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2015年3月29日 (日)

中漠:林下編⑦一休の生い立ち

 本稿からしばらくの間一休宗純について触れてゆきます。一休宗純は大徳寺住持を務めたこともあり、妙心寺派ともかかわりがありますので彼の人生に絡めて両宗派の動向を描いてゆければとおもいます。
 叢林は京・鎌倉にある五山を頂点として足利直義・夢窓疎石の折に敷かれた安国寺・利生塔建立構想から始まる全国末寺化が進んでおりその経済基盤は強固なものとなっておりました。もう一方の一休宗純が属する林下の方は自力で檀家を開拓してゆかねばなりません。内戦が終息に向かうにつれてその実力差は顕著になります。実の所、大徳寺も妙心寺も室町幕府の勢いが盛んな時代はほとんどと言っていいほど振るいませんでした。この二教団が強大になるのは、戦国時代になってからであり、その折に叢林と林下の力関係は逆転するのです。天下をとった林下は宗峰妙超・関山玄恵以降の歴史を可能な限り飾ることを試みます。
 考えてみれば、花園上皇は持明院統の傍流であり、赤松円心も佐用荘の土豪あがりの新興勢力でしかなく、大内義弘は京に地盤のない外様です。京にしっかりと根を下ろしたパトロンを得ない限り、傍流は傍流でしかありませんんでした。そんな中で、大徳寺を大きく見せたい期待をこめて伝説化していったのでしょう。

 一休宗純は後小松天皇の後胤であるとの説が有力です。と言うか宮内庁もこれを認めていて、京田辺市にある酬恩庵にある一休宗純の墓は陵墓として宮内庁の管理下にあります。一休宗純の真筆の書や、著作である狂雲集にもそのことをほのめかすくだりがあったり、公家の日記にもそういう噂がでていたりもします。ただ、実際どうだったのかはわからないのです。落胤説に立つ系図資料においては、一休宗純の母親は楠正儀の娘とも、日野氏の出とも言いますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、一休宗純は後小松天皇の皇嗣である称光天皇やその弟宮である小川の宮よりも年上です。彼らが生まれる前から僧籍に入れられておりました。ということは、仮に皇胤であったとしても、母親の身分は高くなかったことは間違いのない所でしょう。
 極めつけは江戸期の新井白石の読史余論です。後小松上皇が子の称光天皇が病弱であることを心配して庶子の一休宗純を還俗させようとした時、一休宗純はこれを断り、伏見宮家に皇統をつなぐことを勧めたとあります。伏見宮家は南朝に拉致されて退位を余儀なくされた崇光天皇の家系です。伏見宮家は拉致という不慮の事件で皇位を奪われたことで、逆に立場を強くし、天皇が代を重ねても伏見宮家は宮家、すなわち皇族として代々存続することが許され、結局昭和の敗戦後に臣籍降下を強いられるまで皇統予備軍として存続しておりました。

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 江戸時代になって書かれた読史余論をまま信じるのはどうかとも思うのですが、もしこれが事実であれば、崇光天皇の血統に皇位を戻した一休宗純は今の皇統の恩人とも考えることができます。
 一休宗純の人となりは一言で言うと風狂の人であり、毒をもった人間です。その言動の多くは既存の秩序を否定しております。比較的に人口に膾炙したフレーズを引用するならば、『門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』と、正月に浮かれる庶民に対して毒を吐いておりますね。江戸時代ならきっと野暮天扱いされておるでしょう。そのような人物が仮に宮内庁も認める貴種であることが事実であれば、その人格はいかにして育まれたのかは非常に興味をひくものとなります。できすぎと言えるくらい興味深い人生です。

 彼が幼少の頃、最初に入ったのが四条大宮にある安国寺でした。彼に付けられた最初の法号は周建です。足利直義が洛中に建てさせたもので、十刹の寺格をもっておりました。住持は像外集鑑と言い、江戸時代に作られる一休とんち話の舞台はここになるわけですね。ただし、実際の歴史は小僧である周建に虎退治のようなとんちで解決させる活躍の場は与えませんでした。むしろ、彼は詩作に励みその詩は洛中の評判を得るに至ります。本当に貴種であれば、そして本当に将来を嘱望されていたなら、安国寺が周建小僧を手放すことなどないと思います。真面目に修行をしない叢林の禅風に失望したという説もありますが、ここでは少し、この年の政治状況を見てみます。

 この年の五月に前管領斯波義将が亡くなっております。そして、孫の斯波義淳がその翌月に管領職を退き、代わりに畠山満家が就任します。普通に考えると斯波義将が死んで政権基盤を失った斯波義淳が失脚しただけのようですが、明徳・応永の乱において斯波家管領は乱の勃発前にその職を退き、荒事が終わった後に復職するというパターンを繰り返しております。この法則に従うと、この年の前後に荒事があると疑うべきでしょう。
 この年に起こった荒事としては、大覚寺に入っていた旧南朝の後亀山法皇が京を出奔して吉野に再び下ってしまう事件がありました。
 その原因は、持明院統の後小松天皇が幕府と南朝との間で取り結ばれていた両統迭立の約束を無視して、自らの皇子である躬仁親王を跡継ぎにしようと画策したことにあったのです。後亀山法皇の吉野行幸はそれに抗議してのものでした。
 この時、持明院統と大覚寺統との対立が再燃していたわけです。一休が後小松天皇の皇子だとすれば、ここで朝廷や幕府の目が届く十刹の寺の外に出すとは考えにくいのですね。普通に考えて庶子である一休が皇位につくことはあり得ないのですが、後小松天皇の先々代にあたる後光厳天皇の践祚自体があり得ないことであったことが忘れられていたわけではない筈です。当時足利尊氏が南朝に降ったために、南朝軍が京を一時占領し、持明院統の崇光天皇を始め皇族ことごとく拉致したのです。その折、弥仁親王は僧籍に降る予定だったため、南朝の目から免れて持明院の皇統は辛うじて繋がれたのでした。
 ともあれ、持明院統が唯一の皇統になるかならないかの転機において、周建小僧は安国寺を出たわけです。そして落ち着いた先は応永の乱に連座して潰されたとされる妙心寺派の寺であったのですね。この時期の後小松天皇の皇子にそのような行動の自由があったかどうか、これは考察すべき一要素であるかと思います。

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2015年3月22日 (日)

中漠:林下編⑥妙心寺倒産

 前二稿において、征服王としての足利義満の事績を縷々のべてきました。この流れと林下との絡みについてですが、実の所ほとんど接点はありません。
 ただ、妙心寺六世住持拙堂宗朴が大内義弘と師壇の関係にあり、足利義満が拙堂宗朴に縁を切ることを迫りましたが、拙堂宗朴はこれを拒んだがために、弾圧を受けたという事件が起きました。妙心寺は花園上皇の帰依を受けた宗峰妙超が自らの死後に花園上皇の修行を助けるために弟子の関山慧玄を推挙したことに端を発する大徳寺の姉妹寺です。
 その妙心寺は足利義満に潰されて、後に残った寺地は龍雲寺と改称させられて南禅寺塔頭徳雲院に接収させられてしまいました。加えて拙堂宗朴は青蓮院に幽閉されてしまいます。妙心寺の住僧たちは京での拠点を失って地方に逼塞することを余儀なくされます。洛内には姉妹寺である大徳寺があるのですが、後難を恐れて妙心寺僧との交流を避けたとのことです。

 ここから先は私見になるのですが、この足利義満による妙心寺連座という説明を疑っております。というのは過去に行われた政治による宗教弾圧の様相が他と異なっているからです。例えば浄土宗の法然は弟子が宮廷女官を勝手に出家させた事件に連座して、流罪に処せられています。当事者の弟子に至っては死を賜っております。ここを先途に浄土系寺院は延暦寺によって破却されていたりします。臨済宗においても蘭渓道隆は北条時頼の手で伊豆に流刑に処せられております。政治による弾圧ではありませんが、足利義満の治世において法華宗の妙顕寺は山門宗徒に襲われて寺院破却。妙顕寺住持の日霽は若狭国小浜に逃れました。と、まあこんな具合に弾圧があった時、住持は流罪や追放、寺院は破却が通り相場となっております。しかるに、妙心寺においては住持は東山の青蓮院に幽閉、寺院建築物は五山別格の南禅寺が接収して叢林寺院として使いまわしがされております。

 妙心寺住持拙堂宗朴は応永の乱を起こした大内義弘の深い帰依を得ていたと言います。事実、五山僧の絶海中津が足利義満の使いとして大内義弘に和議の説得をしたのですが、この交渉が破れた時、大内義弘は自らの死を覚悟して自らの生前葬をし、四十九日法要まで済ませた後に敗死します。大内義弘は故国にある自らが開基した菩提寺に葬られますが、そこの宗旨は妙心寺派臨済宗ではありません。寺院の名は香積寺と言い、宋国から渡来した石屏子介(しっぺいすかい)が開山です。後に兄の汚名を実力で雪いだ大内盛見がここに五重塔を建てているので、生前葬と四十九日法要を営んだのは、香積寺系の僧侶であると考えて差し支えがないでしょう。

 となると、大内義弘と拙堂宗朴との接点があまり見えてこなくなるのですね。大内義弘は明徳の乱鎮定の功績で和泉・紀伊国二ヶ国を拝領し、畿内に足がかりを得たわけですが、そこで洛中洛外に拠点を持つべく動いたはずです。てっとり早く言えば寺社の檀家となり、支援をすることで京との連絡網を構築したのではないでしょうか。石屏子介は五山に籍があったようですが、渡来僧であり日本に人脈を持っているわけではありませんので、宗派や法脈を問わず探していたのかもしれません。
 先行事例としては赤松円心が大徳寺に寺地を提供したようなものです。妙心寺は大徳寺と姉妹寺であり、大徳寺は後醍醐天皇に五山として認められていたこともありますが、妙心寺がそうであったわけではありません。曹洞宗のように宗祖のカリスマと日本達磨宗系の厚い人脈をこの頃持っていたわけではありませんでした。ですので、大内義弘のような西国の有力者がスポンサーを探しているとなれば、拙堂宗朴が自ら名乗りを上げたとしても、不思議ではありません。

 それが応永の乱で大内氏が没落し、大内氏からの支援が途切れてしまったのです。そのために、資金源を失い、妙心寺は経営が出来なくなったのかもしれません。だとするならば、これは政治による宗教弾圧ではなく、純粋に経済的な理由による倒産であったのではないでしょうか。そう考えるのならば、破産した債務者である拙堂宗朴は弟子たちに借財を返済させるために身柄を青蓮院に拘束され、寺院などの建築物は借金の担保として南禅寺に接収されたと考えるのならば、拙堂宗朴が流罪・追放されたり、寺院が破却されたりしなった理由もつくように思われます。
 もっとも、例えば大内義弘が妙心寺に和泉・紀伊の領地の寄進を行っていて、大内没落後に拙堂宗朴が足利義満に逆らったため、寄進地を新領主に引き継げなかったといこともあり得ます。何より、拙堂宗朴を幽閉した青蓮院には足利義満の息子の春寅(応永乱勃発時六歳。のち青蓮院門跡義円、第六代将軍足利義教)がいて、妙心寺寺院を接収した南禅寺の廷用宗器は足利義満の弟なので、足利義満が妙心寺を乗っ取るために仕掛けたと言えなくはないのですが、足利義教の代になって、これを妙心寺後継の日峰宗舜に返還してもいるのです。これは債務返済が終わったためと考えられなくもありません。
 後に妙心寺は復興し、勢いを盛り返すどころか日本一の臨済宗集団にまで成長します。その折に、妙心寺は大徳寺の茶面(ちゃづら)に呼応して算盤面(そろばんづら)とその経理面の有能さを揶揄されるようになるのですが、教団が一度倒産した経験があるとすれば、それもうなずけることでありましょう。

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2015年3月15日 (日)

中漠:林下編⑤征服王Ⅱ

 明徳の和約がなり、両統てい立を条件に後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を譲り渡して、南北朝が合一した翌年、後円融院が崩御します。これにより、足利将軍の権威は南北両朝を凌駕するまでに高まりました。

 今谷明氏の説に、足利義満は朝廷を解体して自らが皇位につこうとしたという内容のものがあります。その真偽は判じかねますが、足利義満の征服欲はとどまるところを知りません。その準備として、細川頼元に替えて、斯波義将を再び管領に起用します。斯波義将を逼塞させ、土岐を潰し、山名を潰したのは偏に南北朝合一の過程で横槍を入れられることを嫌った為のように思われます。そして、斯波義将管領復職の翌年、足利義満は征夷大将軍の座を嫡男義持に譲り、自らは北山第(現在の鹿苑(金閣)寺)に移ります。これは隠居ではなく、自らの存命中、政務は義持には一切取らせずに、自らが北山第にて行いました。

 北山第にて練られた政策の第一目標は九州にありました。そこは、九州探題今川了俊が支配する王国でありました。今川了俊の九州探題任命は、康暦の政変以前に細川頼之によってなされました。それ以前は斯波氏から九州探題が任命されていたのですが、当時九州を制覇していた懐良親王の勢力を排除するどころか、九州にも到達できない体たらくだったのです。今川了俊は防長二州を領する大内氏を味方につけることに成功し、九州征服を完了しておりました。斯波義将にとってはそれは苦い思い出だったろうと思われます。なぜなら、失敗した斯波家(当時は足利尾張守家)の九州探題とは義将の兄、氏経だったからです。

 足利義満には九州を治めなければならない目的がありました。それは、自らの手で使節を明国に送ることです。その為には自らの権力基盤を強化する必要がありました。それはすなわち、地方諸侯の干渉が入る可能性を一切排除することでもあります。今川了俊が幕府の為に行った統一事業の功績は大なるものがありましたが、足利義満はその果実のみを手にしたかったわけです。
 斯波義将には細川頼之亡き今、九州探題を頼之が任命した者に続けさせたくはありませんでした。この点で、足利義満と斯波義将の利害は一致したわけです。

 今川了俊は京に呼び戻され、九州探題職を罷免されました。彼は今川宗家・一門ともども、領国である遠江・駿河に封ぜられます。以後の今川宗家歴代ですが、菩提寺の位置が、代替わりの度に現在の袋井市・島田市・藤枝市・菊川市・静岡市と駿府のある静岡市にまで達するのに五代を経ております。これが意味するところは、この二ヶ国は封ぜられていても、地場勢力の力が強くて今川氏といえども領主権の確立に時間がかかった為であると思われます。了俊はそのような難治の地に封ぜられたわけです。後世今川家は東海に強力な軍事力を振るうに至りますが、この時点では地場勢力の懐柔から始めなければならなかったわけです。

 今川家を九州から排除した後、次のターゲットとなったのは大内氏でした。
 大内氏は古代、朝鮮半島西南部に版図を有した百済の聖明王の子孫を先祖に持つと称しております。聖明王は日本に仏教を伝えた人物と知られてはいるものの、武家の家格は源平藤橘が主流だった中にあって、異国の王族を先祖と称することは珍しいケースです。これは初期の大内氏にとって武家であることよりも、海外交易に利権を持つことが重要だったことの所作ではなかったかと私は考えます。
 大内氏が躍進するきっかけになったのは、中国・北九州地方の政治情勢でした。建武新政以後、北九州は菊池武光が後醍醐天皇との連携を保っておりました。菊池氏は元寇の折に日本防衛の為に戦った一族です。時の当主菊池武季が残した合戦絵巻物が教科書なんかに載っていて知られていますね。そこに現れたのが、叛乱を起こして京都での戦いに敗れ落ち延びてきた足利尊氏一党です。当然後醍醐天皇は足利尊氏を討つ様に菊池武光に命じました。一方の足利尊氏は少弐氏を頼ってこれに対抗、多々良浜で激突します。菊池氏はこれに敗退するのですが、足利尊氏はそのまま上洛します。中国・北九州地域に変わってやってきたのは足利直冬です。彼は足利尊氏の長男でしたが、父に愛されず、足利直義の養子として扱われた微妙な立場の人物でした。彼は九州探題の任を与えられ、少弐氏の協力を得て九州に勢力を張り巡らせますが、間もなく足利尊氏と直義が壮絶な兄弟喧嘩を始めてしまいます。足利直冬は直義方として参戦、戦乱の中で九州における勢力を失います。その後、直冬は中国地方に勢力をはる山名・大内氏の庇護を受けることになります。足利直義は敗北しますが、その過程で直義党は南朝方につくことになりました。

 そんなわけで大内弘世は南朝方だったのですが、九州探題の斯波氏経が九州の戦いで敗れて落ち延びてきた時にこれを保護したことを縁に幕府に帰参。以後、派遣されてきた今川了俊の九州征服事業に協力して、勢力を拡大してきたわけです。嫡男の大内義弘の代には、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護を兼ねるに至ります。ちなみに和泉と紀伊は明徳の乱で山名氏からぶんどったものでした。
 大内義弘にとって、今川了俊は九州平定の頼れるパートナーであり、彼のおかげで平和の配当を入手できたようなものでした。明国は南朝の懐良親王を日本国王として遇し、使節を送っておりましたが、これを捕らえて幕府主体で明国と交渉を行っていた矢先、今川了俊が京に召喚されて、遠江半国に封ぜられてしまったのです。これは大内義弘にとっては片腕をもがれたに等しい状況でした。大内義弘は後任の九州探題を望みましたが入れられず、渋川満頼が送り込まれました。彼は前管領細川頼之のライバルであった現管領斯波義将派であり、彼の大叔母が足利義満の母、渋川幸子でした。おもしろくない大内義弘は反義満連合を組織するようになります。構成員は、今川了俊、関東公方の足利満兼、土岐詮直、佐々木秀満らでした。
 それを察知した足利義満はあらん限りの手を使って、この反対勢力を圧迫し、挑発します。そこで切れてしまったのが大内義弘でした。このメンバーの中で煽り耐性が最もなかったようです。
 挙兵はしたものの明らかに準備不足であり、明徳の乱で山名氏に完勝した義満にとって、それは各個撃破の餌にすぎませんでした。反幕府勢力は一掃され、足利義満に逆らえる者は武家と南朝を含む公家を含めてだれもいなくなったわけです。

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2015年3月 8日 (日)

中漠:林下編④征服王Ⅰ

 建武の乱で大徳寺が没落してから以後、応永の乱で妙心寺が潰されるまで、はっきり言ってこの両寺について、書くことはあまりありません。洛中幕府編において、足利義満の事績を康暦の政変まで描写しておりますので、そこから応永の乱にいたるまでの流れを少し書かせていただきます。

 康暦の政変は足利義満にとって、実質的な政治デビューのきっかけでありました。それ以前に花の御所を造営し、細川頼之の影響下から脱しようと試みてはいますが、この時期を含めて、管領細川頼之支配の時代であったと言って差し支えありません。康暦の政変において、細川頼之が機能不全に陥った折に、足利義満は配下の守護たちを制御しようとしましたが、上手くいきませんでした。それどころか、斯波、佐々木、土岐らに館を囲まれて細川罷免を強いられるという苦汁を呑みました。
 斯波義将は、京を辞して阿波国に戻った細川頼之を追撃しようとしますが、これに抵抗したのが足利義満の最初の政治闘争だったと言ってよいでしょう。この討伐計画は細川頼之が自軍をすばやく結束させて、敵を見事に撃退したために、失敗に帰しました。斯波義将はさらなる追撃をしようとしましたが、足利義満が反対したために、頓挫したのです。
 斯波政権は花の御所を囲んだ諸侯による政権でした。佐々木高秀だけはそこに加われておりませんが、将軍になった最初の十年余りを細川頼之に委ねたのに引き続き、次の十年余りを斯波義将に牛耳られておりました。足利義満は間違いなく第一級の政治家ではありますが、それは細川頼之と斯波義将の執政を克服したのちの話となります。

 もっとも、この頃の足利義満は後円融上皇の后や愛妾を寝取ったのではないかなどとの噂もたてられております。これに後円融上皇は疑心暗鬼になり、皇后である三条厳子を突然打ち据えたり、愛妾の按察局を追い出したりする事件を起こしております。もとより北朝は幕府の庇護がなければ成り立たない体制ではありましたが、康暦の政変後足利義満は皇室にターゲットを定め、朝廷が行う儀式の取り仕切りを自らの手で行うようになりました。朝廷は幕府なくしては成立しえない体制から、一歩進めて天皇がいなくても機能する体制へと移行しつつあったのです。康暦の政変で細川頼之が失脚することによって南北朝の合一は十年以上遅れることになりましたが、足利義満がここで皇室の権威をとことんまで貶めることによって、後に合一の条件とした両統迭立の約束を破ってしまっても問題を大きくせずに封殺する可能性が開けたのです。

 もう一つの障害は管領斯波義将を取り巻く守護大名たちでした。足利義満はこれを各個撃破してゆきます。
 最初にやり玉に挙がったのが土岐康行です。彼は、土岐頼康の子で頼康は花の御所包囲組の一人でした。この時、土岐頼康は美濃国だけではなく、伊勢国、尾張国の守護を兼務しておりました。1387年(嘉慶元年)土岐頼康が亡くなるのですが、足利義満はその相続に介入し、同族を戦わせる挙にでます。この手口は後になって足利義教が多用するのですが、その嚆矢となる事件です。
 相続を決めた翌年三月に足利義満は厳島神社を参拝します。この時の警護に功があったとしてかつて追放した細川頼之を赦免しました。パフォーマンスめいた行いから、それ以前に足利義満と細川頼之との接触はあったとみてよいでしょう。してみると、相続介入は細川頼之の入れ知恵である可能性があります。
 介入によって尾張守護の座を手に入れた土岐満貞は美濃・伊勢守護の兄康行と尾張守護代の従兄弟である詮直の讒言を義満に行います。詮直は満貞を討とうとしますが、それが土岐康行討伐の口実を与える結果となりました。結局、土岐康行・満貞・詮直はそれぞれの地位を失い、討伐に協力した同族である土岐西池田家の頼忠が美濃守護を土岐一族惣領として継ぐことになりました。彼が土岐庶流であったことから、土岐一揆の結束は弱体化することになります。しかも、元の惣領である土岐康行が後に起こった明徳の乱で戦功を立てた結果、北伊勢守護の座を取り戻したことから、その立場は極めて脆弱になってしまいました。

 次にターゲットになったのは山名一族でした。日本全国六十六州のうち、一族で十一州の太守を兼任していたため、山名一門は六分の一殿とよばれるまでになっておりました。足利義満は土岐康行の乱が収束しないうちに、山名時熙(備後、美作・但馬守護)と氏之(伯耆守護)の二名を同族である山名氏清(丹波・山城・和泉守護)と満幸(丹後・出雲・隠岐守護)に討つように命令を下しました。山名氏の惣領は嫡系男子が若年のため、末子相続されていたのですが、宗家筋の満幸がこの決定に不満を持っていたのに足利義満がつけ込んだのでした。正確には満幸は嫡子ではなく、義幸という嫡流の兄がいたのですが、彼は病弱なため、惣領を叔父に譲り、領主として室町殿に仕える役目は弟の満幸に任せていたわけです。叔父時義が死んだ後、その所領がその子の時熙と氏之に分割相続されたことで、満幸の不満が頂点に達したわけです。
 山名氏清は先々代の惣領山名時氏の四男で、一門の長老的立場にありました。嫡流の不満を理解し、将軍の命もあって、山名時熙・氏之兄弟を没落させたわけです。
 これにより、山名氏清は但馬・山城を、満幸は伯耆国を新たに得ました。しかし、この過程で細川頼之が許され、土岐康行は没落しておりました。さらに1391年(明徳二年)三月に斯波義将が管領職を辞し、領国の越前に引きこもってしまったのです。これに山名氏清・満幸は不安を覚えます。足利義満は赦免された細川頼之と組んで康暦の政変の復讐をしているのではないか、と。佐々木氏は康暦の政変時から許されておりませんでしたが、土岐・斯波は政変の主役でもあります。そして、山名氏も康暦の政変に与しておりました。その疑心暗鬼から山名氏清は十月に予定されていた将軍を招いた紅葉狩りを病欠し、義満の不興を買います。

 その年の十一月に山名満幸が突如出雲守護の座を剥奪されて、京を追放させられてしまいます。直接の理由は後円融上皇の御料所を横領した咎とのことでしたが、この時点で疑心暗鬼は確信に変わり、山名満幸は氏清を抱き込んで南朝に降伏します。南朝はこれを最後のチャンスとして、満幸・氏清に錦の御旗を授けました。山名氏は一族の存亡をかけて決起します。これを称して明徳の乱と言います。
 明徳の乱そのものは、洛内の内野にて行われたたった一日の合戦で決着しました。ここで山名氏清は打ち取られ、満幸は筑紫まで逃亡、後に捕らえられて斬られます。山名一門には但馬・因幡・伯耆の三国のみ残され、残りはその他の諸侯に分け取りになりました。佐々木高詮(高経)はこの合戦に功があり、出雲・隠岐守護に復帰を果たしております。  明徳の乱終結の翌年、1392年三月二日、細川頼之は死去します。同じ年、幕府と南朝との間で明徳の和約が締結され、南北朝の合一がなりました。

 山名への錦旗下げ渡し直後の和談でしたので、これは実質南朝が北朝幕府に降伏したも同然な条約です。しかし、両統てい立という南朝にとって破格の条件があり、これを呑みました。北朝朝廷はこれには強硬に反対しましたが、それを貫けるだけの力は既にありませんでした。この時点で北朝朝廷を取り仕切っていたのは治天である後円融院ではありませんでした。後小松天皇は父である後円融院ではなく、足利義満の方を頼っておりました。  結果として明徳の和約は空手形に終わるわけですが、それを南朝側が憤っても、彼らを担ぐ勢力はどこにもありません。それは足利義満が実力で排除した結果でした。

 それまで、足利尊氏以来、数多の勢力が入れ替わり立ち代わりしたわけですが、その全てを凌駕して君臨しえたのは、偏に足利義満の実力によるものであったと言ってよいでしょう。その意味で、彼は日本の征服王の称号を得るにふさわしい人物であると言ってよろしいかと思います。

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2015年3月 1日 (日)

中漠:林下編③妙心寺建立

 1336年(建武三年)の足利尊氏の上洛によって、建武の親政は崩壊するにいたります。大徳寺は南禅寺と同じく五山の上位を占めておりましたが、宗峰妙超は後醍醐方に肩入れしすぎておりました。一方の南禅寺は夢想疎石を迎え入れ、足利兄弟の帰依も受けて繁栄の足掛かりを得ます。宗峰妙超はこの転換期に新たな支配者である足利尊氏に好を通じる機会も得られぬまま示寂しました。彼は大徳寺を残しましたが、その他にも残したものがあります。帰依を受けた花園上皇でした。引き続き禅の指導を受けたい花園上皇は病床の宗峰妙超にそのことを相談すると、弟子の一人関山慧玄を推挙しました。宗峰妙超の死後に花園上皇は自分用の修行場を作って遺言通り関山慧玄を住持に据えました。そこが妙心寺です。
 妙心寺が建立された頃の大徳寺は後醍醐天皇が選んだ五山筆頭から転がり落ちる過程にあり、二世住持の徹翁義亨が立て直しを図っている頃であり、花園上皇については関山慧玄に任せきりだったようです。そして事情はよく調べきれていないのですが、関山慧玄と徹翁義亨との仲が険悪なものとなっていったようです。徹翁義亨が大徳寺住持を継いだ後、兄弟弟子数名に住持職を任せた後、大徳寺住持職は徹翁義亨の法系がほぼ独占するようになります。関山慧玄と徹翁義亨は二人とも宗峰妙超の弟子で、兄弟弟子の関係にありますが、関山慧玄は大徳寺住持の座にはつきませんでした。
 「竜宝霊山法度抄」という書物には関山慧玄は宗峰妙超の勘気に触れ、その遺言をもって破門されたという記事があるそうです。奇妙な話だとは思います。花園上皇に関山慧玄を推薦したのは宗峰妙超本人です。宗峰妙超が関山慧玄に弟子たる資格が無いと見なしたならば、妙心寺の住持職も交代させなければ、上皇に対する責任が果たせないはずですが、妙心寺は以後も関山慧玄の法系で運営されてゆくことになります。おそらくは、この記事は後付けの話なのでしょう。

 1341年(暦応四年)、大徳寺は五山からはずされることになります。その翌年に妙心寺は完成し寺内の玉鳳院に花園上皇が入って関山慧玄の指導を仰ぐことになります。現代でこそ、日本最大の禅宗寺院として威容を放っておりますが、この時点においては花園上皇の隠居所という趣だったと思われます。その花園上皇も1348年(貞和四年)に崩御し、その後も禅宗寺院として存続します。
 関山慧玄も1360年(延文五年)に入寂しました。彼の法嗣として妙心寺を継いだ人物を授翁宗弼と言いますが、彼の出自に興味深い説があります。彼は出家前は後醍醐天皇の側近として建武の親政時に恩賞方として采配を振るった万里小路藤房ではないかというものです。建武の親政時の恩賞方と言えば、二条川原の落書きに、「安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛」と言ったものがこの頃都にはやるものと書かれていた通り、恩賞方には裁ききれないほどの訴状が集まって大混乱をきたし、後醍醐天皇も情実人事を許したので、はブチ切れて諫言をしたものの聞き入れられず、失踪したという話です。失踪後の万里小路藤房の行方については諸説あり妙心寺の授翁宗弼と同一人物説はその中の一つに過ぎないものではありますが、この遁世した貴人が妙心寺に入っていたとすれば花園上皇崩御後も寺院が存続した事情も何となく察することはできそうです。

  三代目の無因宗因が住持を務めるようになってようやく寺法が定められたと言います。五山の一つ建仁寺出身ですが、関山派に学びなおして妙心寺を継ぐことになりました。妙心寺は花園上皇の禅宗修行の為に作られた寺院ですが、すでに花園上皇は亡く、貴人の保護も受けられない状況です。不安定な寺院系を安定させる為に妙心寺は有力な檀越を必要としておりました。そこに名乗りを上げたのが大内義弘でありました。彼は周防の国拠点を持ち、観応の擾乱において南朝方についた後、足利尾張守高経が失脚したタイミングで幕府側に帰参した大内弘世の息子です。彼の手元には足利尾張守高経の次男、氏経を捕虜として保護しており、幕府の実権を握っていた時点では帰参がかなわなかったのですが、高経が失脚したことによって、氏経ともども晴れて帰参がかなったようです。
 高経の後、管領となった細川頼之は今川了俊を九州探題に任命し、大内弘世・義弘親子はこれに協力してゆくことになります。大内氏は新羅王族出身と称していて清和源氏ではなく、源平藤橘でもありません。しかも最近幕府に帰参した外様の実力者であり、そんな彼らであるが故に、京に情報拠点を求めていたと見てよいでしょう。それに呼応したのが妙心寺だったわけです。

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