定王は恭愍王に譲位後、1351年にわずか14歳で鴆毒により暗殺されております。直接関係ありませんが、この翌年に日本では足利直義が死ぬのですが、太平記はこの死を鴆毒による中毒死と伝えております。直義暗殺説そのものは根拠のない話なのですが、高麗国王の暗殺の話が伝わって太平記に記載されたのかもしれません。
 彼が即位したのと同年に、元の安徽省で紅巾の乱が勃発しております。機を見るに敏な恭愍王はここで忠烈王の代に出された弁髪・胡服令を廃止します。ただ、これは高麗宮廷内の親元派の貴族たちを刺激することになります。

 当時の高麗宮廷においては奇氏が勢力を持っておりました。この奇氏は一族から高麗貢女として元に差し出した女官が、元朝皇帝のトゴンテムル(順帝)に見そめられて二番目の皇后(次皇后)なり、トゴンテムルとの間にアユルシリダラ(後の北元の昭帝)を生み、彼が皇太子に建てられることで大きな権力を握るに至った結果でした。元々高麗宮廷における奇氏はあまり身分の高いものではなかったのですが、一族から宗主国の皇后を出すに及んで、その引きによって一大権門に成り上がっていました。1356年、恭愍王はこの一族に粛清をかけることによって反元闘争の魁としました。そして、元の元号の利用を止めて、咸鏡南道にある元の拠点、双城総管府に攻撃を仕掛けたのです。双城総管府には高麗軍に内応する者がいて、恭愍王はこれを落とすことができました。この時協力したのが地元勢力の李子春、李成桂の父親です。彼は新羅王朝で司空という役職を務めた李翰を祖とする全州(朝鮮半島南西部)李氏の末裔というのが通説ですが、彼には実は女真人(いわゆる満州人)であるという説があり、その説によると女真人としての名としてウルスブハという名前を持っていたそうです。李子春、李成桂の親子はそれまで元の軍人でしたが、双城総管府攻略の功をもって高麗王朝に就くことになりました。この他、僧侶の遍照が還俗して辛ドンと名乗り、これが高麗王朝に仕えて重用されます。恭愍王は門閥を弱め、その為に人材を広く集めて反元闘争を開始したのでした。もちろん、この挙は元帝国皇后の奇氏にはたまったものではありません。中国・朝鮮における粛清というものは、本人だけではなく五族、九族皆殺しが当たり前のように行われます。女子供は関係ありません。高麗に自らの寄る辺を失った奇皇后が復讐に走ることを止めることはできないかと思います。
 ただ、この頃は紅巾の乱の最盛期で、元朝も手が付けられなくなってきている所でした。高麗にもその一派が流れ込んできて王府である開京を一時占領しますが、この時は李成桂らが反撃して王府を奪還します。
 奇皇后が夫のトゴンテムル(順帝)の尻を叩いて恭愍王を廃位させ、高麗征服に乗り出したのは1363年のことでした。しかし、咸興平野(咸鏡南道)に差し掛かったところで、李成桂と戦いになり敗北するにいたります。その前年に応天府では朱元璋が呉王を名乗っており、江南の反元勢力に加えて朝鮮半島においても騒乱の種が増え、これに耐え切れなくなって元帝国は北に撤収することになります。

 李成桂が軍事的にチートな活躍をしている間、内政で頑張っていたのが僧侶出身の辛ドン(日屯)でした。彼は父親不詳で母親は桂城県玉川寺の奴婢であり、王に見出されて長大な肩書きを付けながら、元帝国からの自立を唱える恭愍王の政策を内政から支えておりました。とは言え、奇氏粛清や双城総管府攻略は巨大な権力の空白を生み出します。その再分配の調整は既存勢力と新勢力をどのように組み合わせるか、難しい問題は自分で預かるほかはなく、その結果肩書きだけが長くなってゆきました。普通の貴族ならこういう負担に対しては門閥を作って分担対処が曲がりなりにも可能なのですが、恭愍王から政策の実行を丸投げされた彼には政策スタッフは自分で作るほかはなく、それを行うにはまるで時間が足りませんでした。それでも改革を進め、適正な再分配を施すには自らの手に権力を集中させるほかありません。それを見透かされて、彼は誣告され、失脚に至ります。
 辛ドンは水原に流された後、1371年に処刑されます。その三年後に彼の主君の恭愍王も暗殺されて後を追うことになります。

 辛ドンのような失脚のパターンは良くあることですし、実際に彼がどんな役割を果たしたかはよくわかりません。問題は彼が僧侶出身であるということでした。しかも、元々の身分が低いこともあり、徹底的に悪魔化されることになります。それは旧来の門閥貴族から向けられていた物だけではありませんでした。その誹謗の最悪の物は彼と同時期に恭愍王に仕えた者の口から恭愍王の死後に放たれたものでした。

Photo_2

|

« 中漠:東亜動乱編④日明交易と禅宗の変質 | トップページ | 中漠:東亜動乱編⑥朝鮮王朝の成立と廃仏運動 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/61062504

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:東亜動乱編⑤バヤンテムルの高麗回復運動:

« 中漠:東亜動乱編④日明交易と禅宗の変質 | トップページ | 中漠:東亜動乱編⑥朝鮮王朝の成立と廃仏運動 »