« 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 | トップページ | 中漠:林下編⑩一休、瑞祥庵で修行す。 »

2015年4月19日 (日)

中漠:林下編⑨華叟宗曇

 宗純が師事したのは、華叟宗曇でした。徹翁義亨の弟子である大徳寺第七代住持、言外宗忠に学んでおりました。大徳寺歴代においては、一応第二十二世ということにしている史料もあるのですが、実際には入山・出世開堂はしていないらしい。それどころか、華叟宗曇は言外宗忠から印可すらもらっていないということを宗純は後に自戒集という書の中に書いてしまっております。自戒集を書いた頃の宗純はしっかり反骨と韜晦の人格が出来上がっており、その内容もまるまる信じる必要はないのですが、師である言外宗忠が華叟宗曇について拈華微笑の公案のエキスパートであることを認めている記録があります。宗純自身も印可の有無よりも、教えを継いでいることこそが大事と言っておりますので、華叟宗曇は言外宗忠の弟子であるという事実があれば充分かとおもいます。

 華叟宗曇は1352年(観応三年)生まれ。彼がいかなる縁でもって大徳寺に入ったのかはよくわかりませんが、生国は播磨国とされております。大徳寺に寺地を与えた赤松円心に何がしかの所縁があったのやもしれません。その円心は華叟宗曇生誕の二年前、観応の擾乱の最中に没しております。
 別説として近江国堅田庄の下司堯家の一族であるという話があります。近江国堅田庄は比叡山延暦寺の横川楞厳院の支配下にありました。堯家は荘官として、荘園の地にある玉泉庵と呼ばれる一房の管理を任されている立場です。当然宗旨は天台宗であるのですが、自身は禅宗に深く傾倒していて、堅田の地に延暦寺の影響どうやって減じ、禅風を導入してゆくかに腐心していた人物です。その当時同国人である佐々木導誉が禅律方として幕府の禅宗担当の職掌を握っておりました。ばさら大名とも呼ばれて一世を風靡した人物でもあり、そうした人となりが彼にも影響を与えていたのかもしれません。

 堯家が打った一手として、1351年(観応二年)に堯家は近江堅田にある玉泉庵を禅宗僧である良和都寺に寄進します。良和都寺は大徳寺に所縁があると言われておりますが、詳しいことはわかっておりません。ただ、この話には続きがあって、堯家の上司である横川楞厳院は寄進の内容に文句をつけました。すなわち、横川楞厳院が大徳寺に認めたのは、玉泉庵の住持職のみ。その他寺地や建物は横川楞厳院の管轄下にあることが宣言されました。以前、蘭渓道隆が来日したことを書いた折に、自分一人では祖国の禅を教えられないと言っていたことを書いたのですが、臨済宗の禅はシステムです。僧堂は禅僧を育てるための教育を施すためのインフラであり、そこに禅僧達が詰めて育成カリキュラムに沿った教育を施して初めて禅院は機能するのです。当然金や人出が必要で、そのために外護者を見つけて寄進地経営をすることは必須でした。
 しかるに、住持職のみの禅僧ということは、寺の中にある仏像や経典一切は天台宗の物であり、それを動かす権限はないわけです。それどころか、禅僧としての修行を行うための僧堂のためのスペースを設けたり、それにかかる費用を寄進地から捻出したりすることすらかなわないわけです。
 良和都寺は八年住持を務めた後に、これを大徳寺に寄進しました。その折に大徳寺の言外宗忠の元で修行していたのが華叟宗曇でした。とはいえ、大徳寺も名ばかりの住持の庵は持て余したようで、これを五山派の寺院に譲っています。玉泉庵は資金力ある東福寺塔頭海蔵院の覃澡が継ぐ段になり、近傍の地に自らの氏寺の建設を始めるべく、田地の売得を開始しました。それが1380年(康暦二年)頃です。そこに立ったのが祥瑞庵でした。しかし、この行動は延暦寺ににらまれる結果になったのか、覃澡は早々に玉泉庵の住持職を追われることになりました。祥瑞庵は後に原素という同派の僧に譲られます。ここに堅田には禅ができない玉泉庵と東福寺塔頭海蔵院派が建てた氏寺としての祥瑞庵が出来上がったわけですが、天台宗を嫌って禅の修行ができる環境を求める堅田衆にとっては充分ではありませんでした。その期待は堅田庄下司の堯家の一族が修行している大徳寺にもかけられていたわけです。

 この時点で堅田庄下司の堯家が生きていたかどうかは定かではないのですが、華叟宗曇は師である言外宗忠が遷化すると、行動を開始しました。北近江の安脇の地に禅興庵という禅院を開いたのです。禅興庵は祥瑞庵としばしば混同されておりますが、別寺院であるそうです。北近江の地は分国守護である京極佐々木氏の根拠地であり、とりわけ佐々木導誉は延暦寺と対立して門跡寺院である妙法院を焼き払うという反叡山の人々にとっての快挙を成し遂げた人物です。もっとも、この時当主佐々木高秀は康暦の政変のせいで北近江分国守護の座を奪われておりました。とはいえ、北近江は京極氏の地生えの土地であり、延暦寺の影響力を排除するに都合のよい土地と言えます。また、堅田と安脇は離れた地ではありますが、琵琶湖の水路で直結しております。湖上水運を生業とし、それを独占的に運営する堅田衆にとってうってつけの隠れ蓑であったと言えるでしょう。禅興庵という露骨な庵号も延暦寺から離れた地にある安心感からの命名とみることもできますね。ともあれ、華叟宗曇はここで後進育成に努めました。彼の後継となる養叟宗頤はこの時華叟宗曇の弟子となったのです。彼は藤原氏の出で、東福寺正覚庵、建仁寺天潤庵に学んだキャリアの持ち主でした。この二つはいずれも大応派(南浦紹明系)の庵で、さらに大応派宗峰妙超の流れを汲む大覚寺の教えも学びたいという向学の志によるものでした。
 華叟宗曇は安脇での弟子の育成に併せて堅田への進出に取り込みました。そして1406年(応永十三年)になって、祥瑞庵を同庵主の原素より譲り受けることになります。原素は祥瑞庵開基の覃澡と同じく東福寺塔頭海蔵院の僧とみられておりますが、海蔵院も祥瑞庵が玉泉庵と切り離されてしまったことで持て余すようになったのでしょう。この譲渡を機に、祥瑞庵は東福寺系から大徳寺系に宗旨が改められました。

 そして、その四年後の1410年(応永十七年)には玉泉庵の一切が大徳寺と華叟宗曇に付託されます。これは華叟宗曇の粘り強い活動と堅田衆の支持に、長期間にわたり捻じれ状態の続いている玉泉庵の扱いについに延暦寺横川楞厳院が根負けした結果でもあります。以後、堅田の地には俄に禅宗が流行します。その勢いで浄土真宗の本福寺が一時的に禅宗に宗旨を改めるほどだったのです。

 宗純が門を叩いた祥瑞庵にはそのような由緒由来があったのでした。

Photo


|

« 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 | トップページ | 中漠:林下編⑩一休、瑞祥庵で修行す。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/61426396

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編⑨華叟宗曇:

« 中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。 | トップページ | 中漠:林下編⑩一休、瑞祥庵で修行す。 »