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2015年5月31日 (日)

中漠:林下編⑮紫を着る男Ⅱ

 紫衣とは、紫色の法衣のことです。古来東アジアにおいては、着衣の色が身分を示すことがありました。例えば中国の皇帝は黄色、朝鮮王は赤等、臣下の身分の者はそれらの色の着衣を身に着けることは禁じられていたわけです。似たようなことは日本においても行われていて、聖徳太子の冠位十二階という制度においては冠の色で身分が分別されておりました。その中で最高位を示す色は紫色でした。僧に対して紫色が使われたのは奈良時代に遣唐使として唐に渡った玄昉がその嚆矢です。もともとの紫衣は玄昉が唐の玄宗皇帝からもらった物であったのですが、帰国後に聖武天皇の側近として活躍した玄昉に対して、聖武天皇が改めて、玄昉に紫衣を下賜したのが最初の事例でした。以後、紫衣は高位の僧に対して、天皇が下賜する物として定着します。
 冠位十二階において、それぞれの冠位には色に応じた名前がつけられております。高い方から徳仁礼信義智と六つあってそれぞれに大小とついています。紫色がついているのは、大徳と小徳の二つです。大徳寺建立の地は洛北の紫野と言い、寺号の由来には冠位十二階の故事に由来しているのかもしれません。かもしれないというのは、そういう説があるかもと思って探したのですが、見つかりませんでしたので。ただ、故事に通じた人間であればそうした連想はあっても不思議はないかと思います。
 ただし、大徳寺と紫色との関係はやや微妙な物も含んでおります。かつて紫野は東山の鳥辺野と並ぶ洛外埋葬地のひとつでした。古代から中世前期にかけての洛中は死の穢れを徹底的に嫌う土地柄でしたので、洛中の使者は洛外に運ばれて葬られるわけですが、紫野への運搬ルートの途上にある千本通り(現在もあります)の地名の由来は埋葬のための卒塔婆が千本立ち並んでいたことにちなむという説があります。そして紫野の紫は冠位十二階が最高の色と認めた紫ではなく、死者が流した血が変色した色のことであるという話もあるのですね。
 義天玄承に紫衣をまとわせたのは、細川勝元であると考えて差し支えないでしょう。それは義天玄承の入山の妨害を排除するために士卒をつけたということから判断できます。ただ、紫衣を着せた底意にそういう俗説を含んでいたとすれば、それはなかなかにどす黒くあります。

 ともあれ、公式には紫衣を着た上での入山は大徳寺にとって大変名誉なことでした。なにしろ当時は大徳寺はおろか、禅林全体を見渡しても禅宗の僧侶が紫衣を賜った例がほとんどなかったからです。これは養叟宗頤にとっては痛恨ことでした。彼が大徳寺住持を自派に奪い返したのち、故華叟宗曇のための禅師号追贈を行ったのは、自分につながる法流の価値を高めて他の法流を締め出すことが目的であったためです。義天玄承が紫衣を大徳寺にもたらした初めての者となれば、以後の大徳寺は住持の有資格者としての関山派を無視できなくなります。
 これは養叟宗頤の大失態でした。同時に幕府や朝廷の方がしたたかであったと言えるでしょう。養叟宗頤は自らの正統性を朝廷に依存しておりました。コネクションをもって末寺の後継候補から本寺住持にのし上がり、師を禅師に列して自らの正統性を確保したわけですが、これは全て朝廷への工作によるものでした。一休宗純は師である華叟宗曇の晩年には師の臨終の地である高源院にいたわけではなく、京にいて後小松院に拝謁していました。そして華叟宗曇の死後に兄弟子養叟宗頤の大徳寺住持継承が実現したのですから、自らのコネクションを利用したフシがあります。後小松院崩御の後も、摂津国出灰(いずりは)の尸陀寺で自殺を図った折も、後花園天皇の諌止によって思いとどまっておりますので、朝廷とのコネクションは継続しております。よって、華叟宗曇の禅師号追贈工作に協力していた可能性もあるのですね。

 しかし、関山派の方は朝廷ではなく、幕府管領に支援者となってもらうことによってその全てを覆してしまいました。朝廷に直接のコネクションをもって影響力を行使するのではなく、幕府の力で朝廷を動かすわけですね。朝幕の力関係を鑑みるなら、あらがいようはありませんでした。少なくとも一休宗純はそのような認識に至ったようですが、養叟宗頤は尚もあきらめてはいないようでした。
 それが爆発したのが、1454年(享徳三年)です。一休宗純と養叟宗頤は大喧嘩をやらかし、修復不能な状態となったのです。その時の一休宗純の言い分から推察するに、関山派の派祖関山慧玄が師である宗峰妙超から印可をもらったかどうかで抗戦しようとする養叟宗頤に、一休宗純がそれは無益と反対。それに対して、養叟宗頤が一休宗純もまた印可を華叟宗曇からもらっていないと言い出したことに一休宗純はブチ切れたもようです。

 この後、一休宗純は養叟宗頤と袂を分かって独自行動をとるようになります。並行して養叟宗頤への悪口を綴った自戒集という文集も作っております。この後、養叟宗頤は細川氏の勢力圏である泉州堺に陽春庵を開山して布教活動を始めます。帰依者を増やして影響力を高めて関山派の干渉に対抗しようという意図ですが、一休宗純にとってはその勝負はすでに義天玄承が紫衣を賜った時点で決着がついておりました。むしろ、その方向性で進めば進むほど師から伝授された教えはぼけて薄まる副作用の方が大きいように見えていたのです。

 義天玄承への紫衣下賜は以後、大徳寺の慣例となり、江戸期に入って紫衣事件という朝幕関係緊張の遠因ともなります。

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