« 川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説 | トップページ | 川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想 »

2015年7月 5日 (日)

川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。

 とりあえず、愛知県史資料編14に所載されているくだんの「菩提心院日覚書状 本成寺文書」より、
当該説に関連していそうな箇所を引用いたします。

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 本稿ではこの文書の読み解きをやってみたいと思います。専門家でもなんでもないのでいい加減な部分も多々あるかとも思いますがご容赦ください。また、字面だけ追っていては訳が分からなくなる部分もありますので、推測を交えた解説もしてみます。

>一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、
(訳案)一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。

 この文書が書かれる前の年、1546年(天文十五年)に今川軍は三河吉田(今橋)に攻め込み、戸田宣成を滅ぼしています。この戦いには松平広忠も今川方として参戦したという話も残っています。また、新説で否定された竹千代誘拐は文書の書かれた前月、即ち八月に発生し、その翌月五日に『犯人』である戸田康光が籠もる田原城が今川軍に攻め落とされています。吉田(今橋)の戦い及び、田原の戦いに関しましては、今川義元の感状が残っていて今川軍が三河に入っていることは確認できますが、本文書においてどういう意味で『敗軍』と述べているかは不明です。全ての可能性を検討すべきでしょうが、はたして、安城から尾張衆が長駆して東三河まで到達したのでしょうか?

>弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、
(訳案)弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。

 信長公記に織田信秀は尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねていたという記載があります。ここでいう一国とは三河ではなく、尾張国の事でしょう。日覚は加賀にいて信秀の威勢は前代未聞であるなどという情報を受け取っていますが、それがどういう経緯によるものかが次の文章に書かれています。

>一、此十日計巳前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、
(訳案)一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。

 楞厳坊、厳隆坊、心城坊という三名の僧の名前がここで出てきます。普通に解釈して日覚の弟子というところでしょうか。楞厳坊が厳隆坊を連れて京都から情報を持って日覚のいる加賀に赴いた。(※訂正します。付記1参照)心城坊は去年からここにいる、と言うことなんですが、つい十数年前には法華と本願寺教団は血みどろのつぶし合いを洛中洛外で展開していたわけで、そういう経緯があるにもかかわらず、本願寺教団王国と言ってよい加賀国に長逗留している日覚はいい根性をしております。楞厳坊は復興途上の本禅寺が負った負債を何とかする為の勧進道中の途上のようで、厳隆坊は加賀に居残って日覚の逗留している寺(實成寺か?)にとどまることになっていると、この手紙の冒頭部にあります。

>さる仕合候て、濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、
(訳案)とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれていて、この人がいなくては何も進まない具合です。

 「仕合」ですが「しあい」と読めば合戦というニュアンスです。「しあわせ」と読めば「事のなりゆき」「幸運」になります。美濃から加賀に向かう上使というのはちょっとわかりません。養雲軒という号を持っているので出家者なのでしょうか。上使と言うくらいだから幕府や朝廷の使いなのかもしれません。ただこの時代は、東国紀行を記した谷宗牧のように、一介の連歌師が女房奉書を持って勅使を務める事もありましたから、必ずしも身分の高い人物でもないかもしれません。その身内の人が加賀の陣門流寺院と現地檀家の世話をしているって感じの様です。加賀国は一向一揆の国で、富樫政親が守護をやっていた頃には専修寺派もいたものの、三ヶ寺に打倒され、その三ヶ寺も本山の本願寺から差し向けられた兵に滅ぼされたりして本願寺王国になった印象がありましたが、陣門法華が組織だった拠点を持てる程度には他宗派の活動も可能であったのですね。

>一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、
(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。
(訳案2)楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。

 鵜殿氏は蒲郡市あたりの国人領主で今川氏よりの立場にいます。前段にも書きましたが「仕合」という文言は、「しあわせ」と読めば前段にあった成り行きや事情という意味になり、鵜殿氏が今川氏の情勢は良くないとの私見を楞厳坊に語ったと解釈できます。また、「しあい」と読んで合戦と解すると、鵜殿で親織田勢力と今川勢が戦ったようにも読めますね。鵜殿は鵜殿氏が拠点とした上ノ郷城の別称でもあります。

>其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、
(訳案)(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、

 「仕合」の読み方で主語が楞厳坊であるか、鵜殿氏であるかが分かれますが両勢力の実力を計っています。

>覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、
(訳案)思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の障害もなくやっているように思われます。

 ここに至るまで今川義元は吉田、田原の両城を陥落させて東三河に足場を固めているわけですが、敗軍のニュアンスはよくわかりません。信秀が自分で攻め込んだのであれば信長公記などに記述があってしかるべきです。九月二十二日の書状に書かれるような軍事行動であれば、三河と加賀の距離を考えると九月五日に行われた田原城の合戦まででしょう。今川軍はここで苦戦をしたことを鵜殿氏が『敗軍』と呼んだか、宝飯郡上郷(鵜殿)で親今川勢力である鵜殿氏が親織田勢力と戦って敗れたかあたりではないかなと思います。その親織田勢力も地理的に織田家やその家臣ではなく、吉良氏あたりではないかと思います。ただ、そのような史料は見つかっていないので何とも言えません。

>定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
(訳案1)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(田原または吉田(今橋))に攻め入るのだろうと(鵜殿が)語りましたが、
(訳案2)(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、

 鵜殿氏または、楞厳坊が弾正忠(織田信秀)視点でこれからの情勢を予測しています。今川勢は「敗軍」しているのですが、弾正忠は「只今の時分ハ攻いらんや」なのですから、敗軍の時点では弾正忠は攻め入っていないのです。その場所は「仕合」の文言をどう読むかによって、戸田氏の根拠地か、鵜殿氏の根拠地かのいずれに分かれてゆくのではないでしょうか?

>あまりニ□□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、
(訳案)あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。(※訂正します。付記2参照)

 □は判読できない文字で、愛知県史は「□□許存候間」の□□に「無心」、「心□坊」の□に「城」の字を当てています。楞厳坊は鵜殿から有償で情報をえていたのでしょうか? もしくは日覚は楞厳坊から有償で話を聞いていたのでしょうか? いずれにせよお金が足りなくて詳しい話を聞き出せなかったので、改めて昨冬から加賀にいる心城坊を三河に派遣してより詳しい話を聞くこととしました、と解してみました。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、
(訳案)岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。

 岡崎は地名の他に松平広忠をさす場合もあります。からがら命を拾ったと後段に続くので、地名ではなく、松平広忠を意味していると解釈できます。一応書いておくと、この書状が書かれた六日後の九月二十八日に松平広忠は織田信秀方についた松平信孝と矢作川沿いの渡河原で合戦して敗北しています。出典は「松平記」及び「岡崎古領主記」になります。九月二十八日が正しいとすれば、手紙が書かれた時点で松平広忠はまだ降参していません。九月二十八日説が間違いで戦闘はもっと前にあったのかもしれませんが、史実を見れば、弾正忠は三河を平定していたとも思えません。せいぜい松平広忠の抵抗を押さえたことをもって平均と呼んだのではないでしょうか?
 近世史料ではない同時代史料で反証を挙げるなら、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。その中で広忠は筧の暗殺行為を「この忠節は子々孫々忘れない」と評しているのですね。竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない状況下で、このような書状は出せるものではないと思います。
 その翌日に織田信秀が京に上った形跡も今の所確認されていません。次の文章につなげて京に上ったのは楞厳坊であると解するのはやはり難しいでしょうね。

>其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、
(訳案)その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

 楞厳坊の話の締めくくりです。ここでいうところの「万一」とは駿河衆が敗北したあおりで檀徒であり今川方の鵜殿氏が敗亡することになれば、鵜殿氏が庇護する三河陣門法華寺院も巻き添えを食って教勢を落としかねない心配があるということなのでしょうか。

 以下、超訳となります。2パターン検討しましたが、敢えて「しあい」と読んだ方の解釈で記してみます。

一、三州においては、駿河衆は敗軍したようです。弾正忠はまずもって一国を管領しております。その威勢は前代未聞と、その知らせにあります。一、この十日ばかり以前に京都より楞厳坊が罷り下りました。厳隆坊も同行しております。心城坊は昨冬から今まで当国(加賀国)に滞留しております。とある成り行きで、美濃国から当国への上使を務めた養雲軒と申す人の家人が今も檀徒との間の使いをしてくれております。この人がいなくては何も進まない具合です。
 楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。(楞厳坊が)言うには尾張と駿河を見比べて、ともに色々巧みに(戦術を)駆使しているようだが、思いのほか東国は敗軍になっているのに対し、弾正忠は特段の失敗もなくやっているように思われます。(弾正忠は)きっとこれを機に彼の地(上郷・鵜殿)に攻め入るのだろうと(楞厳坊が)語りましたが、あまりに無心を許してしまったので、近日心城坊をさしやるつもりです。
岡崎は弾正忠に降参して、命からがらでした。弾正忠は三河を平定し、その翌日に京に上りました。
その便宜で楞厳坊の話を聞き取った次第です。万一のことがあれば、門中の力は落ち、外見も実質も悔しいこととなるでしょう。

次稿で去年の読売新聞記事に対する感想を書いてみます。

(付記1)
 2015年3月15日発行『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)所載村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」によると、この書状が書かれたのは加賀の寺ではなく、越中国城生城下にある井田菩提心院で、本成寺住持を退いた後に日覚はそこで城生城主の斎藤氏の外護を受けて隠棲していたとのことです。謹んで訂正いたします。
 井田菩提心院は斎藤氏の没落以後、越中の支配者交代に伴って転々とし、現在は本法寺と言う名になって富山市八尾町にあるとのことです。ただ、日覚書状には以下の通り「かゝの寺」という表現があり、そこに弟子の厳隆坊を置く旨が書かれておりましたので、日覚が属する陣門流法華宗は加賀にも拠点を持っていたようです。

>かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、

(付記2)
 ここは流石に間違いです。「無心許」を「無心を許す」と読んでしまったのですが、「心許無し」で、不安に思う・心配に思うくらいの意味に取るべきでした。愛知県史に掲載されている史料写真を見ても、当該部分は欠落していて読めないのですが、そこに「無心」と充てられた愛知県史編纂者の意図を正しく読み取れておりませんでした。お恥ずかしい限りです。謹んで訂正いたします。

|

« 川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説 | トップページ | 川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/61830108

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。:

« 川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説 | トップページ | 川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想 »