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2015年6月 7日 (日)

中漠:林下編⑯一休、養叟宗頤と大喧嘩をやらかす。

 1454年(享徳三年)一休宗純と養叟宗頤は大喧嘩をやらかします。
 一休宗純にとって養叟宗頤と関山派との抗争はすでに養叟宗頤の負けが見えておりました。養叟宗頤が大徳寺住持となれたのは師である華叟宗曇の堅田での遺産を糧に政治運動をした成果でした。であるならば、関山派の日峰宗舜や義天玄承に政治力で住持の座を取られてしまったとしても、文句の言える筋合いではありません。にもかかわらず、養叟宗頤はとにかく支持を増やすことで関山派に対抗しようとしました。細川氏の拠点である堺に陽春庵を開き、身分を問わずに教えを広めていったこともその一環でした。一休宗純にはそうすればするほど本来の教えから遠ざかってゆくように見えていたようです。関山派は養叟宗頤のやることを観察し、キャッチアップすれば良いだけでした。何より関山派は政治とのコネクションという養叟宗頤には真似のできない強みを持っているのですから。逆に、支持集めに血道を上げた結果求道が疎かになることを一休宗純は畏れたようです。
 反面、養叟宗頤から見ると一休宗純はこの期に及んで日和ったように見えたのでしょう。養叟宗頤の大徳寺出世に一休宗純が朝廷対策面で貢献したのは確かかもしれませんが、関山派の進出を止めることができなかったことに腹を立てていたようです。養叟宗頤は一休宗純に対して華叟宗曇からの印可状を持っていないことをもって、自分に対して意見をする資格はないような意味のことを言ったようです。養叟宗頤は大徳寺二代目の徹翁義亨のように大徳寺歴代を自分の法流で独占したいと考えておりました。もちろん、そこで弟弟子である一休宗純にしゃしゃり出てほしくはなかったということもあったみたいですね。これに一休宗純は激昂し、決裂は決定的になりました。以後養叟宗頤に対して陰に陽に攻撃を仕掛けるようになりました。町で出くわせば公衆の面前で罵倒するようなことをしたようです。同時に風狂・奇行の度合いが激しくなってきておりました。
 もともと、一休宗純は奇行の多い人物ではありましたが、そこに突っ込んでも即座に撃退できるだけの地頭の良さがあります。奇行を詰ってもうまくはぐらかされて逆に反撃を食らっていたようです。

 一休宗純と養叟宗頤の喧嘩の内容は一休宗純側の著作である、自戒集、狂雲集、一休和尚年譜でしか追う方法がないのですが、その一休宗純の攻撃に対して、養叟宗頤が何をしたのか、その実態がこれらの著作からは見出すことはできません。著作の中では養叟宗頤は徹底的に糾弾されているわけですが、そんな一休宗純に打ち勝ってこれを排除するために何か手段を講じた形跡がないのですね。その気になれば破門することもできたのですが、養叟宗頤はいかなる挑発にも乗らずに大人の対応を貫き通したのでした。
 言ってみれば大徳寺の序列のトップは養叟宗頤であり、いかに一休宗純が自らの徳を示そうと、一休宗純はその弟弟子に過ぎません。養叟宗頤が敷いたその枠組みを壊そうと、一休宗純はその頓智をもって一歩踏み出します。それは破戒僧としての生き方でした。もともと寺の儀式できちんとした正装を求められる場において、わざとボロを着るような奇行の持ち主ではありましたが、僧としての最低限の矜持は保っておりました。しかし、養叟宗頤に印可なき者と詰られたため、そのタガが外れてしまったのです。

 一休宗純は大徳寺にいられなくなり、洛南と言っても宇治よりさらに下って大和国との国境に近い薪(京田辺市薪)に一庵を設けてそこに住まいました。そこは、大徳寺開山の宗峰妙超の師である南浦紹明が妙勝寺という寺院が建てられていた地ですが、元弘の乱の兵火にあって衰退したままになっておりました。一休宗純はそこに目をつけて再建を果たし、酬恩庵という名をつけたのですね。恩に酬(むく)いる庵です。
 このあたりのセンスは一休宗純の真骨頂と言って良いでしょう。養叟宗頤が大徳寺の正統後継者と言うのならば、自分は大徳寺開山である宗峰妙超の師匠の恩に報いるのだと言って対抗しているのです。しかも、このころ一休宗純は犬猿の仲だった関山派の義天玄承と仲直りをしているのですね。明らかに養叟宗頤一人を狙い撃ちにした嫌がらせです。

 ある意味児戯めいた仕返しに養叟宗頤は耐え、1458年(長禄二年)六月二十七日に入寂します。一休は勝利したと言ってもいいのですが、彼の感情は行き場を失ってしまっていました。享徳三年の大喧嘩ではそれだけ深く傷つけられたということなのかもしれません。養叟宗頤は死の前年、堺に陽春庵という寺院を建てました。泉州堺は江州堅田に似て瀬戸内に開けた港町で、町の成長の可能性を見たのかもしれません。老若男女を問わず、誰でも禅が修行できることを売りにしていたのですが、これに一休はかみついたりします。曰く。禅の精神をないがしろにしていると、養叟宗頤の死はその報いであり仏教徒が忌み嫌う業が強いためにかかってしまうらい病(当時の俗信です)で死んだのだと、自戒集で断じております。
 養叟宗頤が本当にらい病で死んだかどうかは不明ですが、一休宗純の精神は常軌を逸し始めていました。そして、一休宗純がふりまく悪意を誰も受け止めることができずに、さらなる暴走へと駆り立てられることになるのです。
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