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2015年6月28日 (日)

川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説

ちょうど1年前の読売新聞中部版に次のような記事が躍りました。『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』。説を出されたのは先に拙稿にて記事のネタとさせていただいた安城市史を編纂された村岡幹生教授です。
 読売新聞のサイトからは既にその記事は消えているものの、今でも中京大村岡教授で検索すれば、記事の内容は把握できます。以下はその要約です。
・その説は2014年春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。
・法華宗の高僧、日覚の書状から立論。
・「岡崎は弾正忠へ降参し、弾正忠は三河平定の翌日、上洛した」などと記されている。
・通説では、田原城の戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされているが、なぜ裏切ったのかは謎。
・村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。
・本郷和人東大史料編纂所教授、「重要な発見。しかし慎重な議論が必要」とコメント

 とりあえず、記事に書かれていた愛知県史資料編14を図書館で閲覧してきたのですが、当該図書そのものはあくまでも資料集であり、日覚の書状はあったものの、読売新聞の言うところの『新説』の記載は見当たりませんでした。一応当該史料と資料集の解題や後書きの記載をチェックしたのですが、見落としがあるのかもしれません。あるいは、他の論文集や書籍に寄稿もしくは出版をされているのかもしれません。あるいは読売新聞の記者による「とばし」ではないかとも思ったのですが、いずれにせよ新説の内容を確認する機会は今のところ得られていません。以上の事を前提に本稿では、日覚文書に関連して多少調べたことを述べさせていただきます。

 元史料の正式名称は読売新聞の記事にも書かれておりますが、「菩提心院日覚書状 本成寺文書」であり、その中の1547年(天文十六年)九月二十二日分の記述です。本成寺が蔵する菩提心院日覚がしたためた書状ですね。本成寺は越後国にある日蓮宗の一派、陣門法華宗の総本山で日覚自身もこの寺の九世住持を務めております。また、天文法華の乱で灰燼に帰した陣門法華寺院の本禅寺を後奈良天皇が赦免の宣旨を出す1542年(天文十一年)の二年前にちゃっかり復興させて本禅寺五世住持におさまったりしております。

 日蓮―日朗―+―日輪(日朗門流・池上本門寺)
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          +―日像(四条門流・妙顕寺)
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          +―日印―+―日静(六条門流・本国(圀)寺)
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                  +―日陣(陣門流・本成寺)―+―(数代略)―日覚
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                                     +―日登(陣門流・本禅寺)

 この書状が書かれた時、日覚は加賀国に逗留していたらしく、史料の冒頭に「加州ハ大乱にて候」などと書かれています。石川県にある陣門流法華寺院をネットで検索してみると、当時石川郡布市村に實成寺という寺院があり、本成寺九世の日覚とも所縁があるようですので、ここにいたのかもしれません。陣門流は派祖の日陣が六条門流の日静とトラブルを起こした関係で仲が悪く、京都に本禅寺という自派の拠点を別に持っていました。日覚は総本山の本成寺、京都本山の本禅寺の住持経験がある陣門流の顔役であるので、加賀にいる彼のもとには京だけではなく、地方拠点からの情報も集まってきており、当該の書状は加賀国から越後にある総本山本成寺に送った物です。

 ここに三河国における情勢が書かれているわけですが、東海における陣門流の拠点は遠江国本興寺があり、ここと東三河の国人領主鵜殿氏との関わりがあります。鵜殿氏の中でも下郷鵜殿氏(鵜殿氏は上郷鵜殿が宗家)の鵜殿長存の墓が三河国蒲郡の陣門流寺院、長存寺にあります。そのほか興味深い所では西三河和田郷の妙国寺も陣門流寺院だったりします。後に大久保氏と改称する前の宇津・大窪氏の菩提寺でした。おそらくはこの時点の妙国寺は大窪家所縁の寺院として松平蔵人信孝によって相当の破壊を受けていたものと考えられます。その後に大窪新八郎忠俊は同じ陣門流の長福寺の勧めで菩提寺をここに移すとともに、自らの名を大久保と改めるわけです。

 この書状の背景となる三河国の情勢を通説ベースで申し述べますと、松平広忠が矢作川西岸に持っていた重要拠点である安城城は既に尾張の実力者、織田信秀の手に落ちており、桜井、佐々木、三木(合歓木)の各松平諸家や酒井、大原、近藤氏の一派が織田信秀方に寝返って松平軍団は二分された状態になっていました。駿遠の太守である今川義元はこの時までにずっと戦っていた北条氏との間に休戦協定を結んで西部戦線に目を向けられるようになっておりました。
 天文十六年に起こったことは、織田方への寝返り組である佐々木松平忠倫が岡崎松平広忠に暗殺されます。矢作川対岸の上野城に籠る桜井松平清定と酒井将監達も広忠がせめてこれを降参させます。これに対して三木(合歓木)松平蔵人信孝が安城と矢作川との中間にある山崎砦で兵を催します。これを食い止めようと広忠が渡河したのを信孝は川岸の渡河原で破るわけです。これと並行して広忠は今川家に援軍を要請。今川義元は竹千代(後の徳川家康)を人質に要求し、広忠はこれに応じるわけですが、その途上で戸田康光が裏切って今川義元の元に送り届けられるはずの竹千代を強奪して織田信秀に引き渡してしまったという話があるわけです。

 次稿にて新説の根拠となった史料の該当箇所を見てゆきたいと思います。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安祥城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
               この月       松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月    五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                         松平広忠、この日までに松平忠倫を暗殺。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)   三月   六日 松平広忠、暗殺される。

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