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2015年8月30日 (日)

中漠:林下編㉔山名家の宗旨報告書Ⅰ(山名時氏~時義)

 本稿では大徳寺住持の系譜のうち、徹翁義亨系でも関山玄慧系でもない法流についての記事となります。
 山名時氏は新田一族でありながら足利尊氏につき従い、観応の擾乱では佐々木導誉に対する対抗心から直義・南朝についたものの、上手く引き際を見定めて五つの守護国を獲得・維持した一代の英傑でした。
 鎌倉時代の山名家は新田宗家もそうだったように、いわゆる貧乏御家人で今川了俊の難太平記によると、文字も読めなかったと書かれてしまっています。実際にそうであったかどうかは疑問ですが、苦労の末に成り上がった人物としてのコンプレックスもあったのかもしれません。また、野望の潰えた足利直冬を保護したりして、足利直義への義理は欠かさなかった人物でもあります。
 1359年(延文四年)、山名時氏は東福寺円爾の法脈を継ぐ聖一派の南海宝洲を伯耆国に招いて光孝寺を建立します。これはまだ時氏が南朝方に属していた期間のことです。生前足利直義は興禅運動を行っており、その志は捨て置けないと思ったか、彼自身に禅宗への興味はあったのでしょう。穿ってみれば、一門衆筆頭でありながら早々に直冬を見限って幕府に帰参した足利尾張守高経への当てつけも含まれていたかもしれません。

円爾――月船たん(※)海――桃源了勤――南海宝洲
(※王へんに探のつくり)

 ただ、寺は建てたもののこの時点で時氏自身は出家しておりません。直冬という幕府にとっての危険分子を抱え、帰趨の決まった南朝方に属しながら帰参のタイミングを計っている最中、おちおち出家していられなかったという事情もあったでしょう。足利尾張守高経・義将が足利義詮を輔弼する立場になった時、つまり高経が義将の執事就任を渋々認めたタイミングで、山名時氏はすかさず幕府に帰参します。そして間もなく出家して道静となのります。

 山名時氏は子だくさんで五人の男児に恵まれました。帰参に伴い山名時氏が幕府の重鎮となり、子供たちは山名氏の勢力圏の守護として領地を安堵されて山名家を盛り立てます。その一族の中に山名時煕という人物が居ました。時氏の末子である時義の息子です。一門とはいえ末子の息子と言うことで結構自由に動けたようです。そこである僧と出会います。その僧の名は月菴宗光と言います。彼は南浦紹明の法脈を継ぐ大応派の僧侶でした。彼の師匠の師匠に当たる峰翁祖一は大徳寺の宗峰妙超と兄弟弟子であり、宗峰妙超からも教えを受けた間柄です。峰翁祖一は大徳寺の宗峰妙超の弟子たちと同じように、自らの弟子の法号にも宗の文字を受け継がせました。大徳寺はこの後に南朝方について、足利幕府から冷遇された結果、五山の第一から十刹下位にまで落とされてしまい、大徳寺の住持職も宗峰妙超の直弟子である徹翁義亨系が独占することになるのですが、月菴宗光はその大徳寺に近しい法系を継ぐ者でした。山名時煕は月菴宗光に帰依し、但馬国黒川(現兵庫県朝来市)に大明寺を創建します。

 それから間もなくして、山名時氏は亡くなります。一代で五ヶ国太守に成り上がった一族の将来を心配しながらの往生です。光孝寺に弔われました。時氏が幕府に帰参した時から定められていたことですが、彼が支配していた五ヶ国は息子たちに分割されることとなります。一族の統制の多くは山名時氏一人の力量に委ねられていました。それを継いだのは嫡男の師義です。

 ところが時氏の後を継いだ師義はその後わずか五年で亡くなってしまいます。嫡流の男児に義幸がいましたが、彼は一門の当主を務めるには病弱で自らそれを返上したのです。それが一族がもめるもととなります。どういうやり取りがあったのかは判りませんが、時氏の末子の時義に家督がもたらされました。
 この継承については、他の一門衆たちも納得のゆかないものであり、一族の結束に軋みが生じます。時義は師義の次男氏之を自らの養子にし、さらに伯耆国守護を宛がってなだめにかかり、なんとか破たんしないようにもってゆきますが、それがどうにもならなくなるのが、時義の死後でした。山名時義は十三年間惣領を務めあげます。
 時義の後を継いで山名家家督となったのは大方の予想の本家から養子となった氏之ではなく、時義の実子の時煕になりました。しかも、亡くなった時義の為に一寺を設けるのですが、そこの宗旨は時氏が奉じた聖一(円爾)派の系統の寺ではなく、時煕が帰依していた大応(南浦紹明)派の寺、すなわち、月菴宗光に命じて円通寺を建てさせ、そこをもって山名時義の菩提寺としたのでした。

 普通一門衆が嫌うのは、家督が別の宗派を信奉してしまうことです。家督の宗旨は一族の結束を強化する為のものですが、それを勝手に変えてしまうということは、父祖の否定につながり、一門衆としては許容できないものであったのでしょう。とはいえ、一門衆にとって時義はあくまでも陣代、すなわち一時的な代表でしかありません。考えられる経緯として最初に時義を時氏以来の菩提寺に入れないとかを一門衆の誰かが言い出したのかもしれません。勿論それだけが原因と言うわけではないのでしょうが、山名一門内部で紛争が発生します。
 そこに介入してきたのが、室町殿、足利義満でした。すでに足利義満は真の権力者となる行程を踏み出しておりました。その前に大きく横たわっていたのが日本の禄分の一を領する山名一族であったわけです。その山名氏が相続をめぐって対立していることを知り、介入に乗り出します。

 すなわち、師義流の満幸と師義の弟で時義の兄の氏清に命じて時煕と氏之を攻めさせたのでした。時煕と氏之は抵抗しますが、没落します。氏清と彼が奉じる満幸が一門の主流となるわけなのですが、ここで足利義満が「内閣改造」を行います。すなわち、管領斯波義将を罷免して細川頼元(頼基)を管領に据えました。代わった頼元は仙洞御所領の保護を怠ったことを理由に満幸が領していた出雲国を取り上げる挙にでたのです。それ以前にも、幕府は自らの命令で罰を与えた時煕・氏之を赦免しようとしたという噂が流れており、疑心暗鬼に陥った満幸と氏清が蜂起します。これが明徳の乱でした。

 満幸と氏清率いる山名軍は平安京内野で合戦し、敗れます。過去に何度も京を攻撃された経験から学んだ幕府は有力守護の子弟からなる将軍直属軍、すなわち奉公衆を編成しており、見事山名氏清を討ち取ることに成功します。この合戦には幕府方として山名時煕も加わっておりました。そんなこんなで、今度は山名嫡流は没落し、時煕が真の惣領として一門を率いることになりました。但し、十一ヶ国あった守護領は時煕の但馬、氏之の伯耆、氏家の因幡の三国に減らされることになります。
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2015年8月23日 (日)

中漠:林下編㉓大徳寺歴代(開山宗峰妙超~七十三世東海宗朝)

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2015年8月16日 (日)

中漠:林下編㉒一日住持、付けたり侘茶のこと

 応仁の乱の最中、一休宗純は南山城薪の酬恩庵に籠もっておりました。
 京の街は廃墟と化しており、本寺は焼けて灰燼に帰しておりました。私自身一休宗純の生涯は矛盾に満ちて謎だらけでいまだに評価はさだまりません。どうしようもない破戒僧であるにもかかわらず、高徳の聖として敬われているし、文才はあったのでしょうが、狂雲集はエロ描写で満載であり、自分の寺に盲目の美少女を囲ってエロいことをしまくって、それを狂雲集に書いてしまっているし、養叟宗頤を筆頭に、僧侶の堕落ぶりをこき下ろし、特に才幹の有無にかかわらず大徳寺で弟子として受け入れて十分な修行もさせずに印可を与えているところなどは口を極めて罵っているにもかかわらず、自身もそのスキームによっているようで、蜷川親当や村田珠光などに教えを垂れ、彼らが得意としたのは禅よりも、連歌や茶でありその高名に一休宗純も一役買っております。すなわち、彼らとの違いは自覚の有無のみであってやっていることは大差ないように見えるのです。強いて何らかの意味づけを推測するならば、念仏者宣言をした時点で、自身の心の中で僧であることを辞めてしまったのではないでしょうか? 修業時代の一休はきらびやかな儀式にわざと襤褸を着て参列する奇行を行っておりましたが、それはあるべき理想の僧侶としての姿を実践したものでした。応仁の乱後の一休宗純はそうした縛りを自らに課すことを辞めております。それは親鸞の愚禿という考え方にヒントを得て、一休宗純は僧侶の知識をもった俗人として振る舞うことに現れたのでありましょう。彼は姦淫や仏像冒涜等の僧侶としての破戒は行っておりますが、人殺しや盗み等の一般人が冒して罪になるようなことはしでかしておりません。

 そして大徳寺を復興するためには金が必要でした。応仁の乱においては通商が破壊され、金の流れが滞りました。足利義政は当初銀閣寺に銀箔を貼るつもりだったが、予算不足でできなかったという話もあります。応仁の乱の余波は全国に波及し、京にいては生活できないようになっております。金を集めるためには養叟宗頤が打ち立てたスキームが有効でした。1474年(文明六年)には一応京洛における戦闘行為は止んでおり、一休宗純は大徳寺の復興に着手します。堺の商人に呼びかけて出資を募り、大徳寺の再建費用を捻出したのです。勿論、大徳寺の再建を名目とした勧進でありますので、大徳寺の聖としての活動となります。ちなみに、堺のスポンサーたちは一休宗純に批判された養叟宗頤のやり方に基づいて参禅した人々であります。一休はそこのところはスルーしつつも、目的を果たしたわけですね。  その功績が後土御門天皇の耳に入り、二月十六日に一休宗純は大徳寺住持就任の勅命を受けます。ちなみに四月三日、細川政元、山名政豊間で和議が成立しております。
 一休宗純にとってこの大徳寺出世は羞恥の極みでありました。自らが養叟宗頤に向かって口を極めて罵ったのと同じやり方で金を集め、大徳寺を再建した勲功で住持職に就いたとなれば養叟宗頤の弟子たちに何と言われても仕方がなかったでしょう。もっとも、一休宗純は天皇の言葉には実直に従う性格ですので、住持就任そのものは引き受けました。しかし、自ら出世開堂の儀式には出席せず、一日で住持の座を辞します。一休宗純の弟子たちは一休が再建した大徳寺内の塔頭真珠庵を受け持つこととなりました。  一休宗純本人は酬恩庵に引きこもって余生を過ごし、盲目の美少女森侍者に看取られて示寂します。  最期の言葉は「死にとうない」とのことだったと言います。彼を僧と見なせばこの言はおかしいですが、僧のふりをした俗人としてみれば、あり得た末期であったと言えるでしょう。

 一休宗純は大和国の杢市検校の子である珠光を弟子にとり、修行をさせて圜悟克勤(えんごこくごん)という宋代禅僧の墨跡を印可の証として与えております。自戒集には自分は師から印可を貰っていないし、弟子の誰にも印可を与えることはしないと書いているのですが、言っていることとやっていることの乖離の大きい人物であまり深く追及する必要はないかとも思います。この珠光は参禅する以前は茶をたしなんでおり、一休宗純の精神的な教えと茶をミックスさせて「侘茶」というものを開発します。もともと、茶は中国の禅宗寺院を経由して、栄西が日本にもたらしたものです。珠光はその故事を踏まえて、侘茶の目指すところは一休から学んだ禅の境地でもあるとして、「茶禅一味」という概念を唱えます。これによって、茶はただの飲み物から修行道具という意味合いが付与されることになりました。珠光は後に還俗して村田珠光を名乗るようになるわけですが、彼はこの侘茶を自らの弟子にも伝えます。大徳寺は村田珠光の息子をはじめとする彼の弟子衆を取り込んだ結果、「大徳寺の茶づら」と呼びならわされるようになりました。村田珠光が始めた侘茶は、堺の豪商武野紹鴎を経て千利休によって完成を見ます。

 一休宗純は南山城の薪にある酬恩庵で寂しましたが、その死の四年後に薪を含む綴喜郡と、相楽郡、久世郡で一揆が起こります。直接の契機は山城国守護畠山政長とそれと家督を争う畠山義就が応仁の乱が終わっても戦闘を継続しており、南山城を何度目かの戦場にしたことに反発した山城国人が決起して、両軍を撤退させたことにありました。以後八年間、南山城三郡(山城国上三郡とも言います)は守護による支配を離れて三十六人の有力国人による自治に基づく統治が行われました。この三十六人衆が具体的に誰であるのかは判然としないのですが、一休宗純は酬恩庵を拠点に大徳寺の復興を成し遂げました。徒手ではできないはずであり、地元の檀家衆を組織化し寄進を募って資金を捻出したはずです。その地元の檀家衆が山城国一揆三十六人衆を支える立場となっていたのかもしれませんね。

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2015年8月 9日 (日)

中漠:林下編㉑応仁乱中の妙心寺の生存戦略

 応仁の大乱は京を阿鼻叫喚の地獄に叩き落としました。京は東軍と西軍に分かれ、妙心寺は大徳寺とともに烏有に帰してしまいます。妙心寺は細川勝元と密接に結びついておりましたから東軍派と見なしてよいわけですが、この戦乱の最中にあって、妙心寺は奇妙な動きをしております。

 1462年(寛正三年)に大徳寺住持を務めた関山派の雪江宗深が指導した弟子の一人に悟渓宗頓という人物がいました。彼は応仁乱中の1468年(応仁二年)に美濃国に招かれ、瑞龍寺という寺を建てます。問題は彼を招いた人物でした。名を斎藤妙椿といいます。彼は守護代斎藤家の分家で、善恵寺という浄土宗寺に持是院という房を持っていた為彼から始まる血統を斎藤持是院家といいます。守護代斎藤家の実働部隊として軍を率いて主君である土岐成頼に仕えております。この土岐成頼は、山名宗全率いる西軍に属しておりました。

 応仁の乱の緒戦においては、日野富子と足利義尚を奉じた西軍が細川勝元の東軍を押しまくっておりました。土岐成頼は在京して西軍の一角を担い、斎藤妙椿は守護代格(守護代は甥の利藤)として在国し、国内を西軍派でまとめるとともに、近隣の東軍派諸国に派兵して強力な軍事力を見せつけていたのです。この頃の西軍勢力は最も盛んで、東軍において西軍追討大将に任じられた足利義視が、内部対立もあって西軍に走るほどでした。妙心寺は既に焼失しており、再建を図らねばなりませんでした。
 これより先、1415年(応永二十二年)に日峰宗舜は濃尾国境の犬山に瑞泉寺を開山しており、その創建に当たっては弟子である蜂屋玄瑞の活躍が知られております。その蜂屋氏は土岐一族の美濃国人であり、そのつながりか1441年(嘉吉元年)に美濃守護代の斎藤利永が日峰宗舜の弟子である雲谷玄祥を招いて汾陽寺という妙心系派臨済宗寺院を建てておりました。悟渓宗頓が斎藤妙椿に招かれたのも、その流れでありましょう。
 悟渓宗頓は本寺の外護者である細川勝元の敵対勢力から外護されることになったわけですが、応仁の乱そのものはつい直前の文正の政変では細川勝元と山名宗全が結託して伊勢貞親を失脚させていたくらい接近していたので、前々から話が話があったとすれば、断りづらかったのかも知れません。あるいは、本寺が焼亡した以上は新たな外護者を西軍派に求めたのかも知れません。斎藤妙椿は、少なくとも悟渓宗頓がそのような期待をかけてよいだけの器量の持ち主でした。応仁の乱の戦災を避けて関白一条兼良が美濃国に避難したのですが、これを保護したのが斎藤妙椿でした。

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 ただ、その後に東軍は反撃にでて戦線は膠着状態になります。周防の大内政弘率いる西軍がチートで山城国をほぼ押さえてしまったのですが、細川勝元は西軍守護の近隣諸国の有力者や重臣を寝返らせて対抗する手段にでたのです。例えば大内政弘に対しては、一族の大内教幸を寝返らせて反乱を起こさせました。こちらは国許残留勢力の陶氏の活躍で事なきをえましたが、斯波義廉の重臣朝倉孝景は東軍に寝返ってまんまと越前一国を切り取ることに成功しました。これは間接的にではありますが、京の戦線を覆すための効果を発揮しております。反面、それまで京を舞台に行われていた合戦が全国に広がるきっかけにもなりました。
 1473年(文明五年)に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなると、誰のために戦っているのだということになって厭戦気分が蔓延しますが、ここで斎藤妙椿は上手く立ち回りました。
 越前国では東軍方に寝返って越前守護に任じられた朝倉孝景と西軍斯波義廉に仕える越前守護代甲斐敏光が戦っておりました。斎藤妙椿は甲斐敏光の援軍として越前に派兵しておりましたが、厭戦気分を上手く利用して朝倉孝景と甲斐敏光との和睦をとりまとめたのです。甲斐敏光はこれがきっかけになって東軍に投降、東軍方は彼を遠江守護代に封じて決着をさせました。
 但し、妙椿自身は西軍に籍を残したままでした。応仁の大乱を終息させるに当たり、最も問題になるのは足利義視の処遇だということを心得ていたからです。1476年(文明八年)足利義視も敗北を認め、東軍に帰順し、京を去ることを申し出ます。その身柄を預かったのが妙椿の主君の土岐成頼でした。その後も、尾張の織田伊勢守方を助けるために出兵したりして、自派の勢力を保ったままなし崩し的に幕府に自らを売り込むことを成功したのです。彼のこの手練手管が復興後の妙心寺と西軍方の瑞龍寺を再びつなぐことに成功した要因となったとみてよいでしょう。悟渓宗頓はこの後、大徳寺・妙心寺の住持を歴任し、雪江門下の四神足と呼びならわされるようになります。これは彼が両寺院の復興のために少なからぬ貢献をし、その後見の背後には斎藤妙椿による外護があったと考えて差し支えの無いことでしょう。土岐成頼が帰国した頃には斎藤妙椿は押しも押されもしない実質的な美濃国主となっていました。

 斎藤妙椿は1497年(明応六年)に没しました。彼は元々は浄土宗僧であったのですが、宗教的信条はあまり守られておりません。第一に彼は法体のまま北畠氏の娘と結婚して一女をもうけております。浄土真宗と違って浄土宗も禅宗も妻帯は認めていないはずなのですね。そればかりか、1450年(宝徳二年)には法華宗妙覚寺派の世尊院日範を招き、常在寺を建立しております。法華宗と浄土宗は水と油であり、血で血を拭う争いをしていたはずなのですが、あまり頓着していないようです。止めとして挙げられることは、斎藤妙椿は、彼が主君のために建てた禅宗寺院である瑞龍寺に葬られたという事実です。功績に応じた格式を与えられたということかもしれませんが、節操の無さは批判されても仕方ないかもしれません。
 妙椿には後継する男児が居なかったので守護代斎藤利藤の弟の利国が養子に入っておりました。彼も法体となって妙純と名乗っております。彼の妻(俗人の頃、と思いたいです)は応仁の乱の折に美濃に避難してきた一条兼良の娘と伝えられております。妙純は戦国の争乱の中、京極領に侵入したところを土一揆に殺害されるという最期を遂げ、持是院に葬られるのですが、彼の妻は悟渓宗頓に帰依し、買得した仁和寺真乗院の土地を、妙心寺再興のために寄進します。これによって妙心寺派はさらに発展してゆくことになります。
 悟渓宗頓が開いた瑞龍寺の成功例は妙心寺内の拡大のきっかけになりました。守護代クラスをターゲットにすれば、守護の帰依を狙えるばかりか、守護代自身が実質的な国主になり得て、外護の幅を広げ得ることが判ったのです。さらにここからは数多くの高僧を輩出し、東海派という一派を妙心寺内に形成することとなります。

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2015年8月 2日 (日)

中漠:林下編⑳一休の黒歴史

 蓮如と一休宗純との最初の出会いが、親鸞の二百年忌であったのかどうか、正確なところはわかりません。一休にとっての蓮如は、僧でありながら僧ではない愚禿としての親鸞を体現した存在であったのではないかと私は思います。後世に残された逸話がどれだけ事実であるかはわかりませんが、大徳寺の中に居場所を失いつつあった一休宗純にとって気の置けない仲間、同志になりうる存在であったように思われます。但し、時代も蓮如という人格も一休に安息のみを与える存在ではありませんでした。

 一方の蓮如は、傘下の本福寺の法住から堅田が元々延暦寺の支配を受けていた土地であったことや、そこから大徳寺出身の華叟宗曇が粘り強く興禅運動を展開し、瑞祥庵という臨済宗寺院として独立を果たした経緯を聞いていたものと思われます。蓮如がいる大谷本願寺も公には親鸞正統を謳ってはおりましたが、実情は延暦寺傘下の青蓮院の末寺という扱いでしかありませんでした。当然、青蓮院への上納は欠かせませんし、宗旨は天台宗ということになります。延暦寺は天台宗総本山として、末寺の本願寺に様々な要求を突き付けてきます。
 蓮如はこの状況を何とかしたいと常々考えておりました。そこで、蓮如は思いきって青蓮院への上納を止める挙に出てみたのです。堅田のように延暦寺の地盤である大谷を上手く立ち回って本願寺教団の根拠地に変えてゆきたかったわけでしょう。ただ、堅田は水上流通の拠点であり、恐らくはですが瑞祥庵の場合は改宗に当たって上納は止めても、何らかの形で延暦寺に収入の入るような配慮がなされていたと思われます。一方の本願寺のある京都東山大谷は寺社地域であり、土地に何かの産業があるわけではありませんでした。そこが上納を止めると一方的に宣言されたわけですので、延暦寺としても同じ対応を取れなかったのではないでしょうか? あるいは、延暦寺の指導者達との折り合いがつかなかったということがあったのかもしれません。

 1465年(寛正六年)一月から三月にかけて比叡山延暦寺は大谷本願寺を仏敵と認定。僧兵を派遣してこれを破却します。蓮如は親鸞の祖像を携えて堅田、大津、金森の潜伏先を転々とし、延暦寺はこれに討手をかけます。その結果、金森で合戦が起こって戦死者が出てしまうという、抗争事件に発展しました。この事件は一応1467年(文正二年(三月五日に応仁に改元))三月に和議が成立し、蓮如は隠居、その嫡男である順如は廃嫡という沙汰が下りました。大谷本願寺が破却され、蓮如は引退に追い込まれたのです。これには一休宗純も驚いたことでしょうが、世の中はもっと大きく動いておりました。すなわち、応仁の乱の勃発です。

 応仁の乱は1467年(応仁元年、正確には文正二年)一月の御霊合戦で始まります。この時は畠山政長と畠山義就との骨肉の争いでしたが、北山一帯が火の海になりました。改元後の五月に細川勝元が参戦。西陣に陣取る山名宗全(と言うか、山名宗全が西軍の司令部として立てこもった自邸が後に西陣と呼ばれるようになりました)に対抗して足利義視を総大将に戦を仕掛けます。これを上京合戦と言います。さらに、山名宗全の呼びかけに呼応して大内政弘が上洛すると、全面戦争の様相を呈しました。伏見にある三宝院や東山南禅寺が戦場となり、京洛一帯は火の海に包まれました。大乗院旧記の十二月二日の条に「京中・嵯峨・梅津・桂等 西山・東山・北山 一所なりとも、焼け残るところなきものなり、稀有の天魔の所行なり」という描写されているほどでありました。大徳寺や妙心寺もこの時に炎上したと考えてよいでしょう。
 当の一休宗純は南山城にある薪酬恩庵に籠もっておりましたので、直接の難にあうことはなかったようです。むしろ、養叟宗頤の教えを継ぐ春浦宗熈らとはなおも険悪な関係でしたらから、心の中では快哉を叫んだことではありましょう。しかしながら、その戦乱の中で一休宗純が心を痛める事件が起こり居ます。しかも、蓮如がらみの事件です。

 堅田は湖族の地であり、湖上水運を一手に任されておりました。彼らは琵琶湖の物資を送る時に、上乗り料という名目で通行料を取っておりました。堅田は現在の琵琶湖大橋がかかっている場所にあり、対岸と近い場所にあって、ここを通る船に対して臨検を行いやすい地形なのですね。通行の無事を保証する代わりに、金を払えというやり方です。これは一応延暦寺も認めていた特権ではありました。
 ある時、足利義政の命で琵琶湖に荷を運ぶ船が来ました。堅田衆が上乗りを要求すると、船はこれを断ります。怒った堅田衆が積み荷を全部没収するという挙に出たのです。これに激怒したのが足利義政でした。彼は延暦寺に堅田攻撃を命じます。延暦寺は堅田の禅は認めておりましたが、それを見計らった時期に本福寺が浄土真宗に転宗し、いつの間にか蓮如を法主として仰ぐようになっていたのです。その結果、堅田は大津、金森と同じように蓮如を匿ったのでした。
 実際、この時足利義政が束ねているべき幕府は壊れ、京の町は灰燼に帰していました。積み荷が横領されたとしても、当事者を捕まえて処罰すればよいだけの話のはずです。しかしながら、彼の手足となるべき奉公衆達は東西に分かれて破壊の限りを尽くしておりました。延暦寺も蓮如相手に合戦をしでかしたところです。あらゆるところで常軌を逸した行いがなされておりました。比叡山延暦寺は足利義政の命を受け、無慈悲な一撃を堅田に加えました。町の全てが焼かれ、堅田衆は船を仕立てて琵琶湖に浮かぶ沖島という小島に隠れます。当然、一休宗純が若き日を過ごした瑞祥庵も焼かれて灰燼に帰しておりました。蓮如も京や堅田の崩壊に動きづらくなったのか、その年は東国・北国の親鸞遺跡を遊歴しております。その一方で大谷本願寺にあった親鸞祖像は三井寺(園城寺)に頼んで大津の顕証寺に安置してもらいます。廃嫡された順如はそこで三井寺に守られながら畿内の教団を維持していたわけです。

 一休宗純にとってこれら一連の流れは悪夢以外の何物でもありませんでした。師である華叟宗曇の三十三回忌をきっかけに若き日に修行した堅田に目を向け、そこが本福寺を中心に浄土真宗が勢力を伸ばしていることに気づき、ついには自ら親鸞百回忌に出席するとともに、頂相を本寺に返して臨済僧を辞めて純阿弥と名乗ると宣言するまでに至りました。そのような心境の変化は蓮如との出会いがあったためと思われます。蓮如のありようは一休宗純にとって僧でもなく、俗でもない第三の概念としての愚禿としての生き方を見、それが一休宗純の後半生に多大な影響を与えたものと思われます。
 しかし、その蓮如も天台宗からの独立を策して大谷本願寺を破却され、本願寺としての自立への闘争へと巻き込まれることになります。その結果が堅田の崩壊でもありました。政治的な動乱もあって蓮如は京を去りました。それは蓮如自身の運の悪さもあったかもしれませんが、一休宗純にとっては取り残されたような感覚であったのではないかと思われます。

 一休宗純は京に残り、戦後の大徳寺の復興に手を貸すことになります。既に蓮如は京におらず、復興に手を貸すためには念仏宗純阿弥などというお尋ね者一派のような肩書きよりも大徳寺派臨済宗の一休宗純の方が都合がよいということもあったでしょう。かくて、念仏者純阿弥は自戒集の偏句にのみ残り、臨済僧としての生を全うすることになります。  蓮如が京に戻って山科に本願寺を建立するのは一休宗純の死後となります。

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