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2015年7月12日 (日)

川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想

 とりあえず、ここまで書いてきた時点での感想は「歴史考察のネタとしては興味深いが、新説と呼ぶには論拠が薄すぎる」と言った感じです。日覚の史料に着目して新説を提起したことによって歴史議論が活発になされるようになるのならば、それについては大きな意義はあると私も思います。しかし、現時点で私自身が把握している情報だけでは正直何とでも言えるので、まさしく『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』と記事中で東大史料編纂所の本郷教授が仰せになった通りかと思います。

 具体的には史料では『駿河衆が敗軍した』としか述べられておらず、いつ、どこで、誰に対して、どんな風に駿河衆が敗軍したのかについては何も触れられていません。弾(織田信秀)が岡崎(松平広忠)を降参させたこともそうです。どんな形の降参であったのか、それはいつ行われたのか、広忠が命からがらになるような戦闘はいつどこで行われたのかも明らかになっていないのですね。その敗北が戸田康光が今川に滅ぼされる前であるのか、後であるのかすら記事には書かれていません。この説が有効となるためには、田原に竹千代が向かわなかった可能性が示されている必要がありますし、日覚の書状でそれを示すなら例えば、広忠の降参が田原城陥落以前だった等の根拠があるべきなのかなと思うのですが、そのような情報は記されていません。

 何より日覚書状の読みようによっては通説の中に組み込むことも可能なのですね。

>岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、

 前稿にも述べた通り日覚書状の書かれた九月二十二日の六日後に渡河原の戦闘が起こり、松平信孝が、広忠を破っております。戦闘は広忠軍の惨敗であり、陣門法華に所縁のある大窪忠俊とも関係の深い大窪藤五郎等が戦死しております。大窪藤五郎は実在の人物であるかどうかは怪しいところもありますが、実在した有力家臣(五井松平忠次ら)も戦死しております。戦闘の発生時期をもっと前にずらして広忠の降参を敗北による戦場離脱程度の意味に留め、三州平均を誇張の含んだ表現と解すれば、特段の矛盾もなく通説の中に取り込むことも可能であろうと思います。

また、記事中で一つ残念であったのは以下の記載です。
>村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、

 実は当該史料「菩提心院日覚書状 本成寺文書」が刊本として公開されるのは2014年(平成二十六年)三月の愛知県史が初めてというわけではありません。2011年(平成二十三年)三月刊行の「戦国遺文 今川氏編 第二巻」に先行して「○九六五 菩提心院日覚条書」として掲載されております。若干の字句解釈上の異同はありますが、ほぼ同じ文面になっております。但し、当該文書は年未詳となっていました。ここについての戦国遺文の見解としては以下の通りです。

>本文書は年未詳なれど、菩提心院日覚が天文十九年十一月十六日に没しているので便宜ここに収める。

 「便宜ここに」とは、当該史料が「戦国遺文今川氏編 第二巻」の天文十九年の項に所載されていることを指します。日覚の書状は愛知県史も戦国遺文も史料を編年で分類されて掲載されているわけです。愛知県史においてはこの史料が天文十六年に比定され、天文十六年の項に掲載されているのですが、その根拠はぜひとも伺いたいところです。

 新聞記事タイトルの「織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた」も残念の一つです。三河の岡崎などと書かれると、普通は地名ととってしかるべきなのですが、日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、」とあって、命拾いをした記述があります。岡崎という土地が降参したり、命拾いしたりするなんてことはありませんから、ここの記述が人を指しているところは間違いのないところでしょう。記事中でも「「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。」と、人名を指すことが明記されているのですね。きっと松平広忠は岡崎城主であり、織田信秀に降参したのだから、織田信秀が岡崎という土地を支配していたと言っても問題ないという論法なのでしょう。しかし、それこそが「信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」部分です。岡崎の降参もまたいつどこでどんな形で降参したかは当該史料では判じえないのですから。

 ただ、村岡教授がこの説を通して三河国を巡る織田と今川との間の戦いに示してくるかも知れない新しい展開にはとても興味があります。2004年(平成十六年)に刊行された安城市史において当時准教授だった氏は、天文十七年三月十日付織田信秀宛北条氏康文書について解説記事を記しています。

>殊岡崎之城自其国就相押候、

 上記は北条氏康文書の文言の一部なのですが、この文言を氏は「殊に岡崎の城其の国より相押さえ候に就き」と読み下した上で「天文十七年まではおろか、信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたことを示す史料もまた存在しない」と解説しています。つまり、この文言は信秀の時代に織田方が岡崎城を勢力下に置いたと解釈しているのですね。
 当ブログの過去記事を参照していただければわかるのですが、私自身は通説の歴史記述の流れに従って岡崎城が織田と今川両勢力が押さえ合いをするようになったと解釈しました。『就相押候』には『相』の字があります。『相性』、『相愛』、『相似』、『相違』、『相克』、『相生』等の『相』がつく単語をみるに、二者の間で行われる動作・状況なのですね。むろん、読み下しと解釈に強引さは否めません。その一方で『相成候(あいなりそうろう)』のように、『成る』のような動詞を強調する語としても『相』は使われるケースもあるわけで、氏の解釈の方が正しいのかもしれません。その前提での解釈に立てば、日覚書状は北条氏康文書において天文十六年頃に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする説の補強材料となりうるものです。

 但し、当該書状については書式礼の不備をもって、氏自身は後世に作られた偽書の疑いがあるとして安城市史においても参考資料扱いにしているので、ご本人には取り扱いづらいものになってるかもしれません。しかし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数出てきたことの意義は大きいと思います。仮に北条氏康文書が偽書であったとしても、偽書作成者の認識の中に天文十六年に織田信秀が岡崎城を押さえたという認識があったことには変わりません。しかも、その偽書作成のネタ元が加賀で書かれて越後で保管されていた日覚の文書であったとは考えにくいです。天文十六年に松平広忠が織田信秀に屈服していたことを示す史料が複数存在するという事実は決して小さいことではない。しかも両者は系統が異なっています。少なくとも小瀬甫庵が太田牛一の信長公記をベースに信長記を作ったような形で作られてはいないのです。二つまでは偶然でかたづけうるとは思いますが、もう一つ二つ隠し玉があるのなら、立派な仮説に成長しそうです。

 もし、天文十六年頃に松平広忠が織田信秀に屈服していたとするならば、ある合戦の状況を包む霧の一部が晴れることになります。それはすなわち第二次小豆坂合戦(この言い方は私自身良しとはしませんが)において松平広忠はなぜ参戦をしていないのか、何をしていたのかという疑問に答えが出ます。合戦の行われた小豆坂の北方に岡崎があります。安城から出陣する織田信秀を広忠は指をくわえてみていたのでしょうか? 今川軍と示し合わせて挟み撃ちにしようとはしなかったのでしょうか? 敗北を重ねてそんな能力はなかったのでしょうか? 少なくとも三河物語に出てくる松平広忠は違います。似たようなルートを使って進軍する松平信孝を捕捉して広忠軍は信孝を耳取縄手で討ち取っております。しかし、織田信秀に対してはそのような挙に出ませんでした。それは広忠が信秀に屈服していたからだと考えれば、色々なことが腑に落ちてくるのですね。

 そのような意味で注目はしておりますが、私自身の当該説にかかる現状評価は、『信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる』です。
 前稿にも書きましたが、松平広忠は織田方に寝返った佐々木松平三左衛門忠倫を暗殺した筧重忠に対して天文十六年十月二十日付の感状を送っております。日覚書状の翌月であり、記事が言うような竹千代を人質に出さなければならない程の降参をし、織田方の顔色を窺わなければならない立場の松平広忠が、はたしてこのような書状を出せるものでしょうか?

 ○八五一 松平広忠判物写 ○国立公文書館所蔵譜牒餘録後編巻十七
    (松平忠倫)
 今度、三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠子々孫々忘
    (ママ)
 間敷候、 然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於
 末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候成、
 天文拾六年        (松平)
  十月廿日          広忠 御在判
       (重忠)
       筧平三とのへ

 ※戦国遺文 今川氏編 第二巻(天文十六年(一五四七年)―永禄三年(一五六〇年))より抜粋

 平野明夫氏の安城城陥落天文十六年説と同様、村岡説を採用した場合に覆さなければならない通説や史料は結構あるような気がします。そのような部分も含めて、氏の研究成果を確認できる日を楽しみにしております。

◎略年表(安城陥落天文九年&小豆坂合戦二回説をベースとする)
1540年(天文 九年)   六月   六日 織田信秀、三河国安城城を奪取。
1541年(天文 十年)             水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)  八月  十  日 第一次小豆坂合戦
              十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
                八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
                九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
                          この月    松平広忠、お大を離縁。
1546年(天文十五年) 十一月  十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。
1547年(天文十六年)  八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
                九月   五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                   二十二日 菩提心院日覚、本成寺に文書を送る。
                   二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
               十 月二十  日 松平広忠、筧重忠に松平忠倫暗殺の感状を出す。
1548年(天文十七年)  三月  十九日 第二次小豆坂合戦
                四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年)  三月   六日 松平広忠、暗殺される。

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