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2015年7月26日 (日)

中漠:林下編⑲細川氏の為の禅林

 話がこのまま行くと戦国時代まで行ってしまいそうなので、その前に関山派と細川家との関係を手っ取り早くやってしまいたく思います。細川頼之は五山の春屋妙葩と大喧嘩をし、失脚の原因を作って以来、表面的に五山と手打ちはしましたが、五山を筆頭とする禅林は基本的に斯波氏や室町殿と密接な関係にありました。足利義満の代以降は管領職は細川、斯波、畠山の三家が持ち回りで務めることとなっております。
 当初は斯波義将の影響力が強く、大御所である足利義満没後は斯波義将が息子で管領だった義重を押しのけて自ら管領の座についたりしております。とは言え、死期の迫った斯波義将にとって管領職は激務だったようで数か月で孫の義淳に譲っております。斯波義淳は管領となったもののそれからすぐに祖父が亡くなってしまい、それに伴って、管領職を退くことになります。名門斯波家も三代目になると、能力的にも衰え始めるようです。斯波義淳は足利義教の代になって管領に再任しますが、義教の命令をサボタージュすることがままあり、義教の怒りを買うことがありました。それを機に義淳は管領を降りようとします。どうやら、管領職の収支は赤字で、家政を圧迫するものだったようですが、義教はそれを許しませんでした。そのプレッシャーの中で義淳は亡くなります。彼の息子は早世しており、出家していた弟が還俗して継いで義郷と名乗るのですが、わずか二年で落馬して死にました。その子の義健は二歳で家督を継ぎ、十八歳で亡くなります。ここに義将直系は断絶することになります。末期に従兄弟の義敏を養子とすることが認められ、義敏が継ぐことになりますが、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、遠江の甲斐氏といった各国に配された守護代連中には舐められまくってこれらと合戦をやらかすことになり、室町殿の義政の怒りを買って周防に追放されます。その後、義政は新設関東公方(堀越公方)の関東での味方を増やす為に、斯波の跡目を渋川義鏡の子の義廉に継がせるということをやらかします。のちに義政の母の日野重子没後の恩赦で追放されていた義敏が復帰。義廉の父、渋川義鏡は関東で上杉持朝との対立で失脚。細川・山名の介入でしっちゃかめっちゃかになります。
 畠山氏は満家が足利義教の将軍就任と同じタイミングで管領を退任しております。義教の強烈なキャラクターをあらかじめ知っていたのかも知れません。その子の持国は義教に家督を奪われますが、嘉吉の変のどさくさに紛れて家督を奪回。義教と義勝の死の直後管領を引き受けることになってしまいました。義教は嘉吉の変で暗殺、義勝は落馬事故での死去が原因です。いずれも、突発的な事件の処理を要求されておりそういう事後処理を任された人材ではありました。有能な人物だったのでしょう。しかし、彼の代で後継者問題を起こしてしまいます。彼には正妻との間に子は無く、甥の政長を養子にせざるを得なくなっていたのですが、彼自身は愛妾との子、義就を後継にすることを望んでいました。これが家臣団を真っ二つに割ることになり、何とか義就を後継にできたのですが、後継の政長は細川勝元と山名宗全の庇護を受け対抗勢力として義就と拮抗。これが応仁の乱が勃発した原因の一つになってしまいました。

 細川勝元は山名宗全と組んで、斯波・畠山ばかりか、このぐだぐだを調整しようとした伊勢貞親と季瓊真蘂も追放して幕府の秩序を引っ掻き回し続けていたわけです。季瓊真蘂は鹿苑院塔頭、蔭涼軒主として鹿苑院塔主・僧録司宝山乾珍の職務を補佐する任にありました。官僚としての五山派の事実上の筆頭と言ってもよいでしょう。伊勢貞親と季瓊真蘂の二人は足利義政の側近として政治を取り仕切っておりましたが、失脚によって義政は身動きが取れなくなり、細川・山名の意向抜きに政治を動かせなくなったわけです。
 細川頼之が春屋妙葩に喧嘩を売られて以来の、数代を経た報復とも言えるかも知れません。そんな細川勝元が自らの手で引き立てていたのが、妙心寺派でありました。元々は応永の乱のあおりを食ってつぶれた寺でしたが、ここに支援をして、復興し、龍安寺も立ててやり、さらには大徳寺住持の職に紫衣つきで出世させて権威づけを果たしていったわけです。勝元の関山派支援は日峰宗舜、義天玄承と続き、寛正三年には雪江宗深が大徳寺住持に上りました。関山派はいつでも大徳寺住持を出せる形になっております。反対運動を主導していた養叟宗頤は既に亡く、一休宗純も諦めた状態になっておりました。間違いなく細川勝元は野望を持っていたと思われます。林下として独立した大徳寺・妙心寺派をして鹿苑寺・相国寺を中心とした五山体制を覆すことを。
 五山体制は十方住持の制度により、寺の個性は消えてゆきました。また、本来の悟りの追及ではなく、間接的な文化面、書画等に血道を上げるようになったことも、後年林下からの批判を受けることになります。優秀な僧を選んで各所の住持に据えること自体は寺の平均的なレベルを上げることには役だったでしょうが、各寺の独自性、特化した優秀さをつぶすこともなった模様です。

 関山派は本山である大徳寺にいつでも住持を送り込めるようになったわけですが、それは逆のリスクも孕むことになります。すなわち、大徳寺の養叟宗頤派が関山派の中心寺院である妙心寺や龍安寺に住持を送り込みうるということです。これを防ぐ為に雪江宗深は妙心寺を中心とした関山派寺院に一つのシステムを構築します。それが、四派輪住制です。雪江宗深には、景川宗隆(けいせんそうりゅう 龍泉派祖)、悟渓宗頓(ごけいそうとん 東海派祖)、特芳禅傑(とくほうぜんけつ 霊雲派祖)、東陽英朝(とうようえいちょう 聖澤派祖)といった四人の高弟がおり、この四人は妙心寺四派の開祖となって妙心寺発展の基礎となる強固な宗門体制を構築し、妙心寺住持を一期三年で順次交代するようにしたのです。これは徹翁義亨や養叟宗頤が以後の大徳寺の住持は自分の法嗣のみから出すと言っているのと同じ虫のいい制度でありますが、これを実現する為に、雪江宗江とその弟子たちはある手段を講じました。それについては、別稿にて扱います。

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