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2015年3月 8日 (日)

中漠:林下編④征服王Ⅰ

 建武の乱で大徳寺が没落してから以後、応永の乱で妙心寺が潰されるまで、はっきり言ってこの両寺について、書くことはあまりありません。洛中幕府編において、足利義満の事績を康暦の政変まで描写しておりますので、そこから応永の乱にいたるまでの流れを少し書かせていただきます。

 康暦の政変は足利義満にとって、実質的な政治デビューのきっかけでありました。それ以前に花の御所を造営し、細川頼之の影響下から脱しようと試みてはいますが、この時期を含めて、管領細川頼之支配の時代であったと言って差し支えありません。康暦の政変において、細川頼之が機能不全に陥った折に、足利義満は配下の守護たちを制御しようとしましたが、上手くいきませんでした。それどころか、斯波、佐々木、土岐らに館を囲まれて細川罷免を強いられるという苦汁を呑みました。
 斯波義将は、京を辞して阿波国に戻った細川頼之を追撃しようとしますが、これに抵抗したのが足利義満の最初の政治闘争だったと言ってよいでしょう。この討伐計画は細川頼之が自軍をすばやく結束させて、敵を見事に撃退したために、失敗に帰しました。斯波義将はさらなる追撃をしようとしましたが、足利義満が反対したために、頓挫したのです。
 斯波政権は花の御所を囲んだ諸侯による政権でした。佐々木高秀だけはそこに加われておりませんが、将軍になった最初の十年余りを細川頼之に委ねたのに引き続き、次の十年余りを斯波義将に牛耳られておりました。足利義満は間違いなく第一級の政治家ではありますが、それは細川頼之と斯波義将の執政を克服したのちの話となります。

 もっとも、この頃の足利義満は後円融上皇の后や愛妾を寝取ったのではないかなどとの噂もたてられております。これに後円融上皇は疑心暗鬼になり、皇后である三条厳子を突然打ち据えたり、愛妾の按察局を追い出したりする事件を起こしております。もとより北朝は幕府の庇護がなければ成り立たない体制ではありましたが、康暦の政変後足利義満は皇室にターゲットを定め、朝廷が行う儀式の取り仕切りを自らの手で行うようになりました。朝廷は幕府なくしては成立しえない体制から、一歩進めて天皇がいなくても機能する体制へと移行しつつあったのです。康暦の政変で細川頼之が失脚することによって南北朝の合一は十年以上遅れることになりましたが、足利義満がここで皇室の権威をとことんまで貶めることによって、後に合一の条件とした両統迭立の約束を破ってしまっても問題を大きくせずに封殺する可能性が開けたのです。

 もう一つの障害は管領斯波義将を取り巻く守護大名たちでした。足利義満はこれを各個撃破してゆきます。
 最初にやり玉に挙がったのが土岐康行です。彼は、土岐頼康の子で頼康は花の御所包囲組の一人でした。この時、土岐頼康は美濃国だけではなく、伊勢国、尾張国の守護を兼務しておりました。1387年(嘉慶元年)土岐頼康が亡くなるのですが、足利義満はその相続に介入し、同族を戦わせる挙にでます。この手口は後になって足利義教が多用するのですが、その嚆矢となる事件です。
 相続を決めた翌年三月に足利義満は厳島神社を参拝します。この時の警護に功があったとしてかつて追放した細川頼之を赦免しました。パフォーマンスめいた行いから、それ以前に足利義満と細川頼之との接触はあったとみてよいでしょう。してみると、相続介入は細川頼之の入れ知恵である可能性があります。
 介入によって尾張守護の座を手に入れた土岐満貞は美濃・伊勢守護の兄康行と尾張守護代の従兄弟である詮直の讒言を義満に行います。詮直は満貞を討とうとしますが、それが土岐康行討伐の口実を与える結果となりました。結局、土岐康行・満貞・詮直はそれぞれの地位を失い、討伐に協力した同族である土岐西池田家の頼忠が美濃守護を土岐一族惣領として継ぐことになりました。彼が土岐庶流であったことから、土岐一揆の結束は弱体化することになります。しかも、元の惣領である土岐康行が後に起こった明徳の乱で戦功を立てた結果、北伊勢守護の座を取り戻したことから、その立場は極めて脆弱になってしまいました。

 次にターゲットになったのは山名一族でした。日本全国六十六州のうち、一族で十一州の太守を兼任していたため、山名一門は六分の一殿とよばれるまでになっておりました。足利義満は土岐康行の乱が収束しないうちに、山名時熙(備後、美作・但馬守護)と氏之(伯耆守護)の二名を同族である山名氏清(丹波・山城・和泉守護)と満幸(丹後・出雲・隠岐守護)に討つように命令を下しました。山名氏の惣領は嫡系男子が若年のため、末子相続されていたのですが、宗家筋の満幸がこの決定に不満を持っていたのに足利義満がつけ込んだのでした。正確には満幸は嫡子ではなく、義幸という嫡流の兄がいたのですが、彼は病弱なため、惣領を叔父に譲り、領主として室町殿に仕える役目は弟の満幸に任せていたわけです。叔父時義が死んだ後、その所領がその子の時熙と氏之に分割相続されたことで、満幸の不満が頂点に達したわけです。
 山名氏清は先々代の惣領山名時氏の四男で、一門の長老的立場にありました。嫡流の不満を理解し、将軍の命もあって、山名時熙・氏之兄弟を没落させたわけです。
 これにより、山名氏清は但馬・山城を、満幸は伯耆国を新たに得ました。しかし、この過程で細川頼之が許され、土岐康行は没落しておりました。さらに1391年(明徳二年)三月に斯波義将が管領職を辞し、領国の越前に引きこもってしまったのです。これに山名氏清・満幸は不安を覚えます。足利義満は赦免された細川頼之と組んで康暦の政変の復讐をしているのではないか、と。佐々木氏は康暦の政変時から許されておりませんでしたが、土岐・斯波は政変の主役でもあります。そして、山名氏も康暦の政変に与しておりました。その疑心暗鬼から山名氏清は十月に予定されていた将軍を招いた紅葉狩りを病欠し、義満の不興を買います。

 その年の十一月に山名満幸が突如出雲守護の座を剥奪されて、京を追放させられてしまいます。直接の理由は後円融上皇の御料所を横領した咎とのことでしたが、この時点で疑心暗鬼は確信に変わり、山名満幸は氏清を抱き込んで南朝に降伏します。南朝はこれを最後のチャンスとして、満幸・氏清に錦の御旗を授けました。山名氏は一族の存亡をかけて決起します。これを称して明徳の乱と言います。
 明徳の乱そのものは、洛内の内野にて行われたたった一日の合戦で決着しました。ここで山名氏清は打ち取られ、満幸は筑紫まで逃亡、後に捕らえられて斬られます。山名一門には但馬・因幡・伯耆の三国のみ残され、残りはその他の諸侯に分け取りになりました。佐々木高詮(高経)はこの合戦に功があり、出雲・隠岐守護に復帰を果たしております。  明徳の乱終結の翌年、1392年三月二日、細川頼之は死去します。同じ年、幕府と南朝との間で明徳の和約が締結され、南北朝の合一がなりました。

 山名への錦旗下げ渡し直後の和談でしたので、これは実質南朝が北朝幕府に降伏したも同然な条約です。しかし、両統てい立という南朝にとって破格の条件があり、これを呑みました。北朝朝廷はこれには強硬に反対しましたが、それを貫けるだけの力は既にありませんでした。この時点で北朝朝廷を取り仕切っていたのは治天である後円融院ではありませんでした。後小松天皇は父である後円融院ではなく、足利義満の方を頼っておりました。  結果として明徳の和約は空手形に終わるわけですが、それを南朝側が憤っても、彼らを担ぐ勢力はどこにもありません。それは足利義満が実力で排除した結果でした。

 それまで、足利尊氏以来、数多の勢力が入れ替わり立ち代わりしたわけですが、その全てを凌駕して君臨しえたのは、偏に足利義満の実力によるものであったと言ってよいでしょう。その意味で、彼は日本の征服王の称号を得るにふさわしい人物であると言ってよろしいかと思います。

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