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2015年5月24日 (日)

中漠:林下編⑭紫を着る男Ⅰ

 日峰宗舜の大徳寺住持在任期間はわずか半年足らずのものでした。日峰宗舜が属する関山派と大徳寺との関係はあまり良いものではなく、そういう関係を清算する為の手段として関山派総帥である日峰宗舜は大徳寺住持の座についたわけですが、全てを清算するにはあまりにも短すぎました。しかも、急いてしまったせいで、本山居つきの僧達に自殺者と逮捕者を出してしまいました。これもまた、関山派にとっては手痛い失敗と言えたでしょう。日峰宗舜の死後、大徳寺住持の座は関山派でも、養叟派でもない、足庵宗鑑がつくことになりました。関山派としては、一旦退却して体制を整える必要がありました。日峰宗舜亡き後に関山派の中心となったのは義天玄承です。足庵宗鑑住持就任の翌年、細川勝元は管領の座を畠山持国に引き渡します。この前後細川勝元と畠山持国は交替で管領を務めながら足利義教が家を割った全国の守護家の修復を行っておりましたが、細川勝元は足利義教路線で新たに本家として取り立てられた元分家筋を持ち上げ、畠山持国は義教に押しやられた元本家筋の復帰運動に加担しておりました。その結果、日本中がぐちゃぐちゃな状態になって、最終的に応仁の乱になってしまうわけです。考えてみれば、大徳寺と妙心寺派との関係もその構図がぴたりとはまるわけですね。

 養叟派と関山派はこの期間それぞれ一旦退きながらも反攻の態勢を整えます。そもそも、関山派と大徳寺との関係悪化の原因は大徳寺住持職を宗峰妙超の弟子である徹翁義亨が自らの弟子筋で固めてしまったことによります。関山派の祖である関山慧玄も宗峰妙超の弟子ではあったわけですが、大徳寺からこれを排除されて妙心寺を中心に経営を行っていたわけです。大徳寺側ではこれを宗峰妙超の晩年、関山慧玄を遠ざけたとか、正式な印可状をもらっていないと説明して正当化していたようです。実際にそうであるかどうかは私は知りません。ただ、それを主張する養叟宗頤とその弟子達にも弱みがありました。養叟宗頤の師である故華叟宗曇に大徳寺の住持経験がないことです。華叟宗曇は大徳寺の言外宗忠を師とはしておりましたが、本人が大徳寺住持となったことはありません。近江国堅田にある祥瑞庵の本山への貢献が大なるをもって養叟宗頤が住持になることができたわけです。言ってみれば、華叟宗曇は地方支社長で、そこでのプロジェクトが大成功して本社業績を上回った為に、地方支社の部長であった養叟宗頤が本社社長に納まったようなものです。逆に言えば業績貢献が社長の座に直結する先例を作ったわけです。その意味では細川京兆家というビッグパトロンを得た関山派が本山への貢献をアピールすれば、それを拒めないことになります。その意味で養叟宗頤は何としてでも正統性を確保する必要があったわけです。
 1452年(享徳元年)、養叟宗頤は朝廷に願い出て、自らの師である故華叟宗曇の為の禅師号追贈を朝廷に願い出ました。時の後花園天皇はこれを受けて華叟宗曇に大機弘宗禅師という号を追贈しました。異例のことではあります。養叟宗頤としては、それを弾みとして、自らの弟子を大徳寺住持の座につけて関山派の介入を排除したいという意図があったようです。しかも、その追贈の宣旨には華叟宗曇が大徳寺住持であったと記されております。実際はそういう事実はなく、これは明らかに養叟宗頤による工作の結果です。禅宗では師を称揚する為に事実とは異なる記録が残されることがままありますが、これによって養叟宗頤が大徳寺正統の法流にいることを誇示できるようになったわけです。
 それに対する関山派ですが、日峰宗舜は、尾張国犬山瑞泉寺から本寺である妙心寺復活をなしとげ、一気に大徳寺住持の座まで勝ち得たものの、その体制を作り上げる前に亡くなってしまいました。後継住持も関山派から出すことができず、一時の足踏み状態になります。妙心寺は復活させたものの、再建途上で大徳寺へ再アタックする為には、一度態勢を立て直す必要がありました。そこに支援の手を差し伸べたのは管領職を退いた細川勝元でした。彼は関山派の為の寺地を洛北の衣笠山に提供します。そこには藤原北家系の公家徳大寺氏の山荘があったのですが、細川勝元はこれを譲り受けて関山派の僧水、義天玄承に与えたのでした。関山派はここを拠点に体制固めをしてゆきます。

 1452年(享徳元年)十二月二十三日、細川勝元が管領に復帰します。一休宗純の弟子が作った年譜では翌年ということになっているのですが、実際は多分養叟宗頤による華叟宗曇への禅師号追贈の前後頃、養叟宗頤の弟子の惟三宗叔が大徳寺住持になります。惟三宗叔は養叟宗頤の弟子で、養叟派の巻き返しが成就したことになります。彼の晋山式には一休宗純も自らの弟子を本寺に派遣して手伝わせております。1453年(享徳二年)八月二日に大徳寺に火災が発生し、如意庵・大用庵を残してほぼ全焼させてしまいました。養叟宗頤は焼失後の大徳寺再建に尽力しますが、同じ年の十二月、朝廷によって住持の交替の勅がでてしまいます。年譜には何も書かれてはいませんが、大徳寺火災は失火と見なされて、住持である惟三宗叔と養叟宗頤は管理責任を問われたようです。
 新任住持として指名されたのは、関山派の義天玄承でした。彼は日峰宗舜の弟子であり、志半ばで示寂した師の経験から、大徳寺内で関山派がいかなる立場にあるかをよく知っておりました。何より大徳寺は火災後の復興途上であり、一方の関山派は復興した妙心寺とさらに広い龍安寺を拠点にできておりました。故に、義天玄承は長期に大徳寺に居座ることはせず、わずか八日で退去しました。但し、入山においては一休宗純や養叟宗頤の度肝を抜くことをやってのけて、関山派としての矜持を大徳寺に刻み付けました。すなわち、士卒を率い、紫衣をまとって晋山したのです。
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