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2015年4月12日 (日)

中漠:林下編⑧一休、為謙宗為に学ぶ。

 安国寺をでた十七歳の周建小僧が師としたのは同じ京にある西山西金寺にいた為謙宗為でした。謙翁とも呼ばれる清貧の僧であったと言われております。また、弟子も取らなかったと言いますから寺の管理もままならなかったかと思われます。為謙宗為は妙心寺三世住持無因宗因に学んだとされておりますが、印可状は得ておりません。求道の純粋さ故に印可状に価値を見出さなかった等の説明がされているようです。応永の乱をきっかけに妙心寺六世住持拙堂宗朴が青蓮院に幽閉され、妙心寺の堂宇は南禅寺に接収されておりました。妙心寺派は清貧・托鉢・荒行をその特徴としておりますが、この時代においてはそうならざるを得ない程に経済的に困窮していたのは事実でしょう。ましてや印可状をもっていないのは公式な手続き上一人前の僧とは認められていないことと同義です。
 よって、西山西金寺には幕府や朝廷などの一切の保護は無かったと言えましょう。こういう場合、何らかのパトロンをつくもしくは、つける努力をするものですが、教団中枢が弾圧の憂き目にあっている時期です。それもままならなかったでしょう。唯一の収入源は托鉢であり、それで糊口を凌ぎながらできることと言えば修行と周辺住民に教えを説くくらいしか無かったものと思われます。
 この状況をポジティブシンキングしてみるならば、芸事にすら見える詩作や、サロン化した僧堂を厭い離れ、托鉢行脚で心身を鍛え、ただひたすらに只管打坐できる禅僧としては理想的な環境であると。周建はここで、為謙宗為から宗純という戒名をもらいます。宗純の「宗」は大徳寺を開いた宗峰妙超の法脈を継ぐ者として、大徳寺派・妙心寺派の僧の戒名につくものです。法華宗(日蓮宗)の戒名につく「日」と概ね同じようなものかと思われます。

 宗純はこの清貧生活が大変気に入っていたようです。しかし、普段は弟子を取らない清貧の為謙宗為がなぜ、この宗純を受け入れたのか考えると、老境に入り起居ままならなくなって介護者を必要としていたのではなかったか、そのようにも想像してしまいます。なぜなら、為謙宗為は宗純を弟子にしてわずか四年後に亡くなってしまいましたから。そして周建小僧に宗「純」とつけた当人が宗純に次のような言葉を残したと言います。
「清いものをと望んだ時、お前の心の中には汚れたものが生まれている」それは、宗純に残した遺言であると同時に、弟子として宗純を望んだ為謙宗為の自嘲でもあるような気がします。西山西金寺は離散状態の妙心寺派が抱えている寺院であり、自身の死後に残される宗純を託すべき師匠や兄弟弟子は身近にいなかったのでしょう。故に、その言葉を宗純への戒めとし、自ら穢れを自覚しつつ黄泉路についたのだと私は解釈します。それでも、一応死後に面倒を見えるべき師匠を誰にすべきかの指示はしていたと思われます。それが近江国安脇にある臨済宗大徳寺派寺院、禅興庵の華叟宗曇でした。

 ここから少し遡って、宗峰妙超以後の大徳寺派と妙心寺派の関係について少し触れます。宗峰妙超を継いだ徹翁義亨は南北朝動乱の中で後醍醐天皇没落後の大徳寺の綱紀を糾し、教団の維持に成功します。大徳寺の住持そのものは概ね二年程度で交替しますが、宗峰妙超の直弟子が一巡した以降、次世代の住持は徹翁義亨の系譜にて務められるように慣例ができあがってしまいました。但し、妙心寺の関山慧玄は宗峰妙超の高弟ではありますが、大徳寺住持を務めることはありませんでした。1368年(応安元年)に大徳寺法度と呼ばれる内部規約が制定されるのですが、その十七条目に関山慧玄は宗峰妙超の勘気を蒙り門流を認めないとの記述があります。要するに徹翁義亨以後の大徳寺は妙心寺を派閥として認めない宣言をしてしまっているわけです。この大徳寺法度の翌年徹翁義亨は亡くなっておりますから、大徳寺法度は徹翁義亨の遺言のようなものであり、彼と関山慧玄もしくはその後継者と何がしかの不和があったようです。
 1386年(至徳三年)に五山十刹の改定がありまして、足利尊氏が天下を取るにあたり五山十刹からもれていた大徳寺が十刹の九位に入りました。これはいままで林下であった大徳寺が叢林となり幕府の管理下に入ることを意味しております。第四代将軍足利義持は叢林に対して十方住持制度を採用させました、これは叢林の住持を門流にこだわらずにつけるべしとの方針でありました。大徳寺派は徹翁義亨流を代々住持としてきましたが、妥協して、派祖である宗峰妙超の師である南浦紹明直系の住持をつけるようになりました。
 その流れで妙心寺派の無因宗因に大徳寺住持就任の要請が来ましたが、これを無因宗因は断っております。按ずるにこの時妙心寺は倒産した状態であり、大徳寺も暗に断るようにしむけたのではないでしょうか。事実、後年妙心寺派が勢いを盛り返して大徳寺住持への就任を画策した際に大徳寺派内では反対運動がおきております。ちなみに無因宗因は為謙宗為の師匠にあたります。

 このように、この時期の妙心寺派と大徳寺との間は必ずしも良好ではありませんでした。為謙宗為としてはそうであっても自らの弟子の将来を考えた時に滅びかけている妙心寺派の誰かに宗純を託すよりも同流の大徳寺派の門を叩かせた方が未来があると見たのでしょう。
 宗純はすでに二十一歳です。他流へ行くということは一から修行をやり直すこととほぼ同義です。宗純は未来を悲観して自殺を図りますが死にきれず、華叟宗曇の門を叩くことになります。

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