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2015年5月 3日 (日)

中漠:林下編⑪養叟宗頤、大徳寺法統を守護する。

 大徳寺住持となった養叟宗頤は時の室町殿、足利義教にかけあって、大徳寺の十刹指定の解除を勝ち取ります。1431年(永享三年)のことです。これによって、大徳寺は十方住持制の適用から外れ、住持職は宗峰妙超の法系で独占することが可能になりました。それと引き換えに大徳寺は官寺としての地位と幕府の保護を失うことになります。大徳寺は寺院運営を従来型の幕府・朝廷の外護に代えて、地域地侍層の支持に基づくものとする新しいビジネスモデルに切り替えたのです。既に洛内では法華宗が町衆の支持のもとに隆盛を迎えておりましたので、それ自体は目新しいものではないものの、時流に乗った動きでした。養叟宗頤は幕府の庇護を離れた以上、堅田だけでは不足と考えさらなる教勢拡大を策します。そのターゲットとなったのが泉州堺でした。ここもまた堅田と同じく水上交通の要衝です。一休宗純もここに派遣されて教宣活動にいそしむことになりました。

 1433年(永享五年)、後小松院が崩御します。その臨終の場に一休宗純は立ち合い、書籍と硯を下賜されたといいます。一休宗純後小松帝落胤説に従うなら、彼はここで自らと皇室との繋がりを改めて認識することとなります。既に1428年(正長元年)に後小松院の皇子である称光天皇は崩御しており、皇統は後小松院が属する後光厳院系から、崇光院系に移っておりました。落胤説では以前に一休宗純が後小松院に拝謁した折、皇統継承のオファーがあり、一休宗純はそれを蹴ったことになっております。それを踏まえての書籍と硯の下賜なのですから、これからは書に生きよとの実の父からの遺言ということになるのでしょう。失われた皇統の最後の一人としての自覚がここで現れたのかもしれません。
 落胤でなかったとしても、彼が上皇に拝謁し、臨終に立ち会えた経験が彼自身に国の形と自らとの繋がりを考えるきっかけになったものと思われます。ボロをまとい、垢にまみれていた修行僧が、国の中心である天皇に拝謁し、書を送られるきっかけは間違いなく、仏の教えや導きによる縁でしかないということになるのですから。一休宗純は自らと天皇との距離感、国の形、そして師である華叟宗曇、さかのぼって宗峰妙超、南浦紹明、さらには中国にいた虚堂智愚との繋がりを考えるようになります。
 いずれにせよ、後年の一休宗純は強烈な自意識の持ち主であることが、書き残された書から伺えます。その多情な文書は後小松院が遺した硯から迸ったものであるかもしれません。

 一休宗純と養叟宗頤の関係は一休宗純の一方的な痛罵の中から推し量るしかないのですが、養叟宗頤は大徳寺の歴史の中では、重要なポジションを占めております。それは、大徳寺歴代の住持の多くを養叟宗頤系の僧侶が占めていることから伺えるでしょう。彼本人は本山である大徳寺に所属して修行した経験はなく、末寺である近江国堅田の瑞祥庵の後継者という立場から、大徳寺住持の地位を勝ち取った人物です。一休宗純はその運動に加担していたと思われます。養叟宗頤が大徳寺を十法住持の制度から外すよう室町殿に要請し、林下に落とされたこと自体も、一休宗純としては異存はなかったと私は判断しております。後年、一休が禅僧を痛罵するにあたり、自らの正統性を中国の虚堂智愚から数えて七世の伝承者であることに置いております。当時の叢林は南宋五山が衰微して久しく、明代においては、僧侶の交流は制限されており禅の内容が国風化するとともに、十法住持の制度が法系を乱す中、偈頌の制作に血道を上げる状況だったとのことです。大徳寺の林下落ちは、そうした状況を踏まえ、正しい法系の維持を看板にした養叟宗頤の差別化戦略でありましょう。

 一休宗純が養叟宗頤に明確に反抗したのは、1440年(永享十二年)に大徳寺で営まれた華叟宗曇の十三回忌法要においてです。華叟宗曇は一休宗純と養叟宗頤の共通の師であり、華叟宗曇は自身が大徳寺の住持になったことはなかったものの、ここに属して修行をしていた経験があり、養叟宗頤の住持職の正統性を担保する意味合いもあって大徳寺で法要を営んでいたのです。養叟宗頤はこれを機に、一休宗純のために大徳寺内の塔頭である如意庵を提供したのですが、ここを十日で辞して去りました。一休宗純は養叟宗頤に常々不満を持っていたようですが、華叟宗曇の死後十二年にして自意識を持つに至りました。如意庵を辞したこと自体は、彼がいつもやっている奇矯な行動の枠外からでていないものですが、それは後に至って先鋭化することになります。

 しかしながら、この時点では二人の対立(というより一休宗純の一方的な攻撃)はまだその萌芽が見えはじめたにすぎません。本格的なバトルになる前に、二人にとって共通の敵が現れたのです。それは、同じ宗峰妙超の法系に属する日峰宗舜でした。彼は倒産した妙心寺を見事に再建し、そして養叟宗頤とその弟子たちによって固められている大徳寺の住持職を狙って一大運動を開始していたのです。

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