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2015年4月26日 (日)

中漠:林下編⑩一休、瑞祥庵で修行す。

 禅宗の僧堂に初めて入る時に現代でも行われる儀式として、庭詰・旦過詰というものがあるそうです。私はこれを漫画で知りました。庭詰というのは以下の段どりで進められます。①入門者:門前で入門を申し込む。②僧:僧堂は満席なため、と断りを入れる。③入門者:門前脇に正座したのち、門前に向かってはすかいに土下座をして動かない。④僧:しばらくおいてから、出てゆけと何度も喝を入れる。⑤入門者:それでもななめ土下座を続ける。⑥僧:入門者を抱え上げて門の外に投げ飛ばす。(これは休憩をとれとのサインらしい)⑦入門者:しばらくおいてから門前で座り込みを再開する。⑧僧:夕刻あたりに入門者を客間である旦過寮に通す。⑨入門者:旦過寮で座禅したのち、宿泊する。⑩僧:庭詰段階が終わっていない場合、入門者に断りを告げ、門前に追い出す。
 これを二~三日続けた後に、旦過詰の段階に入ります。旦過詰とは旦過寮内で一日中座禅をして過ごすことです。本気で修行をする意思があるかどうかを見極めるためのことですから、ここでも微動だにすることは許されません。これを五日続けて耐え抜いて初めて入門が許されるとのことです。

 庭詰・旦過詰は禅宗の始祖達磨大師に弟子入りしようとした宗徒の故事に倣ったものであり、現代では予め話をつけてから行われるものではありますが、ほとんど身動きをとることができないため大変キツイ儀式であるそうです。宗純も入門にあたって断られたのを強い熱意で押し通したエピソードがあるのですが、大徳寺と妙心寺派との関係はこの時あまり良くなかったので、故事さながらのシナリオなしのライブ感あふれた庭詰・旦過詰となったろうことは想像にかたくありません。

 宗純はここでめきめきと頭角を現し、三年後には洞山三頓の棒という難問の公案を解いて見せ、その所以をもって一休という道号を得、さらにその三年後には師の前で悟りの境地を披露し、見事印可を授かったそうです。ただし、一休宗純は考えあってこれを断ったらしい。後に一休宗純は自著の自戒集の中で印可そのものを否定し、自身と師との間の関係性そして、南浦紹明(大応国師)やその師である虚堂智愚(宋人)との関係性こそが大事であることを宣言しているところをみると、一休宗純にとって印可をもらっていようと、いまいと関係がないようです。彼は師の死後、そのような人生を歩むことになります。

 華叟宗曇は祥瑞庵にて己に課せられた使命を果たしました。それは、堅田の荘官たちが延暦寺の支配を脱して、自分たちのことは自分自身で定めることができる体制です。彼ら自身が後ろ盾となって祥瑞庵を支えることで、自律した共同体への脱皮を果たすことができたわけです。無論、延暦寺の抵抗はありましたが華叟宗曇は湖北に庵を設けるところから始めるなど、地道な活動を重ねてついには、堅田における大応禅の拠点を延暦寺に認めさせることに成功したのです。一休宗純のようなイレギュラーな人材を含め、数多くの有為な弟子を育てたのも、堅田の街の根幹に祥瑞庵が機能し続けることを期待した筈でした。華叟宗曇は晩年、湖北の塩津高源庵というところで余生を過ごしました。祥瑞庵は養叟宗頤に譲っていたようです。その頃、一休宗純は京にいて後小松院に拝謁しておりました。時後光厳天皇系の称光天皇の御代であり、称光天皇には皇子がおりませんでしたので、このまま行けば後光厳天皇系の皇統は絶えてしまう状況にありました。一休宗純の後小松院落胤説に従うなら、一休宗純は自分自身が後光厳天皇系の末裔であるにもかかわらず、称光天皇の後継は崇光天皇系である伏見宮家より出すべしと進言したそうです。これは後小松院が一休宗純に還俗して皇族復帰するように求めたことが前提となるわけですが、それが事実かどうかは私には判断いたしかねます。ただ、一休宗純の師である華叟宗曇が遷化した時、彼は在京していたようです。塩津で亡くなった華叟宗曇は堅田瑞祥庵で葬儀が営まれたわけですが、一休宗純はその葬儀に参列すると京に『戻った』と一休宗純の年譜に書かれております。戻ったということは師が亡くなった折には塩津にも堅田にもおらず、在京していたことが判るわけです。

 華叟宗曇が後継者として選んだのは、一休宗純の兄弟子である養叟宗頤でした。一休宗純と養叟宗頤は十八歳の年齢差があります。華叟宗曇は養叟宗頤に祥瑞庵を譲ると、自らは湖北の塩津高源院に隠棲し間もなく亡くなります。晩年の華叟宗曇は要介護の状態であり、下の世話を一休宗純自らが行ったという述懐もあります。一方の兄弟子養叟宗頤は野心家でした。彼は華叟宗曇が堅田を攻略するために、安脇禅興庵を建てるところから始めたことをよく学んでいました。そして、同じやり方、師が攻略した堅田から初めて本寺である大徳寺を攻略することを考えたのです。
 1428年(正長元年)に華叟宗曇が寂すと、養叟宗頤は行動を開始しました。祥瑞庵をモデルケースに、自分が大徳寺に入るべく運動を開始したのです。華叟宗曇は大徳寺住持であった言外宗忠の弟子であり、大徳寺住持となる資格もあったようです。故に、その資格は華叟宗曇の弟子である養叟宗頤にもその受け継がれておりました。華叟宗曇本人は大徳寺の住持にはなっておりませんでしたが、それは延暦寺支配下にある堅田庄に禅宗寺を拓くという宿願を果たすことに生涯を費やしたためでした。華叟宗曇には堅田衆という支持基盤があり、養叟宗頤はそれを梃子に使って大徳寺に出世開堂を果たしたわけです。後に一休宗純は養叟宗頤とその弟子たちとの間で大喧嘩(というより、一休宗純による一方的な痛罵)をするわけですが、彼が最初に反養叟宗頤的な行動をとるのは、華叟宗曇の十三回忌においてであり、その後も一時的に養叟宗頤とタッグを組む局面もありました。なので、この頃の一休宗純は祥瑞庵の養叟宗頤の命に従って養叟宗頤の大徳寺住持就任運動の片棒を担いでいたと考えることもできるかも知れません。

 というのは、大徳寺は官寺である十刹の中に入っていたからでした。当時五山十刹諸山に対しては、十方住持制というものが敷かれておりました。十方住持制とは、寺院の住持の後継者を法系に頼らず、器量の人を見繕ってそのものを当てる制度でした。もともとは中国に倣った制度ではあり、夢窓派の春屋妙葩などはその制度のおかげで天龍寺や南禅寺などの住持を歴任することが可能になっていたわけです。大徳寺においては、基本的に宗峰妙超―徹翁義亨の法系からの住持職を死守しておりましたが、それでも幕府の圧力によって、南浦紹明(宗峰妙超の師)の別系からの住持を受け入れることもあったのです。併せて大徳寺の住持選定プロセスには朝廷も関与していたフシがあります。1405年(応永十二年)に妙心寺派の無因宗因が、勅により大徳寺住持に指名されるということがありました。また、一休宗純は老境に入って大徳寺住持を引き受けることがありましたが、これは勅命でやむを得ず引き受けたことでもあります。ちなみに、この時点で妙心寺は倒産していたこともあり、無因宗因は住持就任を辞退しました。いずれにせよ養叟宗頤に朝廷の支持があったとすれば、大徳寺住持就任の大きな弾みになったと言えるかも知れません。
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2015年4月19日 (日)

中漠:林下編⑨華叟宗曇

 宗純が師事したのは、華叟宗曇でした。徹翁義亨の弟子である大徳寺第七代住持、言外宗忠に学んでおりました。大徳寺歴代においては、一応第二十二世ということにしている史料もあるのですが、実際には入山・出世開堂はしていないらしい。それどころか、華叟宗曇は言外宗忠から印可すらもらっていないということを宗純は後に自戒集という書の中に書いてしまっております。自戒集を書いた頃の宗純はしっかり反骨と韜晦の人格が出来上がっており、その内容もまるまる信じる必要はないのですが、師である言外宗忠が華叟宗曇について拈華微笑の公案のエキスパートであることを認めている記録があります。宗純自身も印可の有無よりも、教えを継いでいることこそが大事と言っておりますので、華叟宗曇は言外宗忠の弟子であるという事実があれば充分かとおもいます。

 華叟宗曇は1352年(観応三年)生まれ。彼がいかなる縁でもって大徳寺に入ったのかはよくわかりませんが、生国は播磨国とされております。大徳寺に寺地を与えた赤松円心に何がしかの所縁があったのやもしれません。その円心は華叟宗曇生誕の二年前、観応の擾乱の最中に没しております。
 別説として近江国堅田庄の下司堯家の一族であるという話があります。近江国堅田庄は比叡山延暦寺の横川楞厳院の支配下にありました。堯家は荘官として、荘園の地にある玉泉庵と呼ばれる一房の管理を任されている立場です。当然宗旨は天台宗であるのですが、自身は禅宗に深く傾倒していて、堅田の地に延暦寺の影響どうやって減じ、禅風を導入してゆくかに腐心していた人物です。その当時同国人である佐々木導誉が禅律方として幕府の禅宗担当の職掌を握っておりました。ばさら大名とも呼ばれて一世を風靡した人物でもあり、そうした人となりが彼にも影響を与えていたのかもしれません。

 堯家が打った一手として、1351年(観応二年)に堯家は近江堅田にある玉泉庵を禅宗僧である良和都寺に寄進します。良和都寺は大徳寺に所縁があると言われておりますが、詳しいことはわかっておりません。ただ、この話には続きがあって、堯家の上司である横川楞厳院は寄進の内容に文句をつけました。すなわち、横川楞厳院が大徳寺に認めたのは、玉泉庵の住持職のみ。その他寺地や建物は横川楞厳院の管轄下にあることが宣言されました。以前、蘭渓道隆が来日したことを書いた折に、自分一人では祖国の禅を教えられないと言っていたことを書いたのですが、臨済宗の禅はシステムです。僧堂は禅僧を育てるための教育を施すためのインフラであり、そこに禅僧達が詰めて育成カリキュラムに沿った教育を施して初めて禅院は機能するのです。当然金や人出が必要で、そのために外護者を見つけて寄進地経営をすることは必須でした。
 しかるに、住持職のみの禅僧ということは、寺の中にある仏像や経典一切は天台宗の物であり、それを動かす権限はないわけです。それどころか、禅僧としての修行を行うための僧堂のためのスペースを設けたり、それにかかる費用を寄進地から捻出したりすることすらかなわないわけです。
 良和都寺は八年住持を務めた後に、これを大徳寺に寄進しました。その折に大徳寺の言外宗忠の元で修行していたのが華叟宗曇でした。とはいえ、大徳寺も名ばかりの住持の庵は持て余したようで、これを五山派の寺院に譲っています。玉泉庵は資金力ある東福寺塔頭海蔵院の覃澡が継ぐ段になり、近傍の地に自らの氏寺の建設を始めるべく、田地の売得を開始しました。それが1380年(康暦二年)頃です。そこに立ったのが祥瑞庵でした。しかし、この行動は延暦寺ににらまれる結果になったのか、覃澡は早々に玉泉庵の住持職を追われることになりました。祥瑞庵は後に原素という同派の僧に譲られます。ここに堅田には禅ができない玉泉庵と東福寺塔頭海蔵院派が建てた氏寺としての祥瑞庵が出来上がったわけですが、天台宗を嫌って禅の修行ができる環境を求める堅田衆にとっては充分ではありませんでした。その期待は堅田庄下司の堯家の一族が修行している大徳寺にもかけられていたわけです。

 この時点で堅田庄下司の堯家が生きていたかどうかは定かではないのですが、華叟宗曇は師である言外宗忠が遷化すると、行動を開始しました。北近江の安脇の地に禅興庵という禅院を開いたのです。禅興庵は祥瑞庵としばしば混同されておりますが、別寺院であるそうです。北近江の地は分国守護である京極佐々木氏の根拠地であり、とりわけ佐々木導誉は延暦寺と対立して門跡寺院である妙法院を焼き払うという反叡山の人々にとっての快挙を成し遂げた人物です。もっとも、この時当主佐々木高秀は康暦の政変のせいで北近江分国守護の座を奪われておりました。とはいえ、北近江は京極氏の地生えの土地であり、延暦寺の影響力を排除するに都合のよい土地と言えます。また、堅田と安脇は離れた地ではありますが、琵琶湖の水路で直結しております。湖上水運を生業とし、それを独占的に運営する堅田衆にとってうってつけの隠れ蓑であったと言えるでしょう。禅興庵という露骨な庵号も延暦寺から離れた地にある安心感からの命名とみることもできますね。ともあれ、華叟宗曇はここで後進育成に努めました。彼の後継となる養叟宗頤はこの時華叟宗曇の弟子となったのです。彼は藤原氏の出で、東福寺正覚庵、建仁寺天潤庵に学んだキャリアの持ち主でした。この二つはいずれも大応派(南浦紹明系)の庵で、さらに大応派宗峰妙超の流れを汲む大覚寺の教えも学びたいという向学の志によるものでした。
 華叟宗曇は安脇での弟子の育成に併せて堅田への進出に取り込みました。そして1406年(応永十三年)になって、祥瑞庵を同庵主の原素より譲り受けることになります。原素は祥瑞庵開基の覃澡と同じく東福寺塔頭海蔵院の僧とみられておりますが、海蔵院も祥瑞庵が玉泉庵と切り離されてしまったことで持て余すようになったのでしょう。この譲渡を機に、祥瑞庵は東福寺系から大徳寺系に宗旨が改められました。

 そして、その四年後の1410年(応永十七年)には玉泉庵の一切が大徳寺と華叟宗曇に付託されます。これは華叟宗曇の粘り強い活動と堅田衆の支持に、長期間にわたり捻じれ状態の続いている玉泉庵の扱いについに延暦寺横川楞厳院が根負けした結果でもあります。以後、堅田の地には俄に禅宗が流行します。その勢いで浄土真宗の本福寺が一時的に禅宗に宗旨を改めるほどだったのです。

 宗純が門を叩いた祥瑞庵にはそのような由緒由来があったのでした。

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2015年4月12日 (日)

中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。

 安国寺をでた十七歳の周建小僧が師としたのは同じ京にある西山西金寺にいた為謙宗為でした。謙翁とも呼ばれる清貧の僧であったと言われております。また、弟子も取らなかったと言いますから寺の管理もままならなかったかと思われます。為謙宗為は妙心寺三世住持無因宗因に学んだとされておりますが、印可状は得ておりません。求道の純粋さ故に印可状に価値を見出さなかった等の説明がされているようです。応永の乱をきっかけに妙心寺六世住持拙堂宗朴が青蓮院に幽閉され、妙心寺の堂宇は南禅寺に接収されておりました。妙心寺派は清貧・托鉢・荒行をその特徴としておりますが、この時代においてはそうならざるを得ない程に経済的に困窮していたのは事実でしょう。ましてや印可状をもっていないのは公式な手続き上一人前の僧とは認められていないことと同義です。
 よって、西山西金寺には幕府や朝廷などの一切の保護は無かったと言えましょう。こういう場合、何らかのパトロンをつくもしくは、つける努力をするものですが、教団中枢が弾圧の憂き目にあっている時期です。それもままならなかったでしょう。唯一の収入源は托鉢であり、それで糊口を凌ぎながらできることと言えば修行と周辺住民に教えを説くくらいしか無かったものと思われます。
 この状況をポジティブシンキングしてみるならば、芸事にすら見える詩作や、サロン化した僧堂を厭い離れ、托鉢行脚で心身を鍛え、ただひたすらに只管打坐できる禅僧としては理想的な環境であると。周建はここで、為謙宗為から宗純という戒名をもらいます。宗純の「宗」は大徳寺を開いた宗峰妙超の法脈を継ぐ者として、大徳寺派・妙心寺派の僧の戒名につくものです。法華宗(日蓮宗)の戒名につく「日」と概ね同じようなものかと思われます。

 宗純はこの清貧生活が大変気に入っていたようです。しかし、普段は弟子を取らない清貧の為謙宗為がなぜ、この宗純を受け入れたのか考えると、老境に入り起居ままならなくなって介護者を必要としていたのではなかったか、そのようにも想像してしまいます。なぜなら、為謙宗為は宗純を弟子にしてわずか四年後に亡くなってしまいましたから。そして周建小僧に宗「純」とつけた当人が宗純に次のような言葉を残したと言います。
「清いものをと望んだ時、お前の心の中には汚れたものが生まれている」それは、宗純に残した遺言であると同時に、弟子として宗純を望んだ為謙宗為の自嘲でもあるような気がします。西山西金寺は離散状態の妙心寺派が抱えている寺院であり、自身の死後に残される宗純を託すべき師匠や兄弟弟子は身近にいなかったのでしょう。故に、その言葉を宗純への戒めとし、自ら穢れを自覚しつつ黄泉路についたのだと私は解釈します。それでも、一応死後に面倒を見えるべき師匠を誰にすべきかの指示はしていたと思われます。それが近江国安脇にある臨済宗大徳寺派寺院、禅興庵の華叟宗曇でした。

 ここから少し遡って、宗峰妙超以後の大徳寺派と妙心寺派の関係について少し触れます。宗峰妙超を継いだ徹翁義亨は南北朝動乱の中で後醍醐天皇没落後の大徳寺の綱紀を糾し、教団の維持に成功します。大徳寺の住持そのものは概ね二年程度で交替しますが、宗峰妙超の直弟子が一巡した以降、次世代の住持は徹翁義亨の系譜にて務められるように慣例ができあがってしまいました。但し、妙心寺の関山慧玄は宗峰妙超の高弟ではありますが、大徳寺住持を務めることはありませんでした。1368年(応安元年)に大徳寺法度と呼ばれる内部規約が制定されるのですが、その十七条目に関山慧玄は宗峰妙超の勘気を蒙り門流を認めないとの記述があります。要するに徹翁義亨以後の大徳寺は妙心寺を派閥として認めない宣言をしてしまっているわけです。この大徳寺法度の翌年徹翁義亨は亡くなっておりますから、大徳寺法度は徹翁義亨の遺言のようなものであり、彼と関山慧玄もしくはその後継者と何がしかの不和があったようです。
 1386年(至徳三年)に五山十刹の改定がありまして、足利尊氏が天下を取るにあたり五山十刹からもれていた大徳寺が十刹の九位に入りました。これはいままで林下であった大徳寺が叢林となり幕府の管理下に入ることを意味しております。第四代将軍足利義持は叢林に対して十方住持制度を採用させました、これは叢林の住持を門流にこだわらずにつけるべしとの方針でありました。大徳寺派は徹翁義亨流を代々住持としてきましたが、妥協して、派祖である宗峰妙超の師である南浦紹明直系の住持をつけるようになりました。
 その流れで妙心寺派の無因宗因に大徳寺住持就任の要請が来ましたが、これを無因宗因は断っております。按ずるにこの時妙心寺は倒産した状態であり、大徳寺も暗に断るようにしむけたのではないでしょうか。事実、後年妙心寺派が勢いを盛り返して大徳寺住持への就任を画策した際に大徳寺派内では反対運動がおきております。ちなみに無因宗因は為謙宗為の師匠にあたります。

 このように、この時期の妙心寺派と大徳寺との間は必ずしも良好ではありませんでした。為謙宗為としてはそうであっても自らの弟子の将来を考えた時に滅びかけている妙心寺派の誰かに宗純を託すよりも同流の大徳寺派の門を叩かせた方が未来があると見たのでしょう。
 宗純はすでに二十一歳です。他流へ行くということは一から修行をやり直すこととほぼ同義です。宗純は未来を悲観して自殺を図りますが死にきれず、華叟宗曇の門を叩くことになります。

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