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2015年7月19日 (日)

川戦:安城合戦編⑲補遺Ⅳ 今年発表された中京大教授の新説

 本当は前稿にて補遺を終えるつもりだったのですが、2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に村岡教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」が掲載されておりました。昨年の読売新聞は『織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説』ととても興味深い学説が唱えられたと謳っていたものの、限られた新聞の紙幅では何を論拠にそのようなことが言えるのかが今ひとつわからず、その論拠となった『菩提心院日覚書状』が掲載されている昨年刊行された愛知県史資料編14には当該史料が掲載されてはいたものの、肝心の氏の論文は掲載されておらず、欲求不満が募るばかりでした。
 私としてはその論文を読みたくて一連の補遺を書いていたわけですが、国家鮟鱇ブログ7月14日の記事「菩提心院日覚書状について(その3)」http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20150714/1436848779 にて、論文がネットで読めるということが書かれておりました。早速読ませていただきました。ご紹介いただいた国家鮟鱇ブログの鮟鱇様にはいくら感謝してもし足りません。

 一読した感想は、新たに学べたこと、認識を改めなければならない事を示唆されたことは確かにあったものの、なおも首をひねらざるを得ないことや論理の飛躍があるように思えて納得のゆかないことも含まれていました。とは言え当該論文を読んで、拙ブログ『川の戦国史・安城合戦編』の一連の記事にて私自身が呈してきた疑問についての氏の見解を、論文を読むことで照らし合わせることができました。論文の内容に対する批評についてはすでに鮟鱇様のブログで展開されており、いくつか首肯できる点もありますが、まずはこの論文に巡り合えたことに感謝をしたいと思います。

 本稿においては村岡教授の論文の要旨を紹介いたします。様々な史料が駆使された長い論文ですので、場当たり的に指摘を入れても散漫な物になりそうです。なので、まずは論文の骨格を把握するところから始めたいと思います。その上で当該論文に対して感じた一番大事に思える点をいくつか指摘することと致します。

※※※ これより「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋 ※※※
●はじめに
 当該論文の主旨。『愛知県史資料編14中世・織豊』で取り上げた『菩提心院日覚書状』とのかかわり及び、当該論文にて『菩提心院日覚書状』の年代を天文十六年とした根拠と氏が考える当該期三河の政治状況への考察をおこなうことを謳う。

●一 日覚書状の年代比定
 1979年刊行「三条市史資料編第二巻古代中世編」をはじめとする刊本に『菩提心院日覚書状』が掲載されてきた歴史の紹介並びに、当初は1630年(永禄三年・桶狭間合戦があった年)の史料と考えられていたことを紹介の上で考証。
 ・日覚書状に1547年(天文十六年)になされた延暦寺と洛中法華の和睦と読める記載有り。
  (「京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而~」
 ・よって、当該書状の記載年代は1547年(天文十六年)九月二十二日と比定できる。

●二 織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 拙稿でも紹介した「菩提心院日覚書状」の三河関連情報についての氏による抄訳。および、日覚の三河地方とのコネクションを紹介。当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘。
 ・日覚の尾張コネクション(美濃在国の「孫右」情報、尾張国山田郡稲生妙本寺情報)
 ・日覚は尾張国守山生まれ、稲生妙本寺で修行「長久山歴代譜」
 ・日覚は尾張・三河の政治情勢について甚だしくは外さない程度の土地勘と判断力が備わっていた。

●三 織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 日覚書状の肝は氏の論文タイトルにもなった「織田信秀岡崎攻落」であることと、それを伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介。

 ・織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀充て北条氏康書状写の紹介
 ・氏康書状(長文版)の前半部読み下し。
 ・他刊本での字句解釈とは異なる自説の主張
  - 「無相談」は「被相談」であり、相談せられと解するべきである。
  - 「安城者要害則時ニ被破破之由候」の「者」を「之カ?」と付されている解釈への異議
  - 「安城の要害を信秀が破った」ではなく、「安城は織田の要害だから当地の敵に勝利した」と解釈。

●四 北条氏康書状の史料批判
 安城市史で氏自身が立てた氏康書状長文版は短文版からの後代改作説を見直したうえで、氏康書状長文版が天文十六年の出来事に織田信秀が言及した同時代史料と見なし得うることを提起。

●五 北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理と平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判の上で、岡崎攻略は織田・今川の合意によるものであったとする。

 ・氏康書状(長文版)の氏による三河情勢の整理。
  - 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破って岡崎城を確保した。
  - これは織田と今川での相談の上でのことである。
 ・平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判
  - 当該文書は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない。
  - 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実。
 ・岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる。
 ・織田・今川の相談とは、今川が今橋を取った事の引き換えに、岡崎を織田が取ることではなかったか?

●六 松平広忠降参情報の信憑性
 天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたことは間違いない事実として確定。しかし、織田が岡崎を攻落したとまで断定することはできず、かりに広忠が降参したとしても、信秀が三河から退去してほどなく岡崎城主としての地位を回復したとみる。但し、岡崎城主としての地位を回復することと、外に向かって反織田の旗幟を鮮明にすることとが、この時点で必ず連動するとは限らない。

 ・天文十六年七月八日以前に今川義元は医王山に砦を普請。広忠救援のための物か。
 ・天文十六年九月五日、今川軍が田原へ転進。この攻撃は今川にとって想定外の物だったと考えられる。
 ・それに連動して吉法師の大浜攻撃、そして岡崎奪取を行ったと想定できる。
 ・天文十六年九月二十八日渡河原合戦は、それまでに広忠岡崎奪還又は降参しなかったかいずれか。
 ・天文十六年十月二十日、筧重忠への感状と十二月五日の大樹寺への田畑寄進で広忠岡崎に健在。

●七 小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方としてまったく機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがあるとする。

●八 松平広忠の病死
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

●おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行った事自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたとみるのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定といえる。
※※※ 「織田信秀岡崎攻落考証」要旨抜粋ここまで ※※※

 論文中で村岡教授は史料を縦横に駆使しておりますが、それを書きだすゆとりがありませんでした。
 あと簡略ですが、論旨の流れを踏まえた上で改めて考えてみたことを書きだします。

 まず気になったことは村岡説においては日覚書状の三河情報において最初に言及している「駿河衆敗軍」の内容について何らの言及をされていないことです。天文十六年九月に織田信秀方が攻撃したと言及されているのは、岡崎であり、吉良大浜であり(これは日覚書状には言及されていません)、戸田(これも日覚書状には言及されていません)なのですが、松平広忠ははたして「駿河衆」と呼べるでしょうか? 大浜の領主は吉良氏であり、太原崇孚率いる今川軍と正面で当たったのは戸田氏くらいなものです。氏康書状が裏打ちする「岡崎之城相押候」が今川方すなわち駿河衆の不利に働き敗軍と表現するにいたったというのは少し強引な気がします。

 日覚書状の書き方も気になりますね。現代人と中世人では手紙の書き方が違うのかもしれませんが、最初は鵜殿の外交姿勢に言及していて、鵜殿視点なのですが、その直後に弾正忠が鵜殿の事を「一段ノ曲なく思われたる」と突然織田信秀の認識を披露しています。村岡説では楞厳坊はずっと京都にいたとのことですが、そこで信秀またはその従者に鵜殿の評判を聞いたのでしょうか。信秀やその従者たちは楞厳坊が鵜殿と所縁の深い陣門流の僧侶と知っていて、相対する前に鵜殿が行っている二股外交についての認識を確認していたのでしょうか。それよりも、鵜殿にいて鵜殿から「駿河衆敗軍」の結果、信秀から袖にされたと楞厳坊が聞いたと取った方が話の流れからはしっくりきます。村岡説のように解釈するには、一旦「弾は…(中略)…其翌日ニ上京候、其便宜候て」まで読んだ後で遡って意味を取りなおさなければそのような解釈はできないと思います。

 また、やはり筧重忠への感状です。安城にまだ織田がいる段階で、織田方である松平忠倫を暗殺した勲功の代償として金銭ばかりではなく「在所者別ニ日記出置候成」と土地の安堵までおこなっているのですから、
 渡河原合戦についても発生日時については、氏は特に疑いを差し挟んでおりませんが、岡崎を回復した広忠が自分の味方の松平信孝と戦うのは問題ないものなのでしょうか? そうした状況を果たして岡崎城を押さえたと(氏康書状での言及)呼びうるものなのでしょうか?
 
 ともあれ、村岡説の肝は天文十七年三月十一日付北条氏康書状写(長文版)を使って氏が過去に提起された解釈である「被相談」「安城者要害」「殊岡崎之城自其国就相押候」の解釈がどのようにとられるかによるのではないでしょうか。「殊岡崎之城自其国就相押候」は私自身の素人解釈に過ぎませんが、「被相談」の解釈を取っている刊本は今の所「安城市史」と横山住雄氏「織田信長の系譜」くらいで、他書は概ね「無相談」です。「安城者要害」の「者」は安城市史、小田原市史、戦国遺文いずれも「者」とはしてますが、すべてに「之カ?」との注釈もついております。安城は(=者)要害だから弾正忠が(敵を)破ったとするか、安城の(=之)要害を弾正忠が破ったとするかの解釈の分かれどころです。私自身古証文を確認しましたが、どの肉筆本も素人目にはどちらともとれる微妙な表記です。

 機会を見てより理解を深めてゆきたいと思いますが、まずはその検討の土台が示されたことについて、大変うれしくおもいます。これを機に安城合戦をめぐる議論にひとつの弾みがつくことを期待いたします。

(付記)
氏の以下の見解について、気になったことがあったので少し調べてみました。

>「被」「無」の草書体は似ることがある。この文書中の他のくだりで「被」は何度も用いられ、
>「無」も二度用いられている。『古証文』原本にあたってそれらと比較するに、
>『古証文』筆記者が当該箇所を「被」と書いていることは明らかである。

 上記は論文の最後に書かれた氏康書状についての注釈で、氏康書状は私も当ブログで取り上げてきた文書です。そして、ここで言っている『古証文』とは、氏康書状を含む多数の書状が収められた文書集です。当該文書集について図書館で国書総目録(岩波書店刊)を調べたところ、『古証文(こしょうもん)』は写本であり蔵されているのは国立公文書館にある内閣文庫の七巻四冊本一冊と六巻六冊本二冊のみです。これらについては私自身確認しましたが、素人目には「被」と断定できる根拠は残念ながら見出せませんでした。
 氏は「『古証文』原本にあたって」と仰せになっておられますが、原本というからには編纂者や作成年代も明らかになっているものなのか、また、三種の写本の作成経緯も明らかになっているのか、気になることがたくさん出てきております。
 なにぶん国書総目録は古い本であって遺漏やその後の研究で発掘された史料もあったりするかもしれません。日本古典籍総合目録データベースでも調べましたが、上記に挙げた三つの写本に加えて内閣文庫本を写した四冊本が東大史料編纂所があるだけでした。(以下サイトから検索画面に入って「古証文」で検索すれば、
統一書名:古証文 ( こしょうもん ), X, 0でたどり着けます。)
 http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html

 「被相談」であるか「無相談」であるかの議論を深めるためには、氏があたったとされる「原本」の来歴をまずは明らかにする必要があるのではないかと愚考いたします。
 研究が進んでこの時代の実相がさらに明らかになることを期待いたします。

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