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2015年5月31日 (日)

中漠:林下編⑮紫を着る男Ⅱ

 紫衣とは、紫色の法衣のことです。古来東アジアにおいては、着衣の色が身分を示すことがありました。例えば中国の皇帝は黄色、朝鮮王は赤等、臣下の身分の者はそれらの色の着衣を身に着けることは禁じられていたわけです。似たようなことは日本においても行われていて、聖徳太子の冠位十二階という制度においては冠の色で身分が分別されておりました。その中で最高位を示す色は紫色でした。僧に対して紫色が使われたのは奈良時代に遣唐使として唐に渡った玄昉がその嚆矢です。もともとの紫衣は玄昉が唐の玄宗皇帝からもらった物であったのですが、帰国後に聖武天皇の側近として活躍した玄昉に対して、聖武天皇が改めて、玄昉に紫衣を下賜したのが最初の事例でした。以後、紫衣は高位の僧に対して、天皇が下賜する物として定着します。
 冠位十二階において、それぞれの冠位には色に応じた名前がつけられております。高い方から徳仁礼信義智と六つあってそれぞれに大小とついています。紫色がついているのは、大徳と小徳の二つです。大徳寺建立の地は洛北の紫野と言い、寺号の由来には冠位十二階の故事に由来しているのかもしれません。かもしれないというのは、そういう説があるかもと思って探したのですが、見つかりませんでしたので。ただ、故事に通じた人間であればそうした連想はあっても不思議はないかと思います。
 ただし、大徳寺と紫色との関係はやや微妙な物も含んでおります。かつて紫野は東山の鳥辺野と並ぶ洛外埋葬地のひとつでした。古代から中世前期にかけての洛中は死の穢れを徹底的に嫌う土地柄でしたので、洛中の使者は洛外に運ばれて葬られるわけですが、紫野への運搬ルートの途上にある千本通り(現在もあります)の地名の由来は埋葬のための卒塔婆が千本立ち並んでいたことにちなむという説があります。そして紫野の紫は冠位十二階が最高の色と認めた紫ではなく、死者が流した血が変色した色のことであるという話もあるのですね。
 義天玄承に紫衣をまとわせたのは、細川勝元であると考えて差し支えないでしょう。それは義天玄承の入山の妨害を排除するために士卒をつけたということから判断できます。ただ、紫衣を着せた底意にそういう俗説を含んでいたとすれば、それはなかなかにどす黒くあります。

 ともあれ、公式には紫衣を着た上での入山は大徳寺にとって大変名誉なことでした。なにしろ当時は大徳寺はおろか、禅林全体を見渡しても禅宗の僧侶が紫衣を賜った例がほとんどなかったからです。これは養叟宗頤にとっては痛恨ことでした。彼が大徳寺住持を自派に奪い返したのち、故華叟宗曇のための禅師号追贈を行ったのは、自分につながる法流の価値を高めて他の法流を締め出すことが目的であったためです。義天玄承が紫衣を大徳寺にもたらした初めての者となれば、以後の大徳寺は住持の有資格者としての関山派を無視できなくなります。
 これは養叟宗頤の大失態でした。同時に幕府や朝廷の方がしたたかであったと言えるでしょう。養叟宗頤は自らの正統性を朝廷に依存しておりました。コネクションをもって末寺の後継候補から本寺住持にのし上がり、師を禅師に列して自らの正統性を確保したわけですが、これは全て朝廷への工作によるものでした。一休宗純は師である華叟宗曇の晩年には師の臨終の地である高源院にいたわけではなく、京にいて後小松院に拝謁していました。そして華叟宗曇の死後に兄弟子養叟宗頤の大徳寺住持継承が実現したのですから、自らのコネクションを利用したフシがあります。後小松院崩御の後も、摂津国出灰(いずりは)の尸陀寺で自殺を図った折も、後花園天皇の諌止によって思いとどまっておりますので、朝廷とのコネクションは継続しております。よって、華叟宗曇の禅師号追贈工作に協力していた可能性もあるのですね。

 しかし、関山派の方は朝廷ではなく、幕府管領に支援者となってもらうことによってその全てを覆してしまいました。朝廷に直接のコネクションをもって影響力を行使するのではなく、幕府の力で朝廷を動かすわけですね。朝幕の力関係を鑑みるなら、あらがいようはありませんでした。少なくとも一休宗純はそのような認識に至ったようですが、養叟宗頤は尚もあきらめてはいないようでした。
 それが爆発したのが、1454年(享徳三年)です。一休宗純と養叟宗頤は大喧嘩をやらかし、修復不能な状態となったのです。その時の一休宗純の言い分から推察するに、関山派の派祖関山慧玄が師である宗峰妙超から印可をもらったかどうかで抗戦しようとする養叟宗頤に、一休宗純がそれは無益と反対。それに対して、養叟宗頤が一休宗純もまた印可を華叟宗曇からもらっていないと言い出したことに一休宗純はブチ切れたもようです。

 この後、一休宗純は養叟宗頤と袂を分かって独自行動をとるようになります。並行して養叟宗頤への悪口を綴った自戒集という文集も作っております。この後、養叟宗頤は細川氏の勢力圏である泉州堺に陽春庵を開山して布教活動を始めます。帰依者を増やして影響力を高めて関山派の干渉に対抗しようという意図ですが、一休宗純にとってはその勝負はすでに義天玄承が紫衣を賜った時点で決着がついておりました。むしろ、その方向性で進めば進むほど師から伝授された教えはぼけて薄まる副作用の方が大きいように見えていたのです。

 義天玄承への紫衣下賜は以後、大徳寺の慣例となり、江戸期に入って紫衣事件という朝幕関係緊張の遠因ともなります。

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2015年5月24日 (日)

中漠:林下編⑭紫を着る男Ⅰ

 日峰宗舜の大徳寺住持在任期間はわずか半年足らずのものでした。日峰宗舜が属する関山派と大徳寺との関係はあまり良いものではなく、そういう関係を清算する為の手段として関山派総帥である日峰宗舜は大徳寺住持の座についたわけですが、全てを清算するにはあまりにも短すぎました。しかも、急いてしまったせいで、本山居つきの僧達に自殺者と逮捕者を出してしまいました。これもまた、関山派にとっては手痛い失敗と言えたでしょう。日峰宗舜の死後、大徳寺住持の座は関山派でも、養叟派でもない、足庵宗鑑がつくことになりました。関山派としては、一旦退却して体制を整える必要がありました。日峰宗舜亡き後に関山派の中心となったのは義天玄承です。足庵宗鑑住持就任の翌年、細川勝元は管領の座を畠山持国に引き渡します。この前後細川勝元と畠山持国は交替で管領を務めながら足利義教が家を割った全国の守護家の修復を行っておりましたが、細川勝元は足利義教路線で新たに本家として取り立てられた元分家筋を持ち上げ、畠山持国は義教に押しやられた元本家筋の復帰運動に加担しておりました。その結果、日本中がぐちゃぐちゃな状態になって、最終的に応仁の乱になってしまうわけです。考えてみれば、大徳寺と妙心寺派との関係もその構図がぴたりとはまるわけですね。

 養叟派と関山派はこの期間それぞれ一旦退きながらも反攻の態勢を整えます。そもそも、関山派と大徳寺との関係悪化の原因は大徳寺住持職を宗峰妙超の弟子である徹翁義亨が自らの弟子筋で固めてしまったことによります。関山派の祖である関山慧玄も宗峰妙超の弟子ではあったわけですが、大徳寺からこれを排除されて妙心寺を中心に経営を行っていたわけです。大徳寺側ではこれを宗峰妙超の晩年、関山慧玄を遠ざけたとか、正式な印可状をもらっていないと説明して正当化していたようです。実際にそうであるかどうかは私は知りません。ただ、それを主張する養叟宗頤とその弟子達にも弱みがありました。養叟宗頤の師である故華叟宗曇に大徳寺の住持経験がないことです。華叟宗曇は大徳寺の言外宗忠を師とはしておりましたが、本人が大徳寺住持となったことはありません。近江国堅田にある祥瑞庵の本山への貢献が大なるをもって養叟宗頤が住持になることができたわけです。言ってみれば、華叟宗曇は地方支社長で、そこでのプロジェクトが大成功して本社業績を上回った為に、地方支社の部長であった養叟宗頤が本社社長に納まったようなものです。逆に言えば業績貢献が社長の座に直結する先例を作ったわけです。その意味では細川京兆家というビッグパトロンを得た関山派が本山への貢献をアピールすれば、それを拒めないことになります。その意味で養叟宗頤は何としてでも正統性を確保する必要があったわけです。
 1452年(享徳元年)、養叟宗頤は朝廷に願い出て、自らの師である故華叟宗曇の為の禅師号追贈を朝廷に願い出ました。時の後花園天皇はこれを受けて華叟宗曇に大機弘宗禅師という号を追贈しました。異例のことではあります。養叟宗頤としては、それを弾みとして、自らの弟子を大徳寺住持の座につけて関山派の介入を排除したいという意図があったようです。しかも、その追贈の宣旨には華叟宗曇が大徳寺住持であったと記されております。実際はそういう事実はなく、これは明らかに養叟宗頤による工作の結果です。禅宗では師を称揚する為に事実とは異なる記録が残されることがままありますが、これによって養叟宗頤が大徳寺正統の法流にいることを誇示できるようになったわけです。
 それに対する関山派ですが、日峰宗舜は、尾張国犬山瑞泉寺から本寺である妙心寺復活をなしとげ、一気に大徳寺住持の座まで勝ち得たものの、その体制を作り上げる前に亡くなってしまいました。後継住持も関山派から出すことができず、一時の足踏み状態になります。妙心寺は復活させたものの、再建途上で大徳寺へ再アタックする為には、一度態勢を立て直す必要がありました。そこに支援の手を差し伸べたのは管領職を退いた細川勝元でした。彼は関山派の為の寺地を洛北の衣笠山に提供します。そこには藤原北家系の公家徳大寺氏の山荘があったのですが、細川勝元はこれを譲り受けて関山派の僧水、義天玄承に与えたのでした。関山派はここを拠点に体制固めをしてゆきます。

 1452年(享徳元年)十二月二十三日、細川勝元が管領に復帰します。一休宗純の弟子が作った年譜では翌年ということになっているのですが、実際は多分養叟宗頤による華叟宗曇への禅師号追贈の前後頃、養叟宗頤の弟子の惟三宗叔が大徳寺住持になります。惟三宗叔は養叟宗頤の弟子で、養叟派の巻き返しが成就したことになります。彼の晋山式には一休宗純も自らの弟子を本寺に派遣して手伝わせております。1453年(享徳二年)八月二日に大徳寺に火災が発生し、如意庵・大用庵を残してほぼ全焼させてしまいました。養叟宗頤は焼失後の大徳寺再建に尽力しますが、同じ年の十二月、朝廷によって住持の交替の勅がでてしまいます。年譜には何も書かれてはいませんが、大徳寺火災は失火と見なされて、住持である惟三宗叔と養叟宗頤は管理責任を問われたようです。
 新任住持として指名されたのは、関山派の義天玄承でした。彼は日峰宗舜の弟子であり、志半ばで示寂した師の経験から、大徳寺内で関山派がいかなる立場にあるかをよく知っておりました。何より大徳寺は火災後の復興途上であり、一方の関山派は復興した妙心寺とさらに広い龍安寺を拠点にできておりました。故に、義天玄承は長期に大徳寺に居座ることはせず、わずか八日で退去しました。但し、入山においては一休宗純や養叟宗頤の度肝を抜くことをやってのけて、関山派としての矜持を大徳寺に刻み付けました。すなわち、士卒を率い、紫衣をまとって晋山したのです。
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2015年5月17日 (日)

中漠:林下編⑬関山派、大徳寺住持の座を勝ち取る。

 日峰宗舜と養叟宗頤はそれぞれの属する寺院を似たやり方で復興しました。日峰宗舜は尾張国犬山瑞泉寺を活用し、養叟宗頤は近江国堅田瑞祥庵の力を借りて妙心寺と大徳寺の住持に収まることに成功しました。養叟宗頤は足利義教に願い出て十刹の列から外れ、自ら林下たることを宣言することによって、南浦紹明から連なる法統を糺します。大徳寺は大応(南浦紹明)派の本山ですから養叟宗頤にとっての目標は達成されたと言ってよいでしょう。
 しかし、日峰宗舜にとっては、妙心寺復興は通過点でしかありませんでした。妙心寺が潰された当時、大徳寺に十分な手当てを施してはもらえなかったことは、彼を初めとする妙心寺派の僧達にとっては決して忘れることができないことだったでしょう。それでも一応、彼の師である無因宗因に大徳寺の住持になる話が朝廷からきておりました。それを果たせなかったのは、無因宗因が自らの弟子を養いつつ、大徳寺を経営することなどできなかったからだと思われます。だとすれば、念願の妙心寺住持に収まった日峰宗舜にとって、大徳寺との関係に落とし前をつけようとすることは理の当然でもありました。
 日峰宗舜は大徳寺をよく観察し、取り入れるべきところは取り入れておりました。財政難に陥っていた大徳寺を華叟宗曇が堅田の瑞祥庵で支えていたこと。それを利用して後に養叟宗頤が大徳寺住持の座を勝ち得たこと。延暦寺の干渉に対しては、琵琶湖対岸の安脇禅興庵をもってそれに対応していたこと等をです。そして、華叟宗曇死後は朝廷を動かして養叟宗頤が住持となったこと。幕府と交渉して十方住持の制の対象外としてもらったこと等です。

 日峰宗舜は管領細川持之、そしてその後継者の勝元と誼を通じるようになります。一方の養叟宗頤の方は、本人はどのような活動をしていたのか定かではないものの、弟弟子の一休宗純を使って、朝廷に取り入る戦術を取っておりました。
 但し、細川勝元が管領になった1445年(文安二年)当時、弱冠十三歳でしかありませんでした。実際は彼の叔父にあたる細川持賢が後見人として政務をとりしきっていたようです。先代管領である細川持之の臨終の段に日峰宗舜は法語を聞かせて穏やかな最期を迎えられたそうです。少年管領とその叔父はその恩義に報いたいと考えたのでしょう。朝廷も幕府の威光には逆らえません。それを見越しての接触とすれば、日峰宗舜はなかなかの策士と言えるかもしれません。一方の細川家の方も禅宗とは頼之の代で春屋妙葩と対立して大きなミソをつけてしまったことが気になっていたのではないでしょうか。勝元やその子の政元の代になると積極的に宗教界に干渉して自分に翼賛する新勢力を作ることに腐心します。

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 日峰宗舜の大徳寺入山の噂は養叟宗頤の耳にも入り、一休宗純とも対策を検討します。大徳寺を挙げて日峰宗舜の入山阻止することに誰も異存はありませんでした。一休と養叟宗頤は二人でロールプレイのシミュレーションをしてみて、宗論を仕掛けて説破すれば入山させずに済むかも、などと考えたりします。しかし、結局の所幕府に勅命をだされてしまえば手も足も出ないという結論に落ち着いてしまいました。とはいえ、一休を初めとする大徳寺僧には関山派(妙心寺派)の受け入れを潔しとしない者も多く、養叟宗頤は板挟みになってしまいます。最終的に日峰宗舜の入山阻止はできないことがわかった1446年(文安三年)に養叟宗頤は大徳寺を退去し、紀州に隠棲してしまいました。1447年(文安四年)八月十二日、残された一休宗純をはじめとする大徳寺詰の僧達は挙げた拳の振り下ろし所もわからぬまま、日峰宗舜を大徳寺に迎えることになったのです。
 そういう状況でありましたので、日峰宗舜の入山は無事に済みそうにもありませんでした。現代でも行われている住持入山の折に行われている儀式に晋山式というものがありますが、この段取りの中に門前で寺に入ろうとした新任住持が問答を仕掛けられ、これを説破して初めて住持として認められるというものがあるそうです。この当時の晋山式にそのような段取りが含まれているかは不勉強なのでわかりませんが、あったとしたら鬼気迫る情景をみることができたかもしれません。日峰宗舜は住持の座に就くことはできましたが、その翌月に大徳寺から自殺者と逮捕者が出たそうです。一休宗純はこれにショックを受け、山城国と摂津国の国境にある出灰(いずりは)の尸陀寺に籠もって、断食を始めてしまいました。自殺を図ったと言います。この話が後花園天皇の耳に入り、断食を止めて京に戻るよう勅が出ましたので、一休宗純は思いとどまります。しかしながら、華叟派のリーダーである養叟宗頤の不甲斐なさと己の無力さはこれ以上ない程に味わってしまいました。この辺りから一休宗純の養叟宗頤に対する不満がたまりはじめてくるのです。
 日峰宗舜は年が明けた1448年(文安五年)の一月二十六日に示寂します。本山である大徳寺から疎まれ、京に根拠地を失った関山派の身でありながら、最終的に取り戻し、さらには大応(南浦紹明)派の頂点である大徳寺住持の座にいながらにして大往生を迎えた日峰宗舜はまさに満足を得ることができたと思われます。
 後継の大徳寺住持は関山派でも、華叟派でもない足庵宗鑑が就きました。両派にとって、日峰宗舜入山の折の不祥事が響いたものとみてよろしいでしょう。さらにその翌年の1449年(宝徳元年)細川勝元が管領職を辞します。これでもまだ満年齢で二十歳に過ぎないのではあるのですが。養叟宗頤にとって、反撃のチャンスが訪れたのでした。

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2015年5月10日 (日)

中漠:林下編⑫妙心寺復活

 応永の乱のあおりを受けて、妙心寺住持だった拙堂宗朴は青蓮院に幽閉。寺地は巻き上げられて、龍雲寺と改称されました。そこを管理していたのが廷用宗器という南禅寺僧ですが彼は足利義満の弟です。そこで修行をしていた妙心寺派の僧達は皆おいだされたわけです。こういう時、本来であれば本寺である大徳寺が引き取るべきではありますが、その当時、大徳寺は徹翁義亨の法系で固められておりました。妙心寺と大徳寺はともに宗峰妙超の法系を継いでおり、妙心寺開山の関山慧玄は徹翁義亨の兄弟弟子でもありました。しかし、大徳寺自体、辛うじて十刹の寺格を維持するのでカツカツの状態であり、幕府に処罰された妙心寺教団の僧達を受け入れることはしませんでした。これが後々の遺恨のもとになったのではと想像しております。

 妙心寺を失った妙心寺派僧は妙心寺第三世住持の無因宗因のもとで再建に取り組みます。一応、足利義満の死後に朝廷から大徳寺の住持にならないかという話が出ております。この当時、大徳寺も十刹の一つとして十方住持の制度の適用を受けるようにとの圧力を受けておりました。しかし、無因宗因が大徳寺住持になったところで数年のことであり、破産した妙心寺に所属する僧達の生業の道も立たない状態で、大徳寺僧達の面倒を見ることはできないと判断したのでしょう。妙心寺派は京に拠点を持たないまま、地方に活路を見出そうとします。
 無因宗因は不遇のまま、摂津国西宮の海清寺にて亡くなります。無因宗因没後の妙心寺派のエースとなったのは、弟子である日峰宗舜でした。彼も地方への巡業を続け、尾張国犬山で、内田左衛門次郎という土豪と出会い、彼の懇請により瑞泉寺という寺を建立します。そして、開山を故無因宗因として自らを二世として入山しました。
 時に1415年(応永二十二年)になります。この時の尾張国守護は管領も務めた斯波義重の晩年で、尾張国の国人の被官化を推し進めておりました。尾張国守護は応永の乱の戦後処分で手に入れたものでしたが、彼の出自である足利尾張守家所縁の地であるところから、その思い入れは強いものであったろうと思われます。ついでに言えば、管領になった時に、遠江国守護ももらっており、これが後に今川氏との抗争の原因になったりもしています。
 とはいえ、斯波義重の領国経営に尾張犬山の瑞泉寺が関与した形跡は感じられません。国家事業としての官寺建立とともに、御家人・守護大名の私寺建立も行われておりましたが、この時代あたりから、金さえあれば身分にかかわらず寺を作れるようになります。例えば、1378年(永和四年)に京の富商の小野妙覚が法華宗(日蓮宗)の妙覚寺を開基していたりしています。これもそういうものなのでしょう。
 開山に当たっては興味深い逸話が残されております。曰く、内田左衛門次郎が自らの持ち山を日峰宗舜に提供し、寺院建立を願い出たのですが、その山は水が出なかったようで、日峰宗舜の弟子である蜂屋玄瑞に岩頭を打たせたところそこから清水が湧き出ます。日峰宗舜はその功をもって、寺号に蜂屋玄瑞の法号にある「瑞」の字と湧き出た泉を組み合わせた瑞泉寺としたそうです。
 尾張犬山は北方の木曽川を挟んで濃尾国境の境目にある地です。瑞泉寺は地図で見ればわかるのですが、木曽川から1キロも離れていない場所にあり、水の出に困るような場所ではないように見えます。むしろ、この話は寺号のもととなった蜂屋玄瑞を際立たせるためのものかもしれません。寺院建立に当たり、井戸を掘るなどインフラを整えた人物であったものと推察します。また蜂屋玄瑞の属する蜂屋氏は美濃国の土岐氏の庶流です。この寺は美濃国人の蜂屋氏が国境の向こうに設けたアジール(避難所)という側面もあるやもしれません。だとすれば、これは大徳寺派の華叟宗曇が近江国堅田から琵琶湖を挟んだ対岸に建てた安脇禅興庵に似ています。延暦寺の影響の強い堅田では興禅活動をすすめるのが難しいため、安脇で人材を育てた上で、少しずつ堅田に禅を広げていくやり方がとられました。もちろん、華叟宗曇一人でそんな戦略を実行できないので、琵琶湖の湖族である堅田衆の協力の下でです。だとすれば、瑞泉寺のインフラ整備に貢献した蜂屋玄瑞の属する蜂屋氏もまた、木曽川の水運を担う川の民としての側面をもっていたのかもしれません。
 瑞泉寺においては、義天玄承をはじめとする後の妙心寺を担う有為の人材が育成されております。寺院経営も内田氏・蜂屋氏の支援のもとで黒字計上されていたものでしょう。その経済力を日峰宗舜は妙心寺復帰運動に使いました。

 妙心寺は足利義満が没収し、青蓮院門跡の義円に預けられ、龍雲寺と名を変えて、南禅寺の廷用宗器によって管理を任されました。青蓮院門跡の義円は足利義満の息子で後の足利義教です。廷用宗器は足利義満の弟でした。足利義満の死後、足利義持は足利義満のやったことのことごとく逆を行います。花の御所を移りもとの幕府のあった三条坊門第で執務をとるようになります。義満が一番気に入っていた息子の足利義嗣を上杉禅宗の乱に連座したとして処罰を下したり、日明貿易を取りやめたりして新しい幕府の形を模索しながら、結局は有力守護達の意向を無視できない形の政治に流された末に亡くなります。この時後継者を指名しなかったことで、幕府宿老達の合議の結果、くじで将軍が決められることになりました。これで選ばれたのが青蓮院門跡義円(還俗して足利義教)です。
 廷用宗器による龍雲寺(旧妙心寺)の管理は行き届かないところが多く、一部施設(微笑塔)を旧妙心寺派に任せることになりました。ここの管理運営に瑞泉寺からの資金が貢献したようです。廷用宗器が亡くなる前年に龍雲寺は合議の上で住持に日峰宗舜を選びます。ただし、この時点では妙心寺の寺号復活は許されず、養源院という寺号を使っておりました。

 後に、寺号を妙心寺に戻すことに成功します。
 このあたりの手腕は堅田祥瑞庵から大徳寺住持になった養叟宗頤に似ておりますが、日峰宗舜はより高みを目指しておりました。時の管領、細川持之と関係を持つようになります。細川持之はその死の直前に生死の一大事を日峰宗舜に問い、その回答に安心を得て亡くなったとのことですので、日峰宗舜は細川持之を政治的に利用はしませんでしたが、人生の師としての役割を果たしたことになります。この関係は、細川持之の息子、勝元に引き継がれます。そして、細川勝元が管領職についた二年後に、養叟宗頤にとっての一大事件が起こります。幕府が大徳寺の住持に日峰宗舜を指名したのです。

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2015年5月 3日 (日)

中漠:林下編⑪養叟宗頤、大徳寺法統を守護する。

 大徳寺住持となった養叟宗頤は時の室町殿、足利義教にかけあって、大徳寺の十刹指定の解除を勝ち取ります。1431年(永享三年)のことです。これによって、大徳寺は十方住持制の適用から外れ、住持職は宗峰妙超の法系で独占することが可能になりました。それと引き換えに大徳寺は官寺としての地位と幕府の保護を失うことになります。大徳寺は寺院運営を従来型の幕府・朝廷の外護に代えて、地域地侍層の支持に基づくものとする新しいビジネスモデルに切り替えたのです。既に洛内では法華宗が町衆の支持のもとに隆盛を迎えておりましたので、それ自体は目新しいものではないものの、時流に乗った動きでした。養叟宗頤は幕府の庇護を離れた以上、堅田だけでは不足と考えさらなる教勢拡大を策します。そのターゲットとなったのが泉州堺でした。ここもまた堅田と同じく水上交通の要衝です。一休宗純もここに派遣されて教宣活動にいそしむことになりました。

 1433年(永享五年)、後小松院が崩御します。その臨終の場に一休宗純は立ち合い、書籍と硯を下賜されたといいます。一休宗純後小松帝落胤説に従うなら、彼はここで自らと皇室との繋がりを改めて認識することとなります。既に1428年(正長元年)に後小松院の皇子である称光天皇は崩御しており、皇統は後小松院が属する後光厳院系から、崇光院系に移っておりました。落胤説では以前に一休宗純が後小松院に拝謁した折、皇統継承のオファーがあり、一休宗純はそれを蹴ったことになっております。それを踏まえての書籍と硯の下賜なのですから、これからは書に生きよとの実の父からの遺言ということになるのでしょう。失われた皇統の最後の一人としての自覚がここで現れたのかもしれません。
 落胤でなかったとしても、彼が上皇に拝謁し、臨終に立ち会えた経験が彼自身に国の形と自らとの繋がりを考えるきっかけになったものと思われます。ボロをまとい、垢にまみれていた修行僧が、国の中心である天皇に拝謁し、書を送られるきっかけは間違いなく、仏の教えや導きによる縁でしかないということになるのですから。一休宗純は自らと天皇との距離感、国の形、そして師である華叟宗曇、さかのぼって宗峰妙超、南浦紹明、さらには中国にいた虚堂智愚との繋がりを考えるようになります。
 いずれにせよ、後年の一休宗純は強烈な自意識の持ち主であることが、書き残された書から伺えます。その多情な文書は後小松院が遺した硯から迸ったものであるかもしれません。

 一休宗純と養叟宗頤の関係は一休宗純の一方的な痛罵の中から推し量るしかないのですが、養叟宗頤は大徳寺の歴史の中では、重要なポジションを占めております。それは、大徳寺歴代の住持の多くを養叟宗頤系の僧侶が占めていることから伺えるでしょう。彼本人は本山である大徳寺に所属して修行した経験はなく、末寺である近江国堅田の瑞祥庵の後継者という立場から、大徳寺住持の地位を勝ち取った人物です。一休宗純はその運動に加担していたと思われます。養叟宗頤が大徳寺を十法住持の制度から外すよう室町殿に要請し、林下に落とされたこと自体も、一休宗純としては異存はなかったと私は判断しております。後年、一休が禅僧を痛罵するにあたり、自らの正統性を中国の虚堂智愚から数えて七世の伝承者であることに置いております。当時の叢林は南宋五山が衰微して久しく、明代においては、僧侶の交流は制限されており禅の内容が国風化するとともに、十法住持の制度が法系を乱す中、偈頌の制作に血道を上げる状況だったとのことです。大徳寺の林下落ちは、そうした状況を踏まえ、正しい法系の維持を看板にした養叟宗頤の差別化戦略でありましょう。

 一休宗純が養叟宗頤に明確に反抗したのは、1440年(永享十二年)に大徳寺で営まれた華叟宗曇の十三回忌法要においてです。華叟宗曇は一休宗純と養叟宗頤の共通の師であり、華叟宗曇は自身が大徳寺の住持になったことはなかったものの、ここに属して修行をしていた経験があり、養叟宗頤の住持職の正統性を担保する意味合いもあって大徳寺で法要を営んでいたのです。養叟宗頤はこれを機に、一休宗純のために大徳寺内の塔頭である如意庵を提供したのですが、ここを十日で辞して去りました。一休宗純は養叟宗頤に常々不満を持っていたようですが、華叟宗曇の死後十二年にして自意識を持つに至りました。如意庵を辞したこと自体は、彼がいつもやっている奇矯な行動の枠外からでていないものですが、それは後に至って先鋭化することになります。

 しかしながら、この時点では二人の対立(というより一休宗純の一方的な攻撃)はまだその萌芽が見えはじめたにすぎません。本格的なバトルになる前に、二人にとって共通の敵が現れたのです。それは、同じ宗峰妙超の法系に属する日峰宗舜でした。彼は倒産した妙心寺を見事に再建し、そして養叟宗頤とその弟子たちによって固められている大徳寺の住持職を狙って一大運動を開始していたのです。

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