« 中漠:林下編④征服王Ⅰ | トップページ | 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 »

2015年3月15日 (日)

中漠:林下編⑤征服王Ⅱ

 明徳の和約がなり、両統てい立を条件に後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を譲り渡して、南北朝が合一した翌年、後円融院が崩御します。これにより、足利将軍の権威は南北両朝を凌駕するまでに高まりました。

 今谷明氏の説に、足利義満は朝廷を解体して自らが皇位につこうとしたという内容のものがあります。その真偽は判じかねますが、足利義満の征服欲はとどまるところを知りません。その準備として、細川頼元に替えて、斯波義将を再び管領に起用します。斯波義将を逼塞させ、土岐を潰し、山名を潰したのは偏に南北朝合一の過程で横槍を入れられることを嫌った為のように思われます。そして、斯波義将管領復職の翌年、足利義満は征夷大将軍の座を嫡男義持に譲り、自らは北山第(現在の鹿苑(金閣)寺)に移ります。これは隠居ではなく、自らの存命中、政務は義持には一切取らせずに、自らが北山第にて行いました。

 北山第にて練られた政策の第一目標は九州にありました。そこは、九州探題今川了俊が支配する王国でありました。今川了俊の九州探題任命は、康暦の政変以前に細川頼之によってなされました。それ以前は斯波氏から九州探題が任命されていたのですが、当時九州を制覇していた懐良親王の勢力を排除するどころか、九州にも到達できない体たらくだったのです。今川了俊は防長二州を領する大内氏を味方につけることに成功し、九州征服を完了しておりました。斯波義将にとってはそれは苦い思い出だったろうと思われます。なぜなら、失敗した斯波家(当時は足利尾張守家)の九州探題とは義将の兄、氏経だったからです。

 足利義満には九州を治めなければならない目的がありました。それは、自らの手で使節を明国に送ることです。その為には自らの権力基盤を強化する必要がありました。それはすなわち、地方諸侯の干渉が入る可能性を一切排除することでもあります。今川了俊が幕府の為に行った統一事業の功績は大なるものがありましたが、足利義満はその果実のみを手にしたかったわけです。
 斯波義将には細川頼之亡き今、九州探題を頼之が任命した者に続けさせたくはありませんでした。この点で、足利義満と斯波義将の利害は一致したわけです。

 今川了俊は京に呼び戻され、九州探題職を罷免されました。彼は今川宗家・一門ともども、領国である遠江・駿河に封ぜられます。以後の今川宗家歴代ですが、菩提寺の位置が、代替わりの度に現在の袋井市・島田市・藤枝市・菊川市・静岡市と駿府のある静岡市にまで達するのに五代を経ております。これが意味するところは、この二ヶ国は封ぜられていても、地場勢力の力が強くて今川氏といえども領主権の確立に時間がかかった為であると思われます。了俊はそのような難治の地に封ぜられたわけです。後世今川家は東海に強力な軍事力を振るうに至りますが、この時点では地場勢力の懐柔から始めなければならなかったわけです。

 今川家を九州から排除した後、次のターゲットとなったのは大内氏でした。
 大内氏は古代、朝鮮半島西南部に版図を有した百済の聖明王の子孫を先祖に持つと称しております。聖明王は日本に仏教を伝えた人物と知られてはいるものの、武家の家格は源平藤橘が主流だった中にあって、異国の王族を先祖と称することは珍しいケースです。これは初期の大内氏にとって武家であることよりも、海外交易に利権を持つことが重要だったことの所作ではなかったかと私は考えます。
 大内氏が躍進するきっかけになったのは、中国・北九州地方の政治情勢でした。建武新政以後、北九州は菊池武光が後醍醐天皇との連携を保っておりました。菊池氏は元寇の折に日本防衛の為に戦った一族です。時の当主菊池武季が残した合戦絵巻物が教科書なんかに載っていて知られていますね。そこに現れたのが、叛乱を起こして京都での戦いに敗れ落ち延びてきた足利尊氏一党です。当然後醍醐天皇は足利尊氏を討つ様に菊池武光に命じました。一方の足利尊氏は少弐氏を頼ってこれに対抗、多々良浜で激突します。菊池氏はこれに敗退するのですが、足利尊氏はそのまま上洛します。中国・北九州地域に変わってやってきたのは足利直冬です。彼は足利尊氏の長男でしたが、父に愛されず、足利直義の養子として扱われた微妙な立場の人物でした。彼は九州探題の任を与えられ、少弐氏の協力を得て九州に勢力を張り巡らせますが、間もなく足利尊氏と直義が壮絶な兄弟喧嘩を始めてしまいます。足利直冬は直義方として参戦、戦乱の中で九州における勢力を失います。その後、直冬は中国地方に勢力をはる山名・大内氏の庇護を受けることになります。足利直義は敗北しますが、その過程で直義党は南朝方につくことになりました。

 そんなわけで大内弘世は南朝方だったのですが、九州探題の斯波氏経が九州の戦いで敗れて落ち延びてきた時にこれを保護したことを縁に幕府に帰参。以後、派遣されてきた今川了俊の九州征服事業に協力して、勢力を拡大してきたわけです。嫡男の大内義弘の代には、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護を兼ねるに至ります。ちなみに和泉と紀伊は明徳の乱で山名氏からぶんどったものでした。
 大内義弘にとって、今川了俊は九州平定の頼れるパートナーであり、彼のおかげで平和の配当を入手できたようなものでした。明国は南朝の懐良親王を日本国王として遇し、使節を送っておりましたが、これを捕らえて幕府主体で明国と交渉を行っていた矢先、今川了俊が京に召喚されて、遠江半国に封ぜられてしまったのです。これは大内義弘にとっては片腕をもがれたに等しい状況でした。大内義弘は後任の九州探題を望みましたが入れられず、渋川満頼が送り込まれました。彼は前管領細川頼之のライバルであった現管領斯波義将派であり、彼の大叔母が足利義満の母、渋川幸子でした。おもしろくない大内義弘は反義満連合を組織するようになります。構成員は、今川了俊、関東公方の足利満兼、土岐詮直、佐々木秀満らでした。
 それを察知した足利義満はあらん限りの手を使って、この反対勢力を圧迫し、挑発します。そこで切れてしまったのが大内義弘でした。このメンバーの中で煽り耐性が最もなかったようです。
 挙兵はしたものの明らかに準備不足であり、明徳の乱で山名氏に完勝した義満にとって、それは各個撃破の餌にすぎませんでした。反幕府勢力は一掃され、足利義満に逆らえる者は武家と南朝を含む公家を含めてだれもいなくなったわけです。

Photo

|

« 中漠:林下編④征服王Ⅰ | トップページ | 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/61278429

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編⑤征服王Ⅱ:

« 中漠:林下編④征服王Ⅰ | トップページ | 中漠:林下編⑥妙心寺倒産 »