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2015年6月14日 (日)

中漠:林下編⑰堅田本福寺

 養叟宗頤や一休宗純はともに堅田瑞祥庵で学びましたが、その後、彼らの足跡に堅田の地はあまり出てきません。その間に、堅田の宗教地図が塗り替えられることになるのですが、その主役が本稿で紹介する堅田本福寺と三世住持の法住です。
 本福寺は、1312年ー1317年(正和年間)に近江国野洲群三上神社の神職である善道が建てた社が始まりですが、それに前後して京都東山大谷廟堂の覚如が本願寺教団を立ち上げ、これに呼応してこの社は本福寺として本願寺教団に入ります。この時代は神道と仏教の間の垣根は極めて低く、仏教寺院に鳥居があり、また神社に梵鐘が当たり前のようにある時代でした。但し、初期の本願寺教団はあまり振るわなかったようです。
 その十年後に堅田に玉泉庵が建ち、細々と興禅活動が始められます。これが結実するのは七十余年後になって華叟宗曇が瑞祥庵に入り、安脇の禅興す庵と連携して比叡山延暦寺に対する興禅運動が本格化する頃になります。その時の本福寺の住持である覚念はこの運動に呼応していたようで、本福寺の宗旨を禅宗に改め、高徳庵という禅院を敷地内に建てております。1406年(応永十三年)延暦寺は瑞祥庵を大徳寺の末寺であることを認め、これを手放し、その五年後に一休宗純が瑞祥庵の門を叩くことになるのですが、堅田における興禅運動は成功したものの、それが本福寺にとって利となるかどうかは別問題でした。
 堅田は湖族による水運事業で潤っており、それが後に養叟宗頤をして大徳寺住持にまで押し上げるのですが、禅宗は金がかかる宗教活動です。瑞祥庵が受け入れるのは湖族堅田衆のうち士分である殿原衆(とのばらしゅう)のみでした。しかし、湖族は士分のみで構成されているわけではありません。堅田衆は水運で潤っており、非士分の全人衆(もろうどしゅう又はまろうどしゅう)もまた宗教活動を行いうる余裕を持っております。本福寺が禅宗寺院としてやってゆくためには瑞祥庵と競合するわけですが、既に瑞祥庵は大徳寺をバックにつけているのでこれと戦うことは得策ではない。もともと本福寺は本願寺を本寺とする浄土真宗の寺院であり、ここで全人衆向けに真宗を勧めれば瑞祥庵と競合することもなく、本福寺も栄えるのではないかということです。
 本福寺で学ぶ法住(のちの三世住持。覚念がもともと本願寺門徒であることを考えれば息子と見てよいかとも思うのですが確認しておりません)は夢のお告げがあったとしていますが、恐らくは法住もしくは、覚念が上記のようなことを考えたのでしょう。
 法住は都で真宗を学ぶことにしますが、もともとの本寺である本願寺は寂れ果てておりました。やむを得ず、当時羽振りのよかった仏光寺に帰依します。時に1416年(応永二十三年)、法住は数え二十歳の青年坊主です。但し法住は専業坊主ではなく、紺屋(染物屋)を営んでいたようです。一休宗純の師、華叟宗曇が示寂した年に、延暦寺から志賀郡の紺屋支配を任されております。恐らくはこの前後には本福寺の住持を任され、宗旨を真宗に戻していたと見てよいでしょう。そして安定財源を確保した法住は仏光寺派から本願寺教団に鞍替えします。これは想像ですが、養叟宗頤のやり方を見つつ、既に繁栄し利権が出来上がっている仏光寺に割り込むよりも、本願寺教団を支援した方が高い影響力を振るうことができると見たためではないでしょうか。

 華叟宗曇が示寂し、一休宗純や養叟宗頤がいなくなった堅田において本福寺法住がどの程度の計算を働かせていたのかは不明ですが、長禄年間までには、堅田において殿原衆と二分する勢力を持つ全人衆における支持を受け、本願寺八世の蓮如と良好な関係を築き、蓮如から無碍光本尊を頂くまでに勢力を伸ばしました。
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