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2015年3月22日 (日)

中漠:林下編⑥妙心寺倒産

 前二稿において、征服王としての足利義満の事績を縷々のべてきました。この流れと林下との絡みについてですが、実の所ほとんど接点はありません。
 ただ、妙心寺六世住持拙堂宗朴が大内義弘と師壇の関係にあり、足利義満が拙堂宗朴に縁を切ることを迫りましたが、拙堂宗朴はこれを拒んだがために、弾圧を受けたという事件が起きました。妙心寺は花園上皇の帰依を受けた宗峰妙超が自らの死後に花園上皇の修行を助けるために弟子の関山慧玄を推挙したことに端を発する大徳寺の姉妹寺です。
 その妙心寺は足利義満に潰されて、後に残った寺地は龍雲寺と改称させられて南禅寺塔頭徳雲院に接収させられてしまいました。加えて拙堂宗朴は青蓮院に幽閉されてしまいます。妙心寺の住僧たちは京での拠点を失って地方に逼塞することを余儀なくされます。洛内には姉妹寺である大徳寺があるのですが、後難を恐れて妙心寺僧との交流を避けたとのことです。

 ここから先は私見になるのですが、この足利義満による妙心寺連座という説明を疑っております。というのは過去に行われた政治による宗教弾圧の様相が他と異なっているからです。例えば浄土宗の法然は弟子が宮廷女官を勝手に出家させた事件に連座して、流罪に処せられています。当事者の弟子に至っては死を賜っております。ここを先途に浄土系寺院は延暦寺によって破却されていたりします。臨済宗においても蘭渓道隆は北条時頼の手で伊豆に流刑に処せられております。政治による弾圧ではありませんが、足利義満の治世において法華宗の妙顕寺は山門宗徒に襲われて寺院破却。妙顕寺住持の日霽は若狭国小浜に逃れました。と、まあこんな具合に弾圧があった時、住持は流罪や追放、寺院は破却が通り相場となっております。しかるに、妙心寺においては住持は東山の青蓮院に幽閉、寺院建築物は五山別格の南禅寺が接収して叢林寺院として使いまわしがされております。

 妙心寺住持拙堂宗朴は応永の乱を起こした大内義弘の深い帰依を得ていたと言います。事実、五山僧の絶海中津が足利義満の使いとして大内義弘に和議の説得をしたのですが、この交渉が破れた時、大内義弘は自らの死を覚悟して自らの生前葬をし、四十九日法要まで済ませた後に敗死します。大内義弘は故国にある自らが開基した菩提寺に葬られますが、そこの宗旨は妙心寺派臨済宗ではありません。寺院の名は香積寺と言い、宋国から渡来した石屏子介(しっぺいすかい)が開山です。後に兄の汚名を実力で雪いだ大内盛見がここに五重塔を建てているので、生前葬と四十九日法要を営んだのは、香積寺系の僧侶であると考えて差し支えがないでしょう。

 となると、大内義弘と拙堂宗朴との接点があまり見えてこなくなるのですね。大内義弘は明徳の乱鎮定の功績で和泉・紀伊国二ヶ国を拝領し、畿内に足がかりを得たわけですが、そこで洛中洛外に拠点を持つべく動いたはずです。てっとり早く言えば寺社の檀家となり、支援をすることで京との連絡網を構築したのではないでしょうか。石屏子介は五山に籍があったようですが、渡来僧であり日本に人脈を持っているわけではありませんので、宗派や法脈を問わず探していたのかもしれません。
 先行事例としては赤松円心が大徳寺に寺地を提供したようなものです。妙心寺は大徳寺と姉妹寺であり、大徳寺は後醍醐天皇に五山として認められていたこともありますが、妙心寺がそうであったわけではありません。曹洞宗のように宗祖のカリスマと日本達磨宗系の厚い人脈をこの頃持っていたわけではありませんでした。ですので、大内義弘のような西国の有力者がスポンサーを探しているとなれば、拙堂宗朴が自ら名乗りを上げたとしても、不思議ではありません。

 それが応永の乱で大内氏が没落し、大内氏からの支援が途切れてしまったのです。そのために、資金源を失い、妙心寺は経営が出来なくなったのかもしれません。だとするならば、これは政治による宗教弾圧ではなく、純粋に経済的な理由による倒産であったのではないでしょうか。そう考えるのならば、破産した債務者である拙堂宗朴は弟子たちに借財を返済させるために身柄を青蓮院に拘束され、寺院などの建築物は借金の担保として南禅寺に接収されたと考えるのならば、拙堂宗朴が流罪・追放されたり、寺院が破却されたりしなった理由もつくように思われます。
 もっとも、例えば大内義弘が妙心寺に和泉・紀伊の領地の寄進を行っていて、大内没落後に拙堂宗朴が足利義満に逆らったため、寄進地を新領主に引き継げなかったといこともあり得ます。何より、拙堂宗朴を幽閉した青蓮院には足利義満の息子の春寅(応永乱勃発時六歳。のち青蓮院門跡義円、第六代将軍足利義教)がいて、妙心寺寺院を接収した南禅寺の廷用宗器は足利義満の弟なので、足利義満が妙心寺を乗っ取るために仕掛けたと言えなくはないのですが、足利義教の代になって、これを妙心寺後継の日峰宗舜に返還してもいるのです。これは債務返済が終わったためと考えられなくもありません。
 後に妙心寺は復興し、勢いを盛り返すどころか日本一の臨済宗集団にまで成長します。その折に、妙心寺は大徳寺の茶面(ちゃづら)に呼応して算盤面(そろばんづら)とその経理面の有能さを揶揄されるようになるのですが、教団が一度倒産した経験があるとすれば、それもうなずけることでありましょう。

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