« 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 | トップページ | 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 »

2015年3月29日 (日)

中漠:林下編⑦一休の生い立ち

 本稿からしばらくの間一休宗純について触れてゆきます。一休宗純は大徳寺住持を務めたこともあり、妙心寺派ともかかわりがありますので彼の人生に絡めて両宗派の動向を描いてゆければとおもいます。
 叢林は京・鎌倉にある五山を頂点として足利直義・夢窓疎石の折に敷かれた安国寺・利生塔建立構想から始まる全国末寺化が進んでおりその経済基盤は強固なものとなっておりました。もう一方の一休宗純が属する林下の方は自力で檀家を開拓してゆかねばなりません。内戦が終息に向かうにつれてその実力差は顕著になります。実の所、大徳寺も妙心寺も室町幕府の勢いが盛んな時代はほとんどと言っていいほど振るいませんでした。この二教団が強大になるのは、戦国時代になってからであり、その折に叢林と林下の力関係は逆転するのです。天下をとった林下は宗峰妙超・関山玄恵以降の歴史を可能な限り飾ることを試みます。
 考えてみれば、花園上皇は持明院統の傍流であり、赤松円心も佐用荘の土豪あがりの新興勢力でしかなく、大内義弘は京に地盤のない外様です。京にしっかりと根を下ろしたパトロンを得ない限り、傍流は傍流でしかありませんんでした。そんな中で、大徳寺を大きく見せたい期待をこめて伝説化していったのでしょう。

 一休宗純は後小松天皇の後胤であるとの説が有力です。と言うか宮内庁もこれを認めていて、京田辺市にある酬恩庵にある一休宗純の墓は陵墓として宮内庁の管理下にあります。一休宗純の真筆の書や、著作である狂雲集にもそのことをほのめかすくだりがあったり、公家の日記にもそういう噂がでていたりもします。ただ、実際どうだったのかはわからないのです。落胤説に立つ系図資料においては、一休宗純の母親は楠正儀の娘とも、日野氏の出とも言いますが、はっきりしたことはわかりません。ただ、一休宗純は後小松天皇の皇嗣である称光天皇やその弟宮である小川の宮よりも年上です。彼らが生まれる前から僧籍に入れられておりました。ということは、仮に皇胤であったとしても、母親の身分は高くなかったことは間違いのない所でしょう。
 極めつけは江戸期の新井白石の読史余論です。後小松上皇が子の称光天皇が病弱であることを心配して庶子の一休宗純を還俗させようとした時、一休宗純はこれを断り、伏見宮家に皇統をつなぐことを勧めたとあります。伏見宮家は南朝に拉致されて退位を余儀なくされた崇光天皇の家系です。伏見宮家は拉致という不慮の事件で皇位を奪われたことで、逆に立場を強くし、天皇が代を重ねても伏見宮家は宮家、すなわち皇族として代々存続することが許され、結局昭和の敗戦後に臣籍降下を強いられるまで皇統予備軍として存続しておりました。

Photo

 江戸時代になって書かれた読史余論をまま信じるのはどうかとも思うのですが、もしこれが事実であれば、崇光天皇の血統に皇位を戻した一休宗純は今の皇統の恩人とも考えることができます。
 一休宗純の人となりは一言で言うと風狂の人であり、毒をもった人間です。その言動の多くは既存の秩序を否定しております。比較的に人口に膾炙したフレーズを引用するならば、『門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』と、正月に浮かれる庶民に対して毒を吐いておりますね。江戸時代ならきっと野暮天扱いされておるでしょう。そのような人物が仮に宮内庁も認める貴種であることが事実であれば、その人格はいかにして育まれたのかは非常に興味をひくものとなります。できすぎと言えるくらい興味深い人生です。

 彼が幼少の頃、最初に入ったのが四条大宮にある安国寺でした。彼に付けられた最初の法号は周建です。足利直義が洛中に建てさせたもので、十刹の寺格をもっておりました。住持は像外集鑑と言い、江戸時代に作られる一休とんち話の舞台はここになるわけですね。ただし、実際の歴史は小僧である周建に虎退治のようなとんちで解決させる活躍の場は与えませんでした。むしろ、彼は詩作に励みその詩は洛中の評判を得るに至ります。本当に貴種であれば、そして本当に将来を嘱望されていたなら、安国寺が周建小僧を手放すことなどないと思います。真面目に修行をしない叢林の禅風に失望したという説もありますが、ここでは少し、この年の政治状況を見てみます。

 この年の五月に前管領斯波義将が亡くなっております。そして、孫の斯波義淳がその翌月に管領職を退き、代わりに畠山満家が就任します。普通に考えると斯波義将が死んで政権基盤を失った斯波義淳が失脚しただけのようですが、明徳・応永の乱において斯波家管領は乱の勃発前にその職を退き、荒事が終わった後に復職するというパターンを繰り返しております。この法則に従うと、この年の前後に荒事があると疑うべきでしょう。
 この年に起こった荒事としては、大覚寺に入っていた旧南朝の後亀山法皇が京を出奔して吉野に再び下ってしまう事件がありました。
 その原因は、持明院統の後小松天皇が幕府と南朝との間で取り結ばれていた両統迭立の約束を無視して、自らの皇子である躬仁親王を跡継ぎにしようと画策したことにあったのです。後亀山法皇の吉野行幸はそれに抗議してのものでした。
 この時、持明院統と大覚寺統との対立が再燃していたわけです。一休が後小松天皇の皇子だとすれば、ここで朝廷や幕府の目が届く十刹の寺の外に出すとは考えにくいのですね。普通に考えて庶子である一休が皇位につくことはあり得ないのですが、後小松天皇の先々代にあたる後光厳天皇の践祚自体があり得ないことであったことが忘れられていたわけではない筈です。当時足利尊氏が南朝に降ったために、南朝軍が京を一時占領し、持明院統の崇光天皇を始め皇族ことごとく拉致したのです。その折、弥仁親王は僧籍に降る予定だったため、南朝の目から免れて持明院の皇統は辛うじて繋がれたのでした。
 ともあれ、持明院統が唯一の皇統になるかならないかの転機において、周建小僧は安国寺を出たわけです。そして落ち着いた先は応永の乱に連座して潰されたとされる妙心寺派の寺であったのですね。この時期の後小松天皇の皇子にそのような行動の自由があったかどうか、これは考察すべき一要素であるかと思います。

Photo_2

|

« 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 | トップページ | 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/61354120

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編⑦一休の生い立ち:

« 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 | トップページ | 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 »