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2015年8月 9日 (日)

中漠:林下編㉑応仁乱中の妙心寺の生存戦略

 応仁の大乱は京を阿鼻叫喚の地獄に叩き落としました。京は東軍と西軍に分かれ、妙心寺は大徳寺とともに烏有に帰してしまいます。妙心寺は細川勝元と密接に結びついておりましたから東軍派と見なしてよいわけですが、この戦乱の最中にあって、妙心寺は奇妙な動きをしております。

 1462年(寛正三年)に大徳寺住持を務めた関山派の雪江宗深が指導した弟子の一人に悟渓宗頓という人物がいました。彼は応仁乱中の1468年(応仁二年)に美濃国に招かれ、瑞龍寺という寺を建てます。問題は彼を招いた人物でした。名を斎藤妙椿といいます。彼は守護代斎藤家の分家で、善恵寺という浄土宗寺に持是院という房を持っていた為彼から始まる血統を斎藤持是院家といいます。守護代斎藤家の実働部隊として軍を率いて主君である土岐成頼に仕えております。この土岐成頼は、山名宗全率いる西軍に属しておりました。

 応仁の乱の緒戦においては、日野富子と足利義尚を奉じた西軍が細川勝元の東軍を押しまくっておりました。土岐成頼は在京して西軍の一角を担い、斎藤妙椿は守護代格(守護代は甥の利藤)として在国し、国内を西軍派でまとめるとともに、近隣の東軍派諸国に派兵して強力な軍事力を見せつけていたのです。この頃の西軍勢力は最も盛んで、東軍において西軍追討大将に任じられた足利義視が、内部対立もあって西軍に走るほどでした。妙心寺は既に焼失しており、再建を図らねばなりませんでした。
 これより先、1415年(応永二十二年)に日峰宗舜は濃尾国境の犬山に瑞泉寺を開山しており、その創建に当たっては弟子である蜂屋玄瑞の活躍が知られております。その蜂屋氏は土岐一族の美濃国人であり、そのつながりか1441年(嘉吉元年)に美濃守護代の斎藤利永が日峰宗舜の弟子である雲谷玄祥を招いて汾陽寺という妙心系派臨済宗寺院を建てておりました。悟渓宗頓が斎藤妙椿に招かれたのも、その流れでありましょう。
 悟渓宗頓は本寺の外護者である細川勝元の敵対勢力から外護されることになったわけですが、応仁の乱そのものはつい直前の文正の政変では細川勝元と山名宗全が結託して伊勢貞親を失脚させていたくらい接近していたので、前々から話が話があったとすれば、断りづらかったのかも知れません。あるいは、本寺が焼亡した以上は新たな外護者を西軍派に求めたのかも知れません。斎藤妙椿は、少なくとも悟渓宗頓がそのような期待をかけてよいだけの器量の持ち主でした。応仁の乱の戦災を避けて関白一条兼良が美濃国に避難したのですが、これを保護したのが斎藤妙椿でした。

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 ただ、その後に東軍は反撃にでて戦線は膠着状態になります。周防の大内政弘率いる西軍がチートで山城国をほぼ押さえてしまったのですが、細川勝元は西軍守護の近隣諸国の有力者や重臣を寝返らせて対抗する手段にでたのです。例えば大内政弘に対しては、一族の大内教幸を寝返らせて反乱を起こさせました。こちらは国許残留勢力の陶氏の活躍で事なきをえましたが、斯波義廉の重臣朝倉孝景は東軍に寝返ってまんまと越前一国を切り取ることに成功しました。これは間接的にではありますが、京の戦線を覆すための効果を発揮しております。反面、それまで京を舞台に行われていた合戦が全国に広がるきっかけにもなりました。
 1473年(文明五年)に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなると、誰のために戦っているのだということになって厭戦気分が蔓延しますが、ここで斎藤妙椿は上手く立ち回りました。
 越前国では東軍方に寝返って越前守護に任じられた朝倉孝景と西軍斯波義廉に仕える越前守護代甲斐敏光が戦っておりました。斎藤妙椿は甲斐敏光の援軍として越前に派兵しておりましたが、厭戦気分を上手く利用して朝倉孝景と甲斐敏光との和睦をとりまとめたのです。甲斐敏光はこれがきっかけになって東軍に投降、東軍方は彼を遠江守護代に封じて決着をさせました。
 但し、妙椿自身は西軍に籍を残したままでした。応仁の大乱を終息させるに当たり、最も問題になるのは足利義視の処遇だということを心得ていたからです。1476年(文明八年)足利義視も敗北を認め、東軍に帰順し、京を去ることを申し出ます。その身柄を預かったのが妙椿の主君の土岐成頼でした。その後も、尾張の織田伊勢守方を助けるために出兵したりして、自派の勢力を保ったままなし崩し的に幕府に自らを売り込むことを成功したのです。彼のこの手練手管が復興後の妙心寺と西軍方の瑞龍寺を再びつなぐことに成功した要因となったとみてよいでしょう。悟渓宗頓はこの後、大徳寺・妙心寺の住持を歴任し、雪江門下の四神足と呼びならわされるようになります。これは彼が両寺院の復興のために少なからぬ貢献をし、その後見の背後には斎藤妙椿による外護があったと考えて差し支えの無いことでしょう。土岐成頼が帰国した頃には斎藤妙椿は押しも押されもしない実質的な美濃国主となっていました。

 斎藤妙椿は1497年(明応六年)に没しました。彼は元々は浄土宗僧であったのですが、宗教的信条はあまり守られておりません。第一に彼は法体のまま北畠氏の娘と結婚して一女をもうけております。浄土真宗と違って浄土宗も禅宗も妻帯は認めていないはずなのですね。そればかりか、1450年(宝徳二年)には法華宗妙覚寺派の世尊院日範を招き、常在寺を建立しております。法華宗と浄土宗は水と油であり、血で血を拭う争いをしていたはずなのですが、あまり頓着していないようです。止めとして挙げられることは、斎藤妙椿は、彼が主君のために建てた禅宗寺院である瑞龍寺に葬られたという事実です。功績に応じた格式を与えられたということかもしれませんが、節操の無さは批判されても仕方ないかもしれません。
 妙椿には後継する男児が居なかったので守護代斎藤利藤の弟の利国が養子に入っておりました。彼も法体となって妙純と名乗っております。彼の妻(俗人の頃、と思いたいです)は応仁の乱の折に美濃に避難してきた一条兼良の娘と伝えられております。妙純は戦国の争乱の中、京極領に侵入したところを土一揆に殺害されるという最期を遂げ、持是院に葬られるのですが、彼の妻は悟渓宗頓に帰依し、買得した仁和寺真乗院の土地を、妙心寺再興のために寄進します。これによって妙心寺派はさらに発展してゆくことになります。
 悟渓宗頓が開いた瑞龍寺の成功例は妙心寺内の拡大のきっかけになりました。守護代クラスをターゲットにすれば、守護の帰依を狙えるばかりか、守護代自身が実質的な国主になり得て、外護の幅を広げ得ることが判ったのです。さらにここからは数多くの高僧を輩出し、東海派という一派を妙心寺内に形成することとなります。

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