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2015年8月 2日 (日)

中漠:林下編⑳一休の黒歴史

 蓮如と一休宗純との最初の出会いが、親鸞の二百年忌であったのかどうか、正確なところはわかりません。一休にとっての蓮如は、僧でありながら僧ではない愚禿としての親鸞を体現した存在であったのではないかと私は思います。後世に残された逸話がどれだけ事実であるかはわかりませんが、大徳寺の中に居場所を失いつつあった一休宗純にとって気の置けない仲間、同志になりうる存在であったように思われます。但し、時代も蓮如という人格も一休に安息のみを与える存在ではありませんでした。

 一方の蓮如は、傘下の本福寺の法住から堅田が元々延暦寺の支配を受けていた土地であったことや、そこから大徳寺出身の華叟宗曇が粘り強く興禅運動を展開し、瑞祥庵という臨済宗寺院として独立を果たした経緯を聞いていたものと思われます。蓮如がいる大谷本願寺も公には親鸞正統を謳ってはおりましたが、実情は延暦寺傘下の青蓮院の末寺という扱いでしかありませんでした。当然、青蓮院への上納は欠かせませんし、宗旨は天台宗ということになります。延暦寺は天台宗総本山として、末寺の本願寺に様々な要求を突き付けてきます。
 蓮如はこの状況を何とかしたいと常々考えておりました。そこで、蓮如は思いきって青蓮院への上納を止める挙に出てみたのです。堅田のように延暦寺の地盤である大谷を上手く立ち回って本願寺教団の根拠地に変えてゆきたかったわけでしょう。ただ、堅田は水上流通の拠点であり、恐らくはですが瑞祥庵の場合は改宗に当たって上納は止めても、何らかの形で延暦寺に収入の入るような配慮がなされていたと思われます。一方の本願寺のある京都東山大谷は寺社地域であり、土地に何かの産業があるわけではありませんでした。そこが上納を止めると一方的に宣言されたわけですので、延暦寺としても同じ対応を取れなかったのではないでしょうか? あるいは、延暦寺の指導者達との折り合いがつかなかったということがあったのかもしれません。

 1465年(寛正六年)一月から三月にかけて比叡山延暦寺は大谷本願寺を仏敵と認定。僧兵を派遣してこれを破却します。蓮如は親鸞の祖像を携えて堅田、大津、金森の潜伏先を転々とし、延暦寺はこれに討手をかけます。その結果、金森で合戦が起こって戦死者が出てしまうという、抗争事件に発展しました。この事件は一応1467年(文正二年(三月五日に応仁に改元))三月に和議が成立し、蓮如は隠居、その嫡男である順如は廃嫡という沙汰が下りました。大谷本願寺が破却され、蓮如は引退に追い込まれたのです。これには一休宗純も驚いたことでしょうが、世の中はもっと大きく動いておりました。すなわち、応仁の乱の勃発です。

 応仁の乱は1467年(応仁元年、正確には文正二年)一月の御霊合戦で始まります。この時は畠山政長と畠山義就との骨肉の争いでしたが、北山一帯が火の海になりました。改元後の五月に細川勝元が参戦。西陣に陣取る山名宗全(と言うか、山名宗全が西軍の司令部として立てこもった自邸が後に西陣と呼ばれるようになりました)に対抗して足利義視を総大将に戦を仕掛けます。これを上京合戦と言います。さらに、山名宗全の呼びかけに呼応して大内政弘が上洛すると、全面戦争の様相を呈しました。伏見にある三宝院や東山南禅寺が戦場となり、京洛一帯は火の海に包まれました。大乗院旧記の十二月二日の条に「京中・嵯峨・梅津・桂等 西山・東山・北山 一所なりとも、焼け残るところなきものなり、稀有の天魔の所行なり」という描写されているほどでありました。大徳寺や妙心寺もこの時に炎上したと考えてよいでしょう。
 当の一休宗純は南山城にある薪酬恩庵に籠もっておりましたので、直接の難にあうことはなかったようです。むしろ、養叟宗頤の教えを継ぐ春浦宗熈らとはなおも険悪な関係でしたらから、心の中では快哉を叫んだことではありましょう。しかしながら、その戦乱の中で一休宗純が心を痛める事件が起こり居ます。しかも、蓮如がらみの事件です。

 堅田は湖族の地であり、湖上水運を一手に任されておりました。彼らは琵琶湖の物資を送る時に、上乗り料という名目で通行料を取っておりました。堅田は現在の琵琶湖大橋がかかっている場所にあり、対岸と近い場所にあって、ここを通る船に対して臨検を行いやすい地形なのですね。通行の無事を保証する代わりに、金を払えというやり方です。これは一応延暦寺も認めていた特権ではありました。
 ある時、足利義政の命で琵琶湖に荷を運ぶ船が来ました。堅田衆が上乗りを要求すると、船はこれを断ります。怒った堅田衆が積み荷を全部没収するという挙に出たのです。これに激怒したのが足利義政でした。彼は延暦寺に堅田攻撃を命じます。延暦寺は堅田の禅は認めておりましたが、それを見計らった時期に本福寺が浄土真宗に転宗し、いつの間にか蓮如を法主として仰ぐようになっていたのです。その結果、堅田は大津、金森と同じように蓮如を匿ったのでした。
 実際、この時足利義政が束ねているべき幕府は壊れ、京の町は灰燼に帰していました。積み荷が横領されたとしても、当事者を捕まえて処罰すればよいだけの話のはずです。しかしながら、彼の手足となるべき奉公衆達は東西に分かれて破壊の限りを尽くしておりました。延暦寺も蓮如相手に合戦をしでかしたところです。あらゆるところで常軌を逸した行いがなされておりました。比叡山延暦寺は足利義政の命を受け、無慈悲な一撃を堅田に加えました。町の全てが焼かれ、堅田衆は船を仕立てて琵琶湖に浮かぶ沖島という小島に隠れます。当然、一休宗純が若き日を過ごした瑞祥庵も焼かれて灰燼に帰しておりました。蓮如も京や堅田の崩壊に動きづらくなったのか、その年は東国・北国の親鸞遺跡を遊歴しております。その一方で大谷本願寺にあった親鸞祖像は三井寺(園城寺)に頼んで大津の顕証寺に安置してもらいます。廃嫡された順如はそこで三井寺に守られながら畿内の教団を維持していたわけです。

 一休宗純にとってこれら一連の流れは悪夢以外の何物でもありませんでした。師である華叟宗曇の三十三回忌をきっかけに若き日に修行した堅田に目を向け、そこが本福寺を中心に浄土真宗が勢力を伸ばしていることに気づき、ついには自ら親鸞百回忌に出席するとともに、頂相を本寺に返して臨済僧を辞めて純阿弥と名乗ると宣言するまでに至りました。そのような心境の変化は蓮如との出会いがあったためと思われます。蓮如のありようは一休宗純にとって僧でもなく、俗でもない第三の概念としての愚禿としての生き方を見、それが一休宗純の後半生に多大な影響を与えたものと思われます。
 しかし、その蓮如も天台宗からの独立を策して大谷本願寺を破却され、本願寺としての自立への闘争へと巻き込まれることになります。その結果が堅田の崩壊でもありました。政治的な動乱もあって蓮如は京を去りました。それは蓮如自身の運の悪さもあったかもしれませんが、一休宗純にとっては取り残されたような感覚であったのではないかと思われます。

 一休宗純は京に残り、戦後の大徳寺の復興に手を貸すことになります。既に蓮如は京におらず、復興に手を貸すためには念仏宗純阿弥などというお尋ね者一派のような肩書きよりも大徳寺派臨済宗の一休宗純の方が都合がよいということもあったでしょう。かくて、念仏者純阿弥は自戒集の偏句にのみ残り、臨済僧としての生を全うすることになります。  蓮如が京に戻って山科に本願寺を建立するのは一休宗純の死後となります。

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