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2015年8月16日 (日)

中漠:林下編㉒一日住持、付けたり侘茶のこと

 応仁の乱の最中、一休宗純は南山城薪の酬恩庵に籠もっておりました。
 京の街は廃墟と化しており、本寺は焼けて灰燼に帰しておりました。私自身一休宗純の生涯は矛盾に満ちて謎だらけでいまだに評価はさだまりません。どうしようもない破戒僧であるにもかかわらず、高徳の聖として敬われているし、文才はあったのでしょうが、狂雲集はエロ描写で満載であり、自分の寺に盲目の美少女を囲ってエロいことをしまくって、それを狂雲集に書いてしまっているし、養叟宗頤を筆頭に、僧侶の堕落ぶりをこき下ろし、特に才幹の有無にかかわらず大徳寺で弟子として受け入れて十分な修行もさせずに印可を与えているところなどは口を極めて罵っているにもかかわらず、自身もそのスキームによっているようで、蜷川親当や村田珠光などに教えを垂れ、彼らが得意としたのは禅よりも、連歌や茶でありその高名に一休宗純も一役買っております。すなわち、彼らとの違いは自覚の有無のみであってやっていることは大差ないように見えるのです。強いて何らかの意味づけを推測するならば、念仏者宣言をした時点で、自身の心の中で僧であることを辞めてしまったのではないでしょうか? 修業時代の一休はきらびやかな儀式にわざと襤褸を着て参列する奇行を行っておりましたが、それはあるべき理想の僧侶としての姿を実践したものでした。応仁の乱後の一休宗純はそうした縛りを自らに課すことを辞めております。それは親鸞の愚禿という考え方にヒントを得て、一休宗純は僧侶の知識をもった俗人として振る舞うことに現れたのでありましょう。彼は姦淫や仏像冒涜等の僧侶としての破戒は行っておりますが、人殺しや盗み等の一般人が冒して罪になるようなことはしでかしておりません。

 そして大徳寺を復興するためには金が必要でした。応仁の乱においては通商が破壊され、金の流れが滞りました。足利義政は当初銀閣寺に銀箔を貼るつもりだったが、予算不足でできなかったという話もあります。応仁の乱の余波は全国に波及し、京にいては生活できないようになっております。金を集めるためには養叟宗頤が打ち立てたスキームが有効でした。1474年(文明六年)には一応京洛における戦闘行為は止んでおり、一休宗純は大徳寺の復興に着手します。堺の商人に呼びかけて出資を募り、大徳寺の再建費用を捻出したのです。勿論、大徳寺の再建を名目とした勧進でありますので、大徳寺の聖としての活動となります。ちなみに、堺のスポンサーたちは一休宗純に批判された養叟宗頤のやり方に基づいて参禅した人々であります。一休はそこのところはスルーしつつも、目的を果たしたわけですね。  その功績が後土御門天皇の耳に入り、二月十六日に一休宗純は大徳寺住持就任の勅命を受けます。ちなみに四月三日、細川政元、山名政豊間で和議が成立しております。
 一休宗純にとってこの大徳寺出世は羞恥の極みでありました。自らが養叟宗頤に向かって口を極めて罵ったのと同じやり方で金を集め、大徳寺を再建した勲功で住持職に就いたとなれば養叟宗頤の弟子たちに何と言われても仕方がなかったでしょう。もっとも、一休宗純は天皇の言葉には実直に従う性格ですので、住持就任そのものは引き受けました。しかし、自ら出世開堂の儀式には出席せず、一日で住持の座を辞します。一休宗純の弟子たちは一休が再建した大徳寺内の塔頭真珠庵を受け持つこととなりました。  一休宗純本人は酬恩庵に引きこもって余生を過ごし、盲目の美少女森侍者に看取られて示寂します。  最期の言葉は「死にとうない」とのことだったと言います。彼を僧と見なせばこの言はおかしいですが、僧のふりをした俗人としてみれば、あり得た末期であったと言えるでしょう。

 一休宗純は大和国の杢市検校の子である珠光を弟子にとり、修行をさせて圜悟克勤(えんごこくごん)という宋代禅僧の墨跡を印可の証として与えております。自戒集には自分は師から印可を貰っていないし、弟子の誰にも印可を与えることはしないと書いているのですが、言っていることとやっていることの乖離の大きい人物であまり深く追及する必要はないかとも思います。この珠光は参禅する以前は茶をたしなんでおり、一休宗純の精神的な教えと茶をミックスさせて「侘茶」というものを開発します。もともと、茶は中国の禅宗寺院を経由して、栄西が日本にもたらしたものです。珠光はその故事を踏まえて、侘茶の目指すところは一休から学んだ禅の境地でもあるとして、「茶禅一味」という概念を唱えます。これによって、茶はただの飲み物から修行道具という意味合いが付与されることになりました。珠光は後に還俗して村田珠光を名乗るようになるわけですが、彼はこの侘茶を自らの弟子にも伝えます。大徳寺は村田珠光の息子をはじめとする彼の弟子衆を取り込んだ結果、「大徳寺の茶づら」と呼びならわされるようになりました。村田珠光が始めた侘茶は、堺の豪商武野紹鴎を経て千利休によって完成を見ます。

 一休宗純は南山城の薪にある酬恩庵で寂しましたが、その死の四年後に薪を含む綴喜郡と、相楽郡、久世郡で一揆が起こります。直接の契機は山城国守護畠山政長とそれと家督を争う畠山義就が応仁の乱が終わっても戦闘を継続しており、南山城を何度目かの戦場にしたことに反発した山城国人が決起して、両軍を撤退させたことにありました。以後八年間、南山城三郡(山城国上三郡とも言います)は守護による支配を離れて三十六人の有力国人による自治に基づく統治が行われました。この三十六人衆が具体的に誰であるのかは判然としないのですが、一休宗純は酬恩庵を拠点に大徳寺の復興を成し遂げました。徒手ではできないはずであり、地元の檀家衆を組織化し寄進を募って資金を捻出したはずです。その地元の檀家衆が山城国一揆三十六人衆を支える立場となっていたのかもしれませんね。

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