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2015年7月26日 (日)

中漠:林下編⑲細川氏の為の禅林

 話がこのまま行くと戦国時代まで行ってしまいそうなので、その前に関山派と細川家との関係を手っ取り早くやってしまいたく思います。細川頼之は五山の春屋妙葩と大喧嘩をし、失脚の原因を作って以来、表面的に五山と手打ちはしましたが、五山を筆頭とする禅林は基本的に斯波氏や室町殿と密接な関係にありました。足利義満の代以降は管領職は細川、斯波、畠山の三家が持ち回りで務めることとなっております。
 当初は斯波義将の影響力が強く、大御所である足利義満没後は斯波義将が息子で管領だった義重を押しのけて自ら管領の座についたりしております。とは言え、死期の迫った斯波義将にとって管領職は激務だったようで数か月で孫の義淳に譲っております。斯波義淳は管領となったもののそれからすぐに祖父が亡くなってしまい、それに伴って、管領職を退くことになります。名門斯波家も三代目になると、能力的にも衰え始めるようです。斯波義淳は足利義教の代になって管領に再任しますが、義教の命令をサボタージュすることがままあり、義教の怒りを買うことがありました。それを機に義淳は管領を降りようとします。どうやら、管領職の収支は赤字で、家政を圧迫するものだったようですが、義教はそれを許しませんでした。そのプレッシャーの中で義淳は亡くなります。彼の息子は早世しており、出家していた弟が還俗して継いで義郷と名乗るのですが、わずか二年で落馬して死にました。その子の義健は二歳で家督を継ぎ、十八歳で亡くなります。ここに義将直系は断絶することになります。末期に従兄弟の義敏を養子とすることが認められ、義敏が継ぐことになりますが、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、遠江の甲斐氏といった各国に配された守護代連中には舐められまくってこれらと合戦をやらかすことになり、室町殿の義政の怒りを買って周防に追放されます。その後、義政は新設関東公方(堀越公方)の関東での味方を増やす為に、斯波の跡目を渋川義鏡の子の義廉に継がせるということをやらかします。のちに義政の母の日野重子没後の恩赦で追放されていた義敏が復帰。義廉の父、渋川義鏡は関東で上杉持朝との対立で失脚。細川・山名の介入でしっちゃかめっちゃかになります。
 畠山氏は満家が足利義教の将軍就任と同じタイミングで管領を退任しております。義教の強烈なキャラクターをあらかじめ知っていたのかも知れません。その子の持国は義教に家督を奪われますが、嘉吉の変のどさくさに紛れて家督を奪回。義教と義勝の死の直後管領を引き受けることになってしまいました。義教は嘉吉の変で暗殺、義勝は落馬事故での死去が原因です。いずれも、突発的な事件の処理を要求されておりそういう事後処理を任された人材ではありました。有能な人物だったのでしょう。しかし、彼の代で後継者問題を起こしてしまいます。彼には正妻との間に子は無く、甥の政長を養子にせざるを得なくなっていたのですが、彼自身は愛妾との子、義就を後継にすることを望んでいました。これが家臣団を真っ二つに割ることになり、何とか義就を後継にできたのですが、後継の政長は細川勝元と山名宗全の庇護を受け対抗勢力として義就と拮抗。これが応仁の乱が勃発した原因の一つになってしまいました。

 細川勝元は山名宗全と組んで、斯波・畠山ばかりか、このぐだぐだを調整しようとした伊勢貞親と季瓊真蘂も追放して幕府の秩序を引っ掻き回し続けていたわけです。季瓊真蘂は鹿苑院塔頭、蔭涼軒主として鹿苑院塔主・僧録司宝山乾珍の職務を補佐する任にありました。官僚としての五山派の事実上の筆頭と言ってもよいでしょう。伊勢貞親と季瓊真蘂の二人は足利義政の側近として政治を取り仕切っておりましたが、失脚によって義政は身動きが取れなくなり、細川・山名の意向抜きに政治を動かせなくなったわけです。
 細川頼之が春屋妙葩に喧嘩を売られて以来の、数代を経た報復とも言えるかも知れません。そんな細川勝元が自らの手で引き立てていたのが、妙心寺派でありました。元々は応永の乱のあおりを食ってつぶれた寺でしたが、ここに支援をして、復興し、龍安寺も立ててやり、さらには大徳寺住持の職に紫衣つきで出世させて権威づけを果たしていったわけです。勝元の関山派支援は日峰宗舜、義天玄承と続き、寛正三年には雪江宗深が大徳寺住持に上りました。関山派はいつでも大徳寺住持を出せる形になっております。反対運動を主導していた養叟宗頤は既に亡く、一休宗純も諦めた状態になっておりました。間違いなく細川勝元は野望を持っていたと思われます。林下として独立した大徳寺・妙心寺派をして鹿苑寺・相国寺を中心とした五山体制を覆すことを。
 五山体制は十方住持の制度により、寺の個性は消えてゆきました。また、本来の悟りの追及ではなく、間接的な文化面、書画等に血道を上げるようになったことも、後年林下からの批判を受けることになります。優秀な僧を選んで各所の住持に据えること自体は寺の平均的なレベルを上げることには役だったでしょうが、各寺の独自性、特化した優秀さをつぶすこともなった模様です。

 関山派は本山である大徳寺にいつでも住持を送り込めるようになったわけですが、それは逆のリスクも孕むことになります。すなわち、大徳寺の養叟宗頤派が関山派の中心寺院である妙心寺や龍安寺に住持を送り込みうるということです。これを防ぐ為に雪江宗深は妙心寺を中心とした関山派寺院に一つのシステムを構築します。それが、四派輪住制です。雪江宗深には、景川宗隆(けいせんそうりゅう 龍泉派祖)、悟渓宗頓(ごけいそうとん 東海派祖)、特芳禅傑(とくほうぜんけつ 霊雲派祖)、東陽英朝(とうようえいちょう 聖澤派祖)といった四人の高弟がおり、この四人は妙心寺四派の開祖となって妙心寺発展の基礎となる強固な宗門体制を構築し、妙心寺住持を一期三年で順次交代するようにしたのです。これは徹翁義亨や養叟宗頤が以後の大徳寺の住持は自分の法嗣のみから出すと言っているのと同じ虫のいい制度でありますが、これを実現する為に、雪江宗江とその弟子たちはある手段を講じました。それについては、別稿にて扱います。

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2015年7月19日 (日)

川戦:安城合戦編⑲補遺Ⅳ 今年発表された中京大教授の新説

 本当は前稿にて補遺を終えるつもりだったのですが、2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」が掲載されておりました。昨年の読売新聞は『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』ととても興味深い学説が唱えられたと謳っていたものの、限られた新聞の紙幅では何を論拠にそのようなことが言えるのかが今ひとつわからず、その論拠となった『菩提心院日覚書状』が掲載されている昨年刊行された愛知県史資料編14には当該史料が掲載されてはいたものの、肝心の氏の論文は掲載されておらず、欲求不満が募るばかりでした。
 私としてはその論文を読みたくて一連の補遺を書いていたわけですが、国家鮟鱇ブログ7月14日の記事「菩提心院日覚書状について(その3)」http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20150714/1436848779 にて、論文がネットで読めるということが書かれておりました。早速読ませていただきました。ご紹介いただいた国家鮟鱇ブログの鮟鱇様にはいくら感謝してもし足りません。

 一読した感想は、新たに学べたこと、認識を改めなければならない事を示唆されたことは確かにあったものの、なおも首をひねらざるを得ないことや論理の飛躍があるように思えて納得のゆかないことも含まれていました。とは言え当該論文を読んで、拙ブログ『川の戦国史・安城合戦編』の一連の記事にて私自身が呈してきた疑問についての氏の見解を、論文を読むことで照らし合わせることができました。論文の内容に対する批評についてはすでに鮟鱇様のブログで展開されており、いくつか首肯できる点もありますが、まずはこの論文に巡り合えたことに感謝をしたいと思います。

 本稿においては村岡教授の論文の要旨を紹介いたします。様々な史料が駆使された長い論文ですので、場当たり的に指摘を入れても散漫な物になりそうです。なので、まずは論文の骨格を把握するところから始めたいと思います。その上で当該論文に対して感じた一番大事に思える点をいくつか指摘することと致します。

※※※ これより「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋 ※※※
●はじめに
 当該論文の主旨。『愛知県史資料編14中世・織豊』で取り上げた『菩提心院日覚書状』とのかかわり及び、当該論文にて『菩提心院日覚書状』の年代を天文十六年とした根拠と氏が考える当該期三河の政治状況への考察をおこなうことを謳う。

●一 日覚書状の年代比定
 1979年刊行「三条市史資料編第二巻古代中世編」をはじめとする刊本に『菩提心院日覚書状』が掲載されてきた歴史の紹介並びに、当初は1630年(永禄三年・桶狭間合戦があった年)の史料と考えられていたことを紹介の上で考証。
 ・日覚書状に1547年(天文十六年)になされた延暦寺と洛中法華の和睦と読める記載有り。
  (「京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而~」
 ・よって、当該書状の記載年代は1547年(天文十六年)九月二十二日と比定できる。

●二 織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 拙稿でも紹介した「菩提心院日覚書状」の三河関連情報についての氏による抄訳。および、日覚の三河地方とのコネクションを紹介。当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘。
 ・日覚の尾張コネクション(美濃在国の「孫右」情報、尾張国山田郡稲生妙本寺情報)
 ・日覚は尾張国守山生まれ、稲生妙本寺で修行「長久山歴代譜」
 ・日覚は尾張・三河の政治情勢について甚だしくは外さない程度の土地勘と判断力が備わっていた。

●三 織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 日覚書状の肝は氏の論文タイトルにもなった「織田信秀岡崎攻落」であることと、それを伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介。

 ・織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介
 ・氏康書状(長文版)の前半部読み下し。
 ・他刊本での字句解釈とは異なる自説の主張
  - 「無相談」は「被相談」であり、相談せられと解するべきである。
  - 「安城者要害則時ニ被破破之由候」の「者」を「之カ?」と付されている解釈への異議
  - 「安城の要害を信秀が破った」ではなく、「安城は織田の要害だから当地の敵に勝利した」と解釈。

●四 北条氏康書状の史料批判
 安城市史で氏自身が立てた氏康書状長文版は短文版からの後代改作説を見直したうえで、氏康書状長文版が天文十六年の出来事に織田信秀が言及した同時代史料と見なし得うることを提起。

●五 北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理と平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判の上で、岡崎攻略は織田・今川の合意によるものであったとする。

 ・氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理。
  - 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破って岡崎城を確保した。
  - これは織田と今川での相談の上でのことである。
 ・平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判
  - 当該文書は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない。
  - 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実。
 ・岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる。
 ・織田・今川の相談とは、今川が今橋を取った事の引き換えに、岡崎を織田が取ることではなかったか?

●六 松平広忠降参情報の信憑性
 天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いない事実として確定。しかし、織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず、かりに広忠が降参したとしても、信秀が三河から退去してほどなく岡崎城主としての地位を回復したとみる。但し、岡崎城主としての地位を回復することと、外に向かって反織田の旗幟を鮮明にすることとが、この時点で必ず連動するとは限らない。

 ・天文十六年七月八日以前に今川義元は医王山に砦を普請。広忠救援のための物か。
 ・天文十六年九月五日、今川軍が田原へ転進。この攻撃は今川にとって想定外の物だったと考えられる。
 ・それに連動して吉法師の大浜攻撃、そして岡崎奪取を行ったと想定できる。
 ・天文十六年九月二十八日渡河原合戦は、それまでに広忠岡崎奪還又は降参しなかったかいずれか。
 ・天文十六年十月二十日、筧重忠への感状と十二月五日の大樹寺への田畑寄進で広忠岡崎に健在。

●七 小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方としてまったく機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがあるとする。

●八 松平広忠の病死
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

●おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行った事自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたとみるのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定といえる。
※※※ 「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋ここまで ※※※

 論文中で村岡教授は史料を縦横に駆使しておりますが、それを書きだすゆとりがありませんでした。
 あと簡略ですが、論旨の流れを踏まえた上で改めて考えてみたことを書きだします。

 まず気になったことは村岡説においては日覚書状の三河情報において最初に言及している「駿河衆敗軍」の内容について何らの言及をされていないことです。天文十六年九月に織田信秀方が攻撃したと言及されているのは、岡崎であり、吉良大浜であり(これは日覚書状には言及されていません)、戸田(これも日覚書状には言及されていません)なのですが、松平広忠ははたして「駿河衆」と呼べるでしょうか? 大浜の領主は吉良氏であり、太原崇孚率いる今川軍と正面で当たったのは戸田氏くらいなものです。氏康書状が裏打ちする「岡崎之城相押候」が今川方すなわち駿河衆の不利に働き敗軍と表現するにいたったというのは少し強引な気がします。

 日覚書状の書き方も気になりますね。現代人と中世人では手紙の書き方が違うのかもしれませんが、最初は鵜殿の外交姿勢に言及していて、鵜殿視点なのですが、その直後に弾正忠が鵜殿の事を「一段ノ曲なく思われたる」と突然織田信秀の認識を披露しています。村岡説では楞厳坊はずっと京都にいたとのことですが、そこで信秀またはその従者に鵜殿の評判を聞いたのでしょうか。信秀やその従者たちは楞厳坊が鵜殿と所縁の深い陣門流の僧侶と知っていて、相対する前に鵜殿が行っている二股外交についての認識を確認していたのでしょうか。それよりも、鵜殿にいて鵜殿から「駿河衆敗軍」の結果、信秀から袖にされたと楞厳坊が聞いたと取った方が話の流れからはしっくりきます。村岡説のように解釈するには、一旦「弾は…(中略)…其翌日ニ上京候、其便宜候て」まで読んだ後で遡って意味を取りなおさなければそのような解釈はできないと思います。

 また、やはり筧重忠への感状です。安城にまだ織田がいる段階で、織田方である松平忠倫を暗殺した勲功の代償として金銭ばかりではなく「在所者別ニ日記出置候成」と土地の安堵までおこなっているのですから、
 渡河原合戦についても発生日時については、氏は特に疑いを差し挟んでおりませんが、岡崎を回復した広忠が自分の味方の松平信孝と戦うのは問題ないものなのでしょうか? そうした状況を果たして岡崎城を押さえたと(氏康書状での言及)呼びうるものなのでしょうか?
 
 ともあれ、村岡説の肝は天文十七年三月十一日付北条氏康書状写(長文版)を使って氏が過去に提起された解釈である「被相談」「安城者要害」「殊岡崎之城自其国就相押候」の解釈がどのようにとられるかによるのではないでしょうか。「殊岡崎之城自其国就相押候」は私自身の素人解釈に過ぎませんが、「被相談」の解釈を取っている刊本は今の所「安城市史」と横山住雄氏「織田信長の系譜」くらいで、他書は概ね「無相談」です。「安城者要害」の「者」は安城市史、小田原市史、戦国遺文がいずれも「者」とはしてますが、すべてに「之カ?」との注釈もついております。安城は(=者)要害だから弾正忠が(敵を)破ったとするか、安城の(=之)要害を弾正忠が破ったとするかの解釈の分かれどころです。私自身古証文を確認しましたが、どの肉筆本も素人目にはどちらともとれる微妙な表記です。

 機会を見てより理解を深めてゆきたいと思いますが、まずはその検討の土台が示されたことについて、大変うれしくおもいます。これを機に安城合戦をめぐる議論にひとつの弾みがつくことを期待いたします。

(付記)
氏の以下の見解について、気になったことがあったので少し調べてみました。

>「被」「無」の草書体は似ることがある。この文書中の他のくだりで「被」は何度も用いられ、
>「無」も二度用いられている。『古証文』原本にあたってそれらと比較するに、
>『古証文』筆記者が当該箇所を「被」と書いていることは明らかである。

 上記は論文の最後に書かれた氏康書状についての注釈で、氏康書状は私も当ブログで取り上げてきた文書です。そして、ここで言っている『古証文』とは、氏康書状を含む多数の書状が収められた文書集です。当該文書集について図書館で国書総目録(岩波書店刊)を調べたところ、『古証文(こしょうもん)』は写本であり蔵されているのは国立公文書館にある内閣文庫の七巻四冊本一冊と六巻六冊本二冊のみです。これらについては私自身確認しましたが、素人目には「被」と断定できる根拠は残念ながら見出せませんでした。
 氏は「『古証文』原本にあたって」と仰せになっておられますが、原本というからには編纂者や作成年代も明らかになっているものなのか、また、三種の写本の作成経緯も明らかになっているのか、気になることがたくさん出てきております。
 なにぶん国書総目録は古い本であって遺漏やその後の研究で発掘された史料もあったりするかもしれません。日本古典籍総合目録データベースでも調べましたが、上記に挙げた三つの写本に加えて内閣文庫本を写した四冊本が東大史料編纂所があるだけでした。(以下サイトから検索画面に入って「古証文」で検索すれば、
統一書名:古証文 ( こしょうもん ), X, 0でたどり着けます。)
 http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html

 「被相談」であるか「無相談」であるかの議論を深めるためには、氏があたったとされる「原本」の来歴をまずは明らかにする必要があるのではないかと愚考いたします。
 研究が進んでこの時代の実相がさらに明らかになることを期待いたします。

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2015年7月12日 (日)

川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想

 とりあえず、ここまで書いてきた時点での感想は「歴史考察のネタとしては興味深いが、新説と呼ぶには論拠が薄すぎる」と言った感じです。日覚の史料に着目して新説を提起したことによって歴史議論が活発になされるようになるのならば、それについては大きな意義はあると私も思います。しかし、現時点で私自身が把握している情報だけでは正直何とでも言えるので、まさしく『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』と記事中で東大史料編纂所の本郷教授が仰せになった通りかと思います。

 具体的には史料では『駿河衆が敗軍した』としか述べられておらず、いつ、どこで、誰に対して、どんな風に駿河衆が敗軍したのかについては何も触れられていません。弾(織田信秀)が岡崎(松平広忠)を降参させたこともそうです。どんな形の降参であったのか、それはいつ行われたのか、広忠が命からがらになるような戦闘はいつどこで行われたのかも明らかになっていないのですね。その敗北が戸田康光が今川に滅ぼされる前であるのか、後であるのかすら記事には書かれていません。この説が有効となるためには、田原に竹千代が向かわなかった可能性が示されている必要がありますし、日覚の書状でそれを示すなら例えば、広忠の降参が田原城陥落以前だった等の根拠があるべきなのかなと思うのですが、そのような情報は記されていません。

 何より日覚書状の読みようによっては通説の中に組み込むことも可能なのですね。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、

 前稿にも述べた通り日覚書状の書かれた九月二十二日の六日後に渡河原の戦闘が起こり、松平信孝が、広忠を破っております。戦闘は広忠軍の惨敗であり、陣門法華に所縁のある大窪忠俊とも関係の深い大窪藤五郎等が戦死しております。大窪藤五郎は実在の人物であるかどうかは怪しいところもありますが、実在した有力家臣(五井松平忠次ら)も戦死しております。戦闘の発生時期をもっと前にずらして広忠の降参を敗北による戦場離脱程度の意味に留め、三州平均を誇張の含んだ表現と解すれば、特段の矛盾もなく通説の中に取り込むことも可能であろうと思います。

また、記事中で一つ残念であったのは以下の記載です。
>村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、

 実は当該史料「菩提心院日覚書状 本成寺文書」が刊本として公開されるのは2014年(平成二十六年)三月の愛知県史が初めてというわけではありません。2011年(平成二十三年)三月刊行の「戦国遺文 今川氏編 第二巻」に先行して「○九六五 菩提心院日覚条書」として掲載されております。若干の字句解釈上の異同はありますが、ほぼ同じ文面になっております。但し、当該文書は年未詳となっていました。ここについての戦国遺文の見解としては以下の通りです。

>本文書は年未詳なれど、菩提心院日覚が天文十九年十一月十六日に没しているので便宜ここに収める。

 「便宜ここに」とは、当該史料が「戦国遺文今川氏編 第二巻」の天文十九年の項に所載されていることを指します。日覚の書状は愛知県史も戦国遺文も史料を編年で分類されて掲載されているわけです。愛知県史においてはこの史料が天文十六年に比定され、天文十六年の項に掲載されているのですが、その根拠はぜひとも伺いたいところです。

 新聞記事タイトルの「織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた」も残念の一つです。三河の岡崎などと書かれると、普通は地名ととってしかるべきなのですが、日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、」とあって、命拾いをした記述があります。岡崎という土地が降参したり、命拾いしたりするなんてことはありませんから、ここの記述が人を指しているところは間違いのないところでしょう。記事中でも「「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。」と、人名を指すことが明記されているのですね。きっと松平広忠は岡崎城主であり、織田信秀に降参したのだから、織田信秀が岡崎という土地を支配していたと言っても問題ないという論法なのでしょう。しかし、それこそが「信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」部分です。岡崎の降参もまたいつどこでどんな形で降参したかは当該史料では判じえないのですから。

 ただ、村岡教授がこの説を通して三河国を巡る織田と今川との間の戦いに示してくるかも知れない新しい展開にはとても興味があります。2004年(平成十六年)に刊行された安城市史において当時准教授だった氏は、天文十七年三月十日付織田信秀宛北条氏康文書について解説記事を記しています。

>殊岡崎之城自其国就相押候、

 上記は北条氏康文書の文言の一部なのですが、この文言を氏は「殊に岡崎の城其の国より相押さえ候に就き」と読み下した上で「天文十七年まではおろか、信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたことを示す史料もまた存在しない」と解説しています。つまり、この文言は信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたと解釈しているのですね。
 当ブログの過去記事を参照していただければわかるのですが、私自身は通説の歴史記述の流れに従って岡崎城が織田と今川両勢力が押さえ合いをするようになったと解釈しました。『就相押候』には『相』の字があります。『相性』、『相愛』、『相似』、『相違』、『相克』、『相生』等の『相』がつく単語をみるに、二者の間で行われる動作・状況なのですね。むろん、読み下しと解釈に強引さは否めません。その一方で『相成候(あいなりそうろう)』のように、『成る』のような動詞を強調する語としても『相』は使われるケースもあるわけで、氏の解釈の方が正しいのかもしれません。その前提での解釈に立てば、日覚書状は北条氏康文書において天文十六年頃に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする説の補強材料となりうるものです。

 但し、当該書状については書式礼の不備をもって、氏自身は後世に作られた偽書の疑いがあるとして安城市史においても参考資料扱いにしているので、ご本人には取り扱いづらいものになってるかもしれません。しかし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数出てきたことの意義は大きいと思います。仮に北条氏康文書が偽書であったとしても、偽書作成者の認識の中に天文十六年に織田信秀が岡崎城を押さえたという認識があったことには変わりません。しかも、その偽書作成のネタ元が加賀で書かれて越後で保管されていた日覚の文書であったとは考えにくいです。天文十六年に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数存在するという事実は決して小さいことではない。しかも両者は系統が異なっています。少なくとも小瀬甫庵が太田牛一の信長公記をベースに信長記を作ったような形で作られてはいないのです。二つまでは偶然でかたづけうるとは思いますが、もう一つ二つ隠し玉があるのなら、立派な仮説に成長しそうです。

 もし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたとするならば、ある合戦の状況を包む霧の一部が晴れることになります。それはすなわち第二次小豆坂合戦(この言い方は私自身良しとはしませんが)において松平広忠はなぜ参戦をしていないのか、何をしていたのかという疑問に答えが出ます。合戦の行われた小豆坂の北方に岡崎があります。安城から出陣する織田信秀を広忠は指をくわえてみていたのでしょうか? 今川軍と示し合わせて挟み撃ちにしようとはしなかったのでしょうか? 敗北を重ねてそんな能力はなかったのでしょうか? 少なくとも三河物語に出てくる松平広忠は違います。似たようなルートを使って進軍する松平信孝を捕捉して広忠軍は信孝を耳取縄手で討ち取っております。しかし、織田信秀に対してはそのような挙に出ませんでした。それは広忠が信秀に屈服していたからだと考えれば、色々なことが腑に落ちてくるのですね。

 そのような意味で注目はしておりますが、私自身の当該説にかかる現状評価は、『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』です。
 前稿にも書きましたが、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。日覚書状の翌月であり、記事が言うような竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない立場の松平広忠が、はたしてこのような書状を出せるものでしょうか?

 ○八五一 松平広忠判物写 ○国立公文書館所蔵譜牒餘録後編巻十七
    (松平忠倫)
 今度、三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠子々孫々忘
    (ママ)
 間敷候、 然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於
 末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候成、
 天文拾六年        (松平)
  十月廿日          広忠 御在判
       (重忠)
       筧平三とのへ

 ※戦国遺文 今川氏編 第二巻(天文十六年(一五四七年)―永禄三年(一五六〇年))より抜粋

 平野明夫氏の安城城陥落天文十六年説と同様、村岡説を採用した場合に覆さなければならない通説や史料は結構あるような気がします。そのような部分も含めて、氏の研究成果を確認できる日を楽しみにしております。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安城城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
                          この月    松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月   五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
               十 月二十  日 松平広忠、筧重忠に松平忠倫暗殺の感状を出す。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)  三月   六日 松平広忠、暗殺される。

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2015年7月 5日 (日)

川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。

 とりあえず、愛知県史資料編14に所載されているくだんの「菩提心院日覚書状 本成寺文書」より、
当該説に関連していそうな箇所を引用いたします。

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 本稿ではこの文書の読み解きをやってみたいと思います。専門家でもなんでもないのでいい加減な部分も多々あるかとも思いますがご容赦ください。また、字面だけ追っていては訳が分からなくなる部分もありますので、推測を交えた解説もしてみます。

>一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、
(訳案)一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。

 この文書が書かれる前の年、1546年(天文十五年)に今川軍は三河吉田(今橋)に攻め込み、戸田宣成を滅ぼしています。この戦いには松平広忠も今川方として参戦したという話も残っています。また、新説で否定された竹千代誘拐は文書の書かれた前月、即ち八月に発生し、その翌月五日に『犯人』である戸田康光が籠もる田原城が今川軍に攻め落とされています。吉田(今橋)の戦い及び、田原の戦いに関しましては、今川義元の感状が残っていて今川軍が三河に入っていることは確認できますが、本文書においてどういう意味で『敗軍』と述べているかは不明です。全ての可能性を検討すべきでしょうが、はたして、安城から尾張衆が長駆して東三河まで到達したのでしょうか?

>弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、
(訳案)弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。

 信長公記に織田信秀は尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねていたという記載があります。ここでいう一国とは三河ではなく、尾張国の事でしょう。日覚は加賀にいて信秀の威勢は前代未聞であるなどという情報を受け取っていますが、それがどういう経緯によるものかが次の文章に書かれています。

>一、此十日計巳前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、
(訳案)一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。

 楞厳坊、厳隆坊、心城坊という三名の僧の名前がここで出てきます。普通に解釈して日覚の弟子というところでしょうか。楞厳坊が厳隆坊を連れて京都から情報を持って日覚のいる加賀に赴いた。(※訂正します。付記1参照)心城坊は去年からここにいる、と言うことなんですが、つい十数年前には法華と本願寺教団は血みどろのつぶし合いを洛中洛外で展開していたわけで、そういう経緯があるにもかかわらず、本願寺教団王国と言ってよい加賀国に長逗留している日覚はいい根性をしております。楞厳坊は復興途上の本禅寺が負った負債を何とかする為の勧進道中の途上のようで、厳隆坊は加賀に居残って日覚の逗留している寺(實成寺か?)にとどまることになっていると、この手紙の冒頭部にあります。

>さる仕合候て、濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、
(訳案)とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれていて、この人がいなくては何も進まない具合です。

 「仕合」ですが「しあい」と読めば合戦というニュアンスです。「しあわせ」と読めば「事のなりゆき」「幸運」になります。美濃から加賀に向かう上使というのはちょっとわかりません。養雲軒という号を持っているので出家者なのでしょうか。上使と言うくらいだから幕府や朝廷の使いなのかもしれません。ただこの時代は、東国紀行を記した谷宗牧のように、一介の連歌師が女房奉書を持って勅使を務める事もありましたから、必ずしも身分の高い人物でもないかもしれません。その身内の人が加賀の陣門流寺院と現地檀家の世話をしているって感じの様です。加賀国は一向一揆の国で、富樫政親が守護をやっていた頃には専修寺派もいたものの、三ヶ寺に打倒され、その三ヶ寺も本山の本願寺から差し向けられた兵に滅ぼされたりして本願寺王国になった印象がありましたが、陣門法華が組織だった拠点を持てる程度には他宗派の活動も可能であったのですね。

>一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、
(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。
(訳案2)楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。

 鵜殿氏は蒲郡市あたりの国人領主で今川氏よりの立場にいます。前段にも書きましたが「仕合」という文言は、「しあわせ」と読めば前段にあった成り行きや事情という意味になり、鵜殿氏が今川氏の情勢は良くないとの私見を楞厳坊に語ったと解釈できます。また、「しあい」と読んで合戦と解すると、鵜殿で親織田勢力と今川勢が戦ったようにも読めますね。鵜殿は鵜殿氏が拠点とした上ノ郷城の別称でもあります。

>其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、
(訳案)(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、

 「仕合」の読み方で主語が楞厳坊であるか、鵜殿氏であるかが分かれますが両勢力の実力を計っています。

>覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、
(訳案)思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の障害もなくやっているように思われます。

 ここに至るまで今川義元は吉田、田原の両城を陥落させて東三河に足場を固めているわけですが、敗軍のニュアンスはよくわかりません。信秀が自分で攻め込んだのであれば信長公記などに記述があってしかるべきです。九月二十二日の書状に書かれるような軍事行動であれば、三河と加賀の距離を考えると九月五日に行われた田原城の合戦まででしょう。今川軍はここで苦戦をしたことを鵜殿氏が『敗軍』と呼んだか、宝飯郡上郷(鵜殿)で親今川勢力である鵜殿氏が親織田勢力と戦って敗れたかあたりではないかなと思います。その親織田勢力も地理的に織田家やその家臣ではなく、吉良氏あたりではないかと思います。ただ、そのような史料は見つかっていないので何とも言えません。

>定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
(訳案1)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(田原または吉田(今橋))に攻め入るのだろうと(鵜殿が)語りましたが、
(訳案2)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、

 鵜殿氏または、楞厳坊が弾正忠(織田信秀)視点でこれからの情勢を予測しています。今川勢は「敗軍」しているのですが、弾正忠は「只今の時分ハ攻いらんや」なのですから、敗軍の時点では弾正忠は攻め入っていないのです。その場所は「仕合」の文言をどう読むかによって、戸田氏の根拠地か、鵜殿氏の根拠地かのいずれに分かれてゆくのではないでしょうか?

>あまりニ□□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、
(訳案)あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。(※訂正します。付記2参照)

 □は判読できない文字で、愛知県史は「□□許存候間」の□□に「無心」、「心□坊」の□に「城」の字を当てています。楞厳坊は鵜殿から有償で情報をえていたのでしょうか? もしくは日覚は楞厳坊から有償で話を聞いていたのでしょうか? いずれにせよお金が足りなくて詳しい話を聞き出せなかったので、改めて昨冬から加賀にいる心城坊を三河に派遣してより詳しい話を聞くこととしました、と解してみました。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、
(訳案)岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。

 岡崎は地名の他に松平広忠をさす場合もあります。からがら命を拾ったと後段に続くので、地名ではなく、松平広忠を意味していると解釈できます。一応書いておくと、この書状が書かれた六日後の九月二十八日に松平広忠は織田信秀方についた松平信孝と矢作川沿いの渡河原で合戦して敗北しています。出典は「松平記」及び「岡崎古領主記」になります。九月二十八日が正しいとすれば、手紙が書かれた時点で松平広忠はまだ降参していません。九月二十八日説が間違いで戦闘はもっと前にあったのかもしれませんが、史実を見れば、弾正忠は三河を平定していたとも思えません。せいぜい松平広忠の抵抗を押さえたことをもって平均と呼んだのではないでしょうか?
 近世史料ではない同時代史料で反証を挙げるなら、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。その中で広忠は筧の暗殺行為を「この忠節は子々孫々忘れない」と評しているのですね。竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない状況下で、このような書状は出せるものではないと思います。
 その翌日に織田信秀が京に上った形跡も今の所確認されていません。次の文章につなげて京に上ったのは楞厳坊であると解するのはやはり難しいでしょうね。

>其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、
(訳案)その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

 楞厳坊の話の締めくくりです。ここでいうところの「万一」とは駿河衆が敗北したあおりで檀徒であり今川方の鵜殿氏が敗亡することになれば、鵜殿氏が庇護する三河陣門法華寺院も巻き添えを食って教勢を落としかねない心配があるということなのでしょうか。

 以下、超訳となります。2パターン検討しましたが、敢えて「しあい」と読んだ方の解釈で記してみます。

一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれております。この人がいなくては何も進まない具合です。
 楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の失敗もなくやっているように思われます。(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。
岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。
その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

次稿で去年の読売新聞記事に対する感想を書いてみます。

(付記1)
 2015年3月15日発行『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)所載村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」によると、この書状が書かれたのは加賀の寺ではなく、越中国城生城下にある井田菩提心院で、本成寺住持を退いた後に日覚はそこで城生城主の斎藤氏の外護を受けて隠棲していたとのことです。謹んで訂正いたします。
 井田菩提心院は斎藤氏の没落以後、越中の支配者交代に伴って転々とし、現在は本法寺と言う名になって富山市八尾町にあるとのことです。ただ、日覚書状には以下の通り「かゝの寺」という表現があり、そこに弟子の厳隆坊を置く旨が書かれておりましたので、日覚が属する陣門流法華宗は加賀にも拠点を持っていたようです。

>かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、

(付記2)
 ここは流石に間違いです。「無心許」を「無心を許す」と読んでしまったのですが、「心許無し」で、不安に思う・心配に思うくらいの意味に取るべきでした。愛知県史に掲載されている史料写真を見ても、当該部分は欠落していて読めないのですが、そこに「無心」と充てられた愛知県史編纂者の意図を正しく読み取れておりませんでした。お恥ずかしい限りです。謹んで訂正いたします。

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