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2015年2月22日 (日)

中漠:林下編②わらしべ大徳寺

 本稿では大徳寺という寺院について語ります。
 一山一寧と西澗子曇以降に来朝した禅僧たちを元系渡来僧と言ったりしますが、彼らはほぼ浙江省の南人だったりします。そもそも禅宗というものは、独学で勉強できるものではないので、子弟の結びつきが非常に強固なものだったりします。元朝は大都を首都とし、五山のある浙江省とは少々離れているのですが、日本は大都よりも寧波の方ばかりを見ておりました。そこに五山があったからです。貞時以降の執権たちも、中国に禅僧が健在であることを知ると、禅僧の招聘を再開します。

 逆に蘭渓道隆以来、日本から中国に渡って留学し、本場の寺で修業して印可を受けようと考える人々もいました。日本僧、雪村友梅などは元の官憲に日本のスパイと疑われて成都に流されたこともあったりします。彼は一山一寧の侍童をするという経験を有しておりました。この一山一寧や蘭渓道隆らも日本側からスパイとして疑われていたこともあるのです。可能性として、雪村友梅が日本側のスパイであったことは完全には否定できないでしょう。
 人の交流があるところ、物資やお金も流れます。本稿では省いているのですが、京、鎌倉のほかに、禅宗の日本における入り口として博多があります。栄西が日本に禅宗を持ち込んで最初の布教拠点にしたのが博多でした。それ以後、蘭渓道隆などの中国の禅僧が日本に来る時にはまず、ここに腰を落ち着けてから、京・鎌倉へと向かったわけです。

 博多から京に向かう場合は瀬戸内の水路を使います。その途中に播磨国があるわけですが、ここの出身者で、禅道を極めた人に宗峰妙超という人物がいました。彼は浦上(うらのえ)氏という土豪の一族の者で、高峰顕日、南浦紹明ら国師号をもつ日本人の名僧を師として印可を得ます。彼の禅風は中国のものをさらに突き詰め、峻烈無比なものであったと言います。印可を受けた禅僧は国家が放置しないのですが、この宗峰妙超は自らに乞食同然の生活をする行を課し、それを実践していたのでした。所謂托鉢のことなのですが、現代の京の辻々に立っている小奇麗な坊さんではなく、ぱっと見乞食と区別のつかないような格好でやっていたというエピソードが残っています。
 自らに厳しい行を課す宗峰妙超のために京都の紫野の地に小さいお堂を建てた者がいました。同郷の赤松則村です。播磨国佐用庄赤松村地頭代家の出なのですが、この宗峰妙超に帰依して出家します。法号を円心としました。後に護良親王の令旨を得て鎌倉幕府に叛旗を翻すことになる赤松円心入道でした。

 それから十年のうちに宗峰妙超は花園上皇の帰依を受けることになります。この頃の皇統は二つに分裂していました。持明院統と大覚寺統です。ともに後嵯峨天皇の皇子の系譜ではあるのですが、単純に長子相続と決められない事情もあって、ゴタゴタが続いていました。そこで鎌倉幕府が調停にのりだし、十年ずつ交替で天皇を出すということで手を打ちました。これを文保の和談と言います。花園上皇は持明院統系の上皇で、治世は大覚寺統の後醍醐天皇の手にありました。
 花園上皇は上皇ではありましたが、傍系であるため治天の君ではありませんでした。和談により、後醍醐天皇には持明院統の皇太子量仁親王(後の光巌天皇)が立てられていましたが、それは花園上皇の甥に当たる人物です。花園上皇の直系子孫は皇統から外されていたわけです。上皇とはいっても政治に参与が許されない隠居としての立場だったので、都で評判の宗峰妙超に気楽に会うことが出来ました。その時の宗峰妙超は達磨大師並みに超然とした態度で会見に臨んだようです。そこで上皇が「仏法不思議、王法と対坐す(超訳:仏法だかなんだか知らないが、王法最上位である上皇の前でタメはってんじゃねぇ)」と言うと、宗峰妙超はすかさず「王法不思議、仏法と対坐す(超訳:国王の権威は仏法と比較可能なものではありません。)」と切り替えしました。 この受け答えが気に入って、花園上皇は宗峰妙超の小さな堂を勅願寺にしたそうです。時1324年(正中元年)でした。この勅願寺は号して大徳寺と言います。

 この大徳寺という寺の創建当時の状況や絡んでくる人物をみるに、この出会いのエピソードも単なる、国王の前でも無礼が許される道化の類とはとらえられないのですね。若干の妄想を交えて語りますが、臨済宗の諜報網というのは実在したのかも知れません。となれば、花園上皇は大徳寺を通して諜報網にアクセスできるようになったととらえることが出来るかも知れません。
 傍系という点においては、後醍醐天皇も花園上皇と同じ立場でした。彼の後継の大覚寺統皇子は邦良親王と言い、後醍醐天皇の甥に当たる人物です。また、文保の和談で定められた在位十年の期限も迫っていました。そこで彼は討幕運動をするのですが、 その試みは、結局失敗して後醍醐天皇は隠岐に流刑になります。その時、帰国の途についていた雪村友梅と同道していた明極楚俊という渡来僧が後醍醐天皇の復位を予言したなんて話が残っています。当時の複雑な政治状況を整理したうえで、的確な予見をなせるというのは、よほどの霊感の持ち主でないとすれば、優れた諜報網にアクセスできたからなのではないか。そんな風に思えます。

 流刑になった後醍醐天皇を救うべく、立ち上がったのは西国武士団でした。楠木正成と赤松円心入道則村です。鎌倉幕府は楠木正成に対して圧倒的な軍勢で囲みますが、攻め切れません。その間に播磨で挙兵した赤松円心は一気に京を目指していいところまで行ったのですが、撃退されて摂津国国境近くの山城国山崎まで引きます。その間に山陰方面に幕府軍として出陣していた足利高氏が後醍醐天皇方に寝返って、幕府の京都における拠点、六波羅探題を落としました。これをもって後醍醐天皇の復位がかなったのです。それに伴い、後醍醐に変わって玉座に合った持明院統の光巌天皇は、後醍醐の甥で立太子されていた大覚寺統の康仁親王とともに、廃位されていました。

 復位した後醍醐天皇は、赤松円心が建てた小さな堂から始まり、持明院統の花園上皇が勅願寺にした大徳寺を鎌倉幕府が選んだ五山に変わる新五山に選んだのです。あわせて自らが創建した南禅寺もこの五山の中に入っているのですが、親政を行っている後醍醐天皇の権勢にくらべれば、持明院統傍流の花園上皇の権勢は余り大きいものとは思えません。にもかかわらずこのような特別扱いを行った意図とは、おそらくは宗峰妙超を通した諜報網に対する報酬であり、花園上皇は後醍醐天皇の同志であり、赤松円心はその実働部隊長だったのではなかったでしょうか。

 赤松円心は播磨国守護を望みましたが、後醍醐天皇はそれを認めず、播磨国佐用庄の安堵のみに留めました。これは後醍醐天皇が赤松円心よりも、宗峰妙超を賞せば充分に報いたことになると考えたのやも知れません。赤松円心は恩賞に不服のまま播磨に帰り、足利尊氏の叛乱に参加します。後醍醐天皇方は一度はこれを撃破。足利尊氏は九州に落ち延びます。これを追って新田義貞が西下しますが、これを阻んだのが赤松円心でした。

 この段階に至って、後醍醐天皇は大徳寺に対して宗峰妙超ゆかりの地である播磨国浦上庄を寄進しています。おそらくは円心に通じる宗峰妙超を味方に引き込む工作なのでしょう。その際、宗峰妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配することを申し出、天皇は了承します。宗峰妙超の一族である浦上為景は浦上庄半分地頭職となりました。それから間もなく、後醍醐天皇は敗北し、吉野で南朝を立てることになります。赤松円心は晴れて播磨国守護の座を手に入れました。その赤松円心が一族の菩提寺として、赤穂に建てたのが金華山法雲寺です。そこに開山として招かれたのは、かつて元に留学していた雪村友梅でした。これらの動向をみるに、赤松円心入道則村は臨済宗人脈のかなり深いところにいたと言えるかも知れません。

  浦上為景の一族は、後に赤松家の被官となります。赤松円心の子孫の赤松満祐が公方足利義教を暗殺したため、一度没落します。その御家再興のために後南朝に偽って投降し、後南朝の皇子を殺害して三種の神器を奪いました。その投降が可能であるのも、南朝にゆかりのある大徳寺のコネクションがあったのかも知れません。戦国期においては、浦上一族は赤松氏を凌駕する戦国大名となり、宇喜多氏勃興の母体ともなるのです。

 ともあれ、後醍醐天皇は九州からの足利尊氏の東上を押しとどめられず、比叡山に籠もるも降伏。虜囚となるも吉野に落ち延び、そこで南朝を立てます。大徳寺はこの最終段階で足利側につかなかったが故に、五山を中心とした臨済宗禅林の秩序から一度外され、林下と呼びならわされる羽目に陥ります。以後はかつて高峰顕日からともに学んだ夢窓疎石と足利氏による新たな宗教史が築かれることになるのです。

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