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2015年5月17日 (日)

中漠:林下編⑬関山派、大徳寺住持の座を勝ち取る。

 日峰宗舜と養叟宗頤はそれぞれの属する寺院を似たやり方で復興しました。日峰宗舜は尾張国犬山瑞泉寺を活用し、養叟宗頤は近江国堅田瑞祥庵の力を借りて妙心寺と大徳寺の住持に収まることに成功しました。養叟宗頤は足利義教に願い出て十刹の列から外れ、自ら林下たることを宣言することによって、南浦紹明から連なる法統を糺します。大徳寺は大応(南浦紹明)派の本山ですから養叟宗頤にとっての目標は達成されたと言ってよいでしょう。
 しかし、日峰宗舜にとっては、妙心寺復興は通過点でしかありませんでした。妙心寺が潰された当時、大徳寺に十分な手当てを施してはもらえなかったことは、彼を初めとする妙心寺派の僧達にとっては決して忘れることができないことだったでしょう。それでも一応、彼の師である無因宗因に大徳寺の住持になる話が朝廷からきておりました。それを果たせなかったのは、無因宗因が自らの弟子を養いつつ、大徳寺を経営することなどできなかったからだと思われます。だとすれば、念願の妙心寺住持に収まった日峰宗舜にとって、大徳寺との関係に落とし前をつけようとすることは理の当然でもありました。
 日峰宗舜は大徳寺をよく観察し、取り入れるべきところは取り入れておりました。財政難に陥っていた大徳寺を華叟宗曇が堅田の瑞祥庵で支えていたこと。それを利用して後に養叟宗頤が大徳寺住持の座を勝ち得たこと。延暦寺の干渉に対しては、琵琶湖対岸の安脇禅興庵をもってそれに対応していたこと等をです。そして、華叟宗曇死後は朝廷を動かして養叟宗頤が住持となったこと。幕府と交渉して十方住持の制の対象外としてもらったこと等です。

 日峰宗舜は管領細川持之、そしてその後継者の勝元と誼を通じるようになります。一方の養叟宗頤の方は、本人はどのような活動をしていたのか定かではないものの、弟弟子の一休宗純を使って、朝廷に取り入る戦術を取っておりました。
 但し、細川勝元が管領になった1445年(文安二年)当時、弱冠十三歳でしかありませんでした。実際は彼の叔父にあたる細川持賢が後見人として政務をとりしきっていたようです。先代管領である細川持之の臨終の段に日峰宗舜は法語を聞かせて穏やかな最期を迎えられたそうです。少年管領とその叔父はその恩義に報いたいと考えたのでしょう。朝廷も幕府の威光には逆らえません。それを見越しての接触とすれば、日峰宗舜はなかなかの策士と言えるかもしれません。一方の細川家の方も禅宗とは頼之の代で春屋妙葩と対立して大きなミソをつけてしまったことが気になっていたのではないでしょうか。勝元やその子の政元の代になると積極的に宗教界に干渉して自分に翼賛する新勢力を作ることに腐心します。

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 日峰宗舜の大徳寺入山の噂は養叟宗頤の耳にも入り、一休宗純とも対策を検討します。大徳寺を挙げて日峰宗舜の入山阻止することに誰も異存はありませんでした。一休と養叟宗頤は二人でロールプレイのシミュレーションをしてみて、宗論を仕掛けて説破すれば入山させずに済むかも、などと考えたりします。しかし、結局の所幕府に勅命をだされてしまえば手も足も出ないという結論に落ち着いてしまいました。とはいえ、一休を初めとする大徳寺僧には関山派(妙心寺派)の受け入れを潔しとしない者も多く、養叟宗頤は板挟みになってしまいます。最終的に日峰宗舜の入山阻止はできないことがわかった1446年(文安三年)に養叟宗頤は大徳寺を退去し、紀州に隠棲してしまいました。1447年(文安四年)八月十二日、残された一休宗純をはじめとする大徳寺詰の僧達は挙げた拳の振り下ろし所もわからぬまま、日峰宗舜を大徳寺に迎えることになったのです。
 そういう状況でありましたので、日峰宗舜の入山は無事に済みそうにもありませんでした。現代でも行われている住持入山の折に行われている儀式に晋山式というものがありますが、この段取りの中に門前で寺に入ろうとした新任住持が問答を仕掛けられ、これを説破して初めて住持として認められるというものがあるそうです。この当時の晋山式にそのような段取りが含まれているかは不勉強なのでわかりませんが、あったとしたら鬼気迫る情景をみることができたかもしれません。日峰宗舜は住持の座に就くことはできましたが、その翌月に大徳寺から自殺者と逮捕者が出たそうです。一休宗純はこれにショックを受け、山城国と摂津国の国境にある出灰(いずりは)の尸陀寺に籠もって、断食を始めてしまいました。自殺を図ったと言います。この話が後花園天皇の耳に入り、断食を止めて京に戻るよう勅が出ましたので、一休宗純は思いとどまります。しかしながら、華叟派のリーダーである養叟宗頤の不甲斐なさと己の無力さはこれ以上ない程に味わってしまいました。この辺りから一休宗純の養叟宗頤に対する不満がたまりはじめてくるのです。
 日峰宗舜は年が明けた1448年(文安五年)の一月二十六日に示寂します。本山である大徳寺から疎まれ、京に根拠地を失った関山派の身でありながら、最終的に取り戻し、さらには大応(南浦紹明)派の頂点である大徳寺住持の座にいながらにして大往生を迎えた日峰宗舜はまさに満足を得ることができたと思われます。
 後継の大徳寺住持は関山派でも、華叟派でもない足庵宗鑑が就きました。両派にとって、日峰宗舜入山の折の不祥事が響いたものとみてよろしいでしょう。さらにその翌年の1449年(宝徳元年)細川勝元が管領職を辞します。これでもまだ満年齢で二十歳に過ぎないのではあるのですが。養叟宗頤にとって、反撃のチャンスが訪れたのでした。

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