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2015年2月 8日 (日)

中漠:東亜動乱編⑥朝鮮王朝の成立と廃仏運動

 1374年高麗の恭愍王は反元派の宦官に暗殺され、その子の王ウ(示禺)が十二歳で王位につきます。この頃朱元璋は倭寇対策として海禁策に踏み出します。この頃の倭寇は朝鮮半島の内陸部にも進出していたようで、全羅南道の智異山や全羅北道の南原に倭寇が籠もっていたらしいです。私は倭寇というのは海賊で、倭寇退治というのは船を仕立てて海賊船を追い込むものを想定しておりましたが、実際は陸戦だったのですね。これに李成桂が戦いを仕掛けて破るわけですが、チートな李成桂は結果をだし、その武名は上がってゆきます。この時点で李成桂に勝てる武人はこの国に一人もおりませんでした。

 対元戦争の英雄としてはもう一人おります。それが崔瑩でした。1361年の紅巾軍の乱入や1364年の元軍の侵攻を防いだのも彼です。彼は娘を王ウに嫁がせていました。李成桂の出自が元軍所属の軍人だったことに対して、崔瑩は生粋の高麗人でした。なので、彼が李成桂を使う立場であったとしても何ら問題はないと思います。
 朱元璋が元帝国を駆逐して明を打ち立てると、今度は高麗と国境を接することになります。高麗と明は誼を通じていたとはいえ、実際に国境を接するとならば具体的にどこからどこまでが高麗領なのかはっきりさせる必要がでてきます。
 大明帝国は高麗に対し、鉄嶺(元中華人民共和国遼寧省)というその当時高麗領だった土地の以北を明の領土とし、これの割譲を迫りました。領土問題はいつの時代も簡単にかたづくものではなく、崔瑩は明の領土である遼東へ、先に進出・確保して交渉材料にすることを企図します。李成桂はこれに反対しますが、崔瑩は王ウを動かして押し切ります。李成桂は曹敏修とともに、軍を率いて北上を開始するのですが、この軍が鴨緑江で反転し、開京を包囲します。李成桂のクーデターでした。これを威化島回軍と言います。王ウは息子の王昌に譲位し、崔瑩は処刑されます。この王昌擁立の工作を行ったのが曹敏修でした。新王擁立で主導権を取ることによって、李成桂と新王の間にうまく割り込んだのでした。しかし、逆に言うと今度は曹敏修が崔瑩の立場に立たされたとも言えるわけです。彼も軍事的な貢献は高く、威化島回軍で見せた通り政治的なセンスも持ち合わせた人物ですが、李成桂の野心と容赦のなさを甘く見ていた感はあります。と言うか、政変の共謀者であり自分を敵に回して周囲を味方につけることができる名分などあり得ないと思っていたのでしょう。それは一面正しくはありましたが、結果は彼の致命傷となりました。

 李成桂が曹敏修を陥れ、政治的主導権を取るために取った手段はえげつないことでした。それは十八年前に処罰された僧出身の辛ドンを徹底的に悪魔化する行いでした。すなわち、王ウは実は先々代恭愍王の子ではなく、辛ドンと前々王妃との間で密通した結果の子であると宣伝したのです。それはつまり、前王のみならず、現王である王昌の王位の資格を否定するものでした。そして王族である定昌府院君を押し立てて二度目のクーデターを謀ったのです。
 曹敏修は一年足らずで失脚、王ウと王昌親子はともども処刑されるに至ります。そして、即位した定昌府院君は恭譲王を名乗るわけですが、これは臣下ナンバーワンである李成桂に王位を譲るためにだけ存在を許された王でした。彼も数年で禅譲を行い、間もなく一族ごと殺害されることになります。

 朝鮮半島のことわざに水に落ちた犬は叩けという言葉がありますが、辛ドンは王に死の処罰を受けた後、新たに密通の罪を着せられたわけです。この時代の裁きですから、証拠があったとは思えません。その本当にあったかどうかわからない罪を強弁することでしか正当性を担保できなかったわけです。故に、彼の人格は捻じ曲げられて、王政を壟断した末期ロシアのラスプーチン的な怪僧に仕立て上げられていったわけです。

 権知高麗国事李成桂の統治は六年程で終了します。彼には八人の男児がいて、お家騒動を起こしたのです。李成桂は末子の李芳碩を後継者としようとしていましたが、兄たちが結束してクーデターを起こしました。このクーデター事件で太祖は次男(長男は既に没していました)の李芳果に譲位し、自らは出家して咸鏡道に隠遁します。咸鏡道は父の李子春がいた父祖の地でありそこに引きこもってしまったわけですね。引退したとはいえ朝鮮半島の覇者となった李成桂の名望は侮れない者でした。
 クーデターを敢行した李芳果の政権も安定しません。それまで太祖の王子たちは私兵を持つことを許されていましたが、これを李芳果が取り上げようとしたことをきっかけに再び兄弟間で諍いが勃発し、四男李芳幹が粛清されて李芳果も退位するという結末になりました。この事態を収拾したのが五男の李芳遠で、彼は李芳果に代わって権知高麗国事となります。この頃、ようやく明からの冊封が認められ、李芳遠は正式に朝鮮王に封じられ太宗と名乗ります。王都漢陽を何とか安定させた太宗が次に取り組まねばならなかったのが父李成桂対策です。

 李成桂は故郷で出家したはずなのですが、出家の地である咸鏡道の咸興は不穏な空気に満ちておりました。彼はクーデターを起こして末子李芳碩を粛清した李芳果と太宗を憎んでおりました。彼らは李芳碩とは母親が異なり李成桂は末子の方の母親神徳王后を愛していたようなのですね。その咸鏡道で神徳王后の親族である趙思義が、地域の豪族たちを従えて蜂起します。この反乱に李成桂は関与していたのでしょう。朝鮮王に即位した太宗が李成桂に使者を遣わして自分を李成桂の後継者として認めるように何度か求めたのですが、その使者は悉く帰ってくることはなかったという話が残っています。1402年に太宗は趙思義の反乱を鎮圧し、それと同時に李成桂と太宗は和解し首都漢陽に戻ることになりました。
 和解と言っても実態は幽囚であったと思われます。帰還後の李成桂は京畿道の逍遥山で念仏三昧をしたと言います。その目的は不遇に死んだ神徳王后の子供たちの菩提を慰めるためであったそうです。

 太宗にとって李成桂は父であり、新たに導入された朱子学の見地から言って自らの正統性を担保するためには兄弟に対して行ったような粛清はできませんでした。その李成桂が行う念仏は太宗には呪詛のように聞こえたのではないでしょうか。そして辛ドンの「姦淫」事件と李成桂の幽閉はその後の朝鮮王朝における仏教政策にも反映されてしまいます。

 1407年、第三代朝鮮王太宗は、仏教寺院を十二宗八十八寺に限定します。それは李成桂が死ぬ前年のことでした。その翌年、李成桂は仏教徒として亡くなるわけですが、彼は朝鮮王国の太祖と諡号されて儒教の宗廟にまつられることになりました。李芳碩の母である神徳王后は李芳碩粛清の前に亡くなっており、漢陽城内の墳墓に葬られておりましたが、李成桂の死と共に太宗の手によってその墳墓は破壊されたそうです。
 さらに1424年には第四代朝鮮王世祖が、仏教寺院を二宗三十六寺にまで削減するに至ります。蓮如一人が一代で作らせた一宗の寺院の数と比べても凄まじい数にまで減らされております。
 日本が新たな仏教知識を求めて明に使節を送り込んだのはほんの二十三年前に当たります。代わりに朝鮮王朝が取り入れたものは朱子学でした。南宋の時代に禅宗を導入した日本でしたが、戦乱の断絶があり、改めて禅を学ぼうとした日本にとって、既に大陸も半島も、昔日の仏教を崇めていなかったという現実が突き付けられたわけです。

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