« 中漠:林下編㉓大徳寺歴代(開山宗峰妙超~七十三世東海宗朝) | トップページ | 中漠:林下編㉕山名家の宗旨報告書Ⅱ(山名時煕~持豊) »

2015年8月30日 (日)

中漠:林下編㉔山名家の宗旨報告書Ⅰ(山名時氏~時義)

 本稿では大徳寺住持の系譜のうち、徹翁義亨系でも関山玄慧系でもない法流についての記事となります。
 山名時氏は新田一族でありながら足利尊氏につき従い、観応の擾乱では佐々木導誉に対する対抗心から直義・南朝についたものの、上手く引き際を見定めて五つの守護国を獲得・維持した一代の英傑でした。
 鎌倉時代の山名家は新田宗家もそうだったように、いわゆる貧乏御家人で今川了俊の難太平記によると、文字も読めなかったと書かれてしまっています。実際にそうであったかどうかは疑問ですが、苦労の末に成り上がった人物としてのコンプレックスもあったのかもしれません。また、野望の潰えた足利直冬を保護したりして、足利直義への義理は欠かさなかった人物でもあります。
 1359年(延文四年)、山名時氏は東福寺円爾の法脈を継ぐ聖一派の南海宝洲を伯耆国に招いて光孝寺を建立します。これはまだ時氏が南朝方に属していた期間のことです。生前足利直義は興禅運動を行っており、その志は捨て置けないと思ったか、彼自身に禅宗への興味はあったのでしょう。穿ってみれば、一門衆筆頭でありながら早々に直冬を見限って幕府に帰参した足利尾張守高経への当てつけも含まれていたかもしれません。

円爾――月船たん(※)海――桃源了勤――南海宝洲
(※王へんに探のつくり)

 ただ、寺は建てたもののこの時点で時氏自身は出家しておりません。直冬という幕府にとっての危険分子を抱え、帰趨の決まった南朝方に属しながら帰参のタイミングを計っている最中、おちおち出家していられなかったという事情もあったでしょう。足利尾張守高経・義将が足利義詮を輔弼する立場になった時、つまり高経が義将の執事就任を渋々認めたタイミングで、山名時氏はすかさず幕府に帰参します。そして間もなく出家して道静となのります。

 山名時氏は子だくさんで五人の男児に恵まれました。帰参に伴い山名時氏が幕府の重鎮となり、子供たちは山名氏の勢力圏の守護として領地を安堵されて山名家を盛り立てます。その一族の中に山名時煕という人物が居ました。時氏の末子である時義の息子です。一門とはいえ末子の息子と言うことで結構自由に動けたようです。そこである僧と出会います。その僧の名は月菴宗光と言います。彼は南浦紹明の法脈を継ぐ大応派の僧侶でした。彼の師匠の師匠に当たる峰翁祖一は大徳寺の宗峰妙超と兄弟弟子であり、宗峰妙超からも教えを受けた間柄です。峰翁祖一は大徳寺の宗峰妙超の弟子たちと同じように、自らの弟子の法号にも宗の文字を受け継がせました。大徳寺はこの後に南朝方について、足利幕府から冷遇された結果、五山の第一から十刹下位にまで落とされてしまい、大徳寺の住持職も宗峰妙超の直弟子である徹翁義亨系が独占することになるのですが、月菴宗光はその大徳寺に近しい法系を継ぐ者でした。山名時煕は月菴宗光に帰依し、但馬国黒川(現兵庫県朝来市)に大明寺を創建します。

 それから間もなくして、山名時氏は亡くなります。一代で五ヶ国太守に成り上がった一族の将来を心配しながらの往生です。光孝寺に弔われました。時氏が幕府に帰参した時から定められていたことですが、彼が支配していた五ヶ国は息子たちに分割されることとなります。一族の統制の多くは山名時氏一人の力量に委ねられていました。それを継いだのは嫡男の師義です。

 ところが時氏の後を継いだ師義はその後わずか五年で亡くなってしまいます。嫡流の男児に義幸がいましたが、彼は一門の当主を務めるには病弱で自らそれを返上したのです。それが一族がもめるもととなります。どういうやり取りがあったのかは判りませんが、時氏の末子の時義に家督がもたらされました。
 この継承については、他の一門衆たちも納得のゆかないものであり、一族の結束に軋みが生じます。時義は師義の次男氏之を自らの養子にし、さらに伯耆国守護を宛がってなだめにかかり、なんとか破たんしないようにもってゆきますが、それがどうにもならなくなるのが、時義の死後でした。山名時義は十三年間惣領を務めあげます。
 時義の後を継いで山名家家督となったのは大方の予想の本家から養子となった氏之ではなく、時義の実子の時煕になりました。しかも、亡くなった時義の為に一寺を設けるのですが、そこの宗旨は時氏が奉じた聖一(円爾)派の系統の寺ではなく、時煕が帰依していた大応(南浦紹明)派の寺、すなわち、月菴宗光に命じて円通寺を建てさせ、そこをもって山名時義の菩提寺としたのでした。

 普通一門衆が嫌うのは、家督が別の宗派を信奉してしまうことです。家督の宗旨は一族の結束を強化する為のものですが、それを勝手に変えてしまうということは、父祖の否定につながり、一門衆としては許容できないものであったのでしょう。とはいえ、一門衆にとって時義はあくまでも陣代、すなわち一時的な代表でしかありません。考えられる経緯として最初に時義を時氏以来の菩提寺に入れないとかを一門衆の誰かが言い出したのかもしれません。勿論それだけが原因と言うわけではないのでしょうが、山名一門内部で紛争が発生します。
 そこに介入してきたのが、室町殿、足利義満でした。すでに足利義満は真の権力者となる行程を踏み出しておりました。その前に大きく横たわっていたのが日本の禄分の一を領する山名一族であったわけです。その山名氏が相続をめぐって対立していることを知り、介入に乗り出します。

 すなわち、師義流の満幸と師義の弟で時義の兄の氏清に命じて時煕と氏之を攻めさせたのでした。時煕と氏之は抵抗しますが、没落します。氏清と彼が奉じる満幸が一門の主流となるわけなのですが、ここで足利義満が「内閣改造」を行います。すなわち、管領斯波義将を罷免して細川頼元(頼基)を管領に据えました。代わった頼元は仙洞御所領の保護を怠ったことを理由に満幸が領していた出雲国を取り上げる挙にでたのです。それ以前にも、幕府は自らの命令で罰を与えた時煕・氏之を赦免しようとしたという噂が流れており、疑心暗鬼に陥った満幸と氏清が蜂起します。これが明徳の乱でした。

 満幸と氏清率いる山名軍は平安京内野で合戦し、敗れます。過去に何度も京を攻撃された経験から学んだ幕府は有力守護の子弟からなる将軍直属軍、すなわち奉公衆を編成しており、見事山名氏清を討ち取ることに成功します。この合戦には幕府方として山名時煕も加わっておりました。そんなこんなで、今度は山名嫡流は没落し、時煕が真の惣領として一門を率いることになりました。但し、十一ヶ国あった守護領は時煕の但馬、氏之の伯耆、氏家の因幡の三国に減らされることになります。
Photo


|

« 中漠:林下編㉓大徳寺歴代(開山宗峰妙超~七十三世東海宗朝) | トップページ | 中漠:林下編㉕山名家の宗旨報告書Ⅱ(山名時煕~持豊) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/62180379

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編㉔山名家の宗旨報告書Ⅰ(山名時氏~時義):

« 中漠:林下編㉓大徳寺歴代(開山宗峰妙超~七十三世東海宗朝) | トップページ | 中漠:林下編㉕山名家の宗旨報告書Ⅱ(山名時煕~持豊) »