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2015年5月10日 (日)

中漠:林下編⑫妙心寺復活

 応永の乱のあおりを受けて、妙心寺住持だった拙堂宗朴は青蓮院に幽閉。寺地は巻き上げられて、龍雲寺と改称されました。そこを管理していたのが廷用宗器という南禅寺僧ですが彼は足利義満の弟です。そこで修行をしていた妙心寺派の僧達は皆おいだされたわけです。こういう時、本来であれば本寺である大徳寺が引き取るべきではありますが、その当時、大徳寺は徹翁義亨の法系で固められておりました。妙心寺と大徳寺はともに宗峰妙超の法系を継いでおり、妙心寺開山の関山慧玄は徹翁義亨の兄弟弟子でもありました。しかし、大徳寺自体、辛うじて十刹の寺格を維持するのでカツカツの状態であり、幕府に処罰された妙心寺教団の僧達を受け入れることはしませんでした。これが後々の遺恨のもとになったのではと想像しております。

 妙心寺を失った妙心寺派僧は妙心寺第三世住持の無因宗因のもとで再建に取り組みます。一応、足利義満の死後に朝廷から大徳寺の住持にならないかという話が出ております。この当時、大徳寺も十刹の一つとして十方住持の制度の適用を受けるようにとの圧力を受けておりました。しかし、無因宗因が大徳寺住持になったところで数年のことであり、破産した妙心寺に所属する僧達の生業の道も立たない状態で、大徳寺僧達の面倒を見ることはできないと判断したのでしょう。妙心寺派は京に拠点を持たないまま、地方に活路を見出そうとします。
 無因宗因は不遇のまま、摂津国西宮の海清寺にて亡くなります。無因宗因没後の妙心寺派のエースとなったのは、弟子である日峰宗舜でした。彼も地方への巡業を続け、尾張国犬山で、内田左衛門次郎という土豪と出会い、彼の懇請により瑞泉寺という寺を建立します。そして、開山を故無因宗因として自らを二世として入山しました。
 時に1415年(応永二十二年)になります。この時の尾張国守護は管領も務めた斯波義重の晩年で、尾張国の国人の被官化を推し進めておりました。尾張国守護は応永の乱の戦後処分で手に入れたものでしたが、彼の出自である足利尾張守家所縁の地であるところから、その思い入れは強いものであったろうと思われます。ついでに言えば、管領になった時に、遠江国守護ももらっており、これが後に今川氏との抗争の原因になったりもしています。
 とはいえ、斯波義重の領国経営に尾張犬山の瑞泉寺が関与した形跡は感じられません。国家事業としての官寺建立とともに、御家人・守護大名の私寺建立も行われておりましたが、この時代あたりから、金さえあれば身分にかかわらず寺を作れるようになります。例えば、1378年(永和四年)に京の富商の小野妙覚が法華宗(日蓮宗)の妙覚寺を開基していたりしています。これもそういうものなのでしょう。
 開山に当たっては興味深い逸話が残されております。曰く、内田左衛門次郎が自らの持ち山を日峰宗舜に提供し、寺院建立を願い出たのですが、その山は水が出なかったようで、日峰宗舜の弟子である蜂屋玄瑞に岩頭を打たせたところそこから清水が湧き出ます。日峰宗舜はその功をもって、寺号に蜂屋玄瑞の法号にある「瑞」の字と湧き出た泉を組み合わせた瑞泉寺としたそうです。
 尾張犬山は北方の木曽川を挟んで濃尾国境の境目にある地です。瑞泉寺は地図で見ればわかるのですが、木曽川から1キロも離れていない場所にあり、水の出に困るような場所ではないように見えます。むしろ、この話は寺号のもととなった蜂屋玄瑞を際立たせるためのものかもしれません。寺院建立に当たり、井戸を掘るなどインフラを整えた人物であったものと推察します。また蜂屋玄瑞の属する蜂屋氏は美濃国の土岐氏の庶流です。この寺は美濃国人の蜂屋氏が国境の向こうに設けたアジール(避難所)という側面もあるやもしれません。だとすれば、これは大徳寺派の華叟宗曇が近江国堅田から琵琶湖を挟んだ対岸に建てた安脇禅興庵に似ています。延暦寺の影響の強い堅田では興禅活動をすすめるのが難しいため、安脇で人材を育てた上で、少しずつ堅田に禅を広げていくやり方がとられました。もちろん、華叟宗曇一人でそんな戦略を実行できないので、琵琶湖の湖族である堅田衆の協力の下でです。だとすれば、瑞泉寺のインフラ整備に貢献した蜂屋玄瑞の属する蜂屋氏もまた、木曽川の水運を担う川の民としての側面をもっていたのかもしれません。
 瑞泉寺においては、義天玄承をはじめとする後の妙心寺を担う有為の人材が育成されております。寺院経営も内田氏・蜂屋氏の支援のもとで黒字計上されていたものでしょう。その経済力を日峰宗舜は妙心寺復帰運動に使いました。

 妙心寺は足利義満が没収し、青蓮院門跡の義円に預けられ、龍雲寺と名を変えて、南禅寺の廷用宗器によって管理を任されました。青蓮院門跡の義円は足利義満の息子で後の足利義教です。廷用宗器は足利義満の弟でした。足利義満の死後、足利義持は足利義満のやったことのことごとく逆を行います。花の御所を移りもとの幕府のあった三条坊門第で執務をとるようになります。義満が一番気に入っていた息子の足利義嗣を上杉禅宗の乱に連座したとして処罰を下したり、日明貿易を取りやめたりして新しい幕府の形を模索しながら、結局は有力守護達の意向を無視できない形の政治に流された末に亡くなります。この時後継者を指名しなかったことで、幕府宿老達の合議の結果、くじで将軍が決められることになりました。これで選ばれたのが青蓮院門跡義円(還俗して足利義教)です。
 廷用宗器による龍雲寺(旧妙心寺)の管理は行き届かないところが多く、一部施設(微笑塔)を旧妙心寺派に任せることになりました。ここの管理運営に瑞泉寺からの資金が貢献したようです。廷用宗器が亡くなる前年に龍雲寺は合議の上で住持に日峰宗舜を選びます。ただし、この時点では妙心寺の寺号復活は許されず、養源院という寺号を使っておりました。

 後に、寺号を妙心寺に戻すことに成功します。
 このあたりの手腕は堅田祥瑞庵から大徳寺住持になった養叟宗頤に似ておりますが、日峰宗舜はより高みを目指しておりました。時の管領、細川持之と関係を持つようになります。細川持之はその死の直前に生死の一大事を日峰宗舜に問い、その回答に安心を得て亡くなったとのことですので、日峰宗舜は細川持之を政治的に利用はしませんでしたが、人生の師としての役割を果たしたことになります。この関係は、細川持之の息子、勝元に引き継がれます。そして、細川勝元が管領職についた二年後に、養叟宗頤にとっての一大事件が起こります。幕府が大徳寺の住持に日峰宗舜を指名したのです。

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