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2015年6月21日 (日)

中漠:林下編⑱一休と蓮如

 一休宗純が養叟宗頤の死後、拳の振り下ろしどころに困って煩悶していた頃、大徳寺で共通の師である華叟宗曇の三十三回忌が営まれました。一休宗純はこれに出席します。大徳寺の敷居は高かったかと想像しますが、出席してみて思うところができたようでした。自分は何者でありどこへ向かおうとしているのか、一休宗純はこの頃見失っております。そんな折の華叟宗曇の思い出は、一休宗純をして修業時代における堅田の地についての関心を呼び起こすに十分なものであったでしょう。
 堅田では、いつの間にか本願寺教団が旺盛になっておりました。その旗振り役が堅田本福寺です。実は、本福寺は瑞祥庵のすぐ隣にあります。本福寺二代目住持覚念は華叟宗曇の興禅運動と同時期に寺域内に禅庵を作っていました。覚念は華叟宗曇の賛同者であり、三代目の法住と一休宗純は顔見知りであった可能性があります。

 一休宗純は恐らくはもう、僧でいることに疲れていたのではないかと私は想像します。僧とは、俗とは切り離されたところで仏法を探求する存在のはずでしたが、実際に養叟宗頤が行っていたのは、俗人と何ら変わらぬ権力闘争であり、支持を集めるために仏法を切り売りすることだったと、一休宗純は非難しています。しかも、一休宗純を印可がないゆえに仏法の正統な後継者ではないと断じたのも俗にまみれた養叟宗頤でした。その養叟宗頤はこの時点でこの世の人間ではありません。養叟宗頤の仏道は彼の弟子に伝えられ大徳寺の秩序の中では一休宗純の正統性を担保するものは何もないのです。
 かといって還俗して俗人の中に生きることも一休宗純には出来そうにありませんでした。華叟宗曇から仏法の何たるかを学んでしまった中でそれを無視して生きることもできなかったのです。そんな中途半端な状況の一休宗純に一つの解を与えうる可能性を持つ存在が堅田にはいたのです。それが法住、というか法住が奉じる浄土真宗の教えではなかったでしょうか。
 親鸞は法然が罪を得て土佐に流罪になったことに連座して佐渡島に流されました。罪を断ぜられた僧は強制的に還俗させられます。法然の場合は藤井元彦という名前で流刑地に流されました。親鸞も同様に藤井善信と名乗らされたわけですが、罪を許された時に親鸞は僧に復帰することを潔しとはしませんでした。そこで、自らを「禿」もしくは「愚禿」と規定し、僧と俗に対置する存在として設定したのです。一休宗純はこの考え方に興味を持ちます。転宗はこの時代においては珍しくありませんし、俗に戻ることを潔しとしない自身のプライドもギリギリのところで保つことができます。

 一休宗純は1461年(寛正二年)の六月十六日に、宗祖の頂相を返上し大徳寺僧を辞め、念仏宗純阿弥となることを宣言します。実際に辞めた形跡はないのですが、これは自戒集に一休宗純が遺した言葉です。そして、その年は浄土真宗の開祖親鸞の二百年忌にあたっておりました。同じ月の二十七日に一休宗純は親鸞の大谷廟、すなわち大谷本願寺に出向いて親鸞二百年忌に出席します。大徳寺としてはたまったものではなかったかと推察しますが、それもまた一休宗純の計算のうちなのでしょう。一休宗純はその二百年忌において、ある出会いをします。大谷廟の留守職にして本願寺八世法主、蓮如です。

 この二人は性格的に大変馬が合ったらしく、様々なエピソードが遺されているのですが、極めつけの話を多少の脚色を交えつつ、一つ紹介します。
 ある日一休宗純が蓮如を訪ねて大谷本願寺に来ました。折悪しく、その時蓮如は留守だったのですが、一休は意にも介せず、それであれば中で待たせてもらうと言い放つと、本堂に上がり、本尊の阿弥陀如来を枕に居眠りを始めてしまったのです。つい先日念仏宗純阿弥になると宣言したはずの一休宗純ですが、これは念仏宗徒の信仰対象である阿弥陀如来を蔑ろにする行為です。ただ、一休宗純には彼なりのポリシーがありました。かつて一休が大徳寺の儀式に参列するにあたって他の僧侶が華奢に飾った法衣で出席していたのに、彼ひとりわざとボロを纏って現れたことがありました。周囲はドレス・コードを無視した振る舞いとして眉を顰めましたが、彼の師である華叟宗曇は儀式の本義に華美に着飾る必要はないとの一休宗純なりの考えに基づくものであるとして、庇ってくれた。そんな話が残っています。一休宗純としては、信仰を捧げるべき阿弥陀如来は観念的な存在であって、木や金属で作られた仏像の中にあるわけではないという考えを実践して見せたのでしょう。
 そこに知らせを聞いた蓮如が帰ってきます。阿弥陀如来を枕にして眠っている一休宗純の有様を目の当たりにするや、禿頭を真っ赤にさせて一休宗純に蹴りを加え、本堂隅まで転がして、曰く。

「おどれ、何さらしてけつかんねん! それ、わいの商売道具やぞ!」

 ここだけ河内弁で書いておりますが、本当はもっとはんなりとした京言葉でありましょう。一休宗純はあり得ないほどの罰当たりであり、蓮如は度し難い売僧であると詰ることもできるかとは思いますが、この話の眼目は信じるという行いこそが尊いのであり、形に顕れた仏像そのものをありがたがる風潮は戒められるべきという考えが両者の共通認識としてあるということです。そして何よりも、蓮如は一休宗純の一見突飛な行動の真意を瞬時に理解した上で、一笑を誘う返しで応じたわけです。
 そういう意味で蓮如は一休宗純の良き理解者であり、一休の精神はひと時の安寧を得たわけでしたが、蓮如は一休宗純の思慮を超えた行動をとってゆきます。すなわち、延暦寺と戦争を始めてしまうのです。蓮如はまさしく一休宗純とは別のベクトルでタガの外れた人物でもありました。併せて時代そのものが安寧とは無縁の方向へと進んでゆきます。戦国時代は間近でした。

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次稿⇒中漠:林下編⑲  細川氏の為の禅林

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