« 2015年8月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年9月 6日 (日)

中漠:林下編㉕山名家の宗旨報告書Ⅱ(山名時煕~持豊)

 山名宗家が師義流から時義流の時煕に移ったことに伴い、山名家の宗旨も南浦紹明系(大応派)に切り替わります。時煕は月庵宗光への援助を惜しまなかったようです。この時代、禅宗五山の寺院は十方住持の制度がしかれており、優秀な僧侶は五山の諸寺院を禅宗内の法脈に関わりなく渡り歩くことが可能になっておりました。月庵宗光の弟子たちも、山名家の後押しのもとより叢林の格式ある寺院に入り込むことも可能になっていたわけです。山名時煕の嫡男である満時は父親よりも早く、1420年(応永二十七年)に没します。これを悼んだ時煕は五山之上の格式の南禅寺に栖真院という塔頭を建て、そこに自らが帰依する月庵宗光の弟子である大蔭宗松を押し込みます。

 それだけではなく、この前後に月庵宗光の弟子が大徳寺の住持となっております。大徳寺は基本的に二世の徹翁義亨の弟子筋から住持を出し続けておりました。しかし、五山は十方住持制を傘下の寺院に導入させており、京都十刹第九位の大徳寺は外部からの住持受け入れをせざるを得ない状況でした。せめての申し入れで、大徳寺は宗祖と同じ南浦紹明系(大応派)の僧侶を優先して受け入れるようになります。その条件に該当した人物が月庵宗光の弟子である香林宗簡で二十一世住持となります。その後に二十六世住持となった養叟宗頤(一休宗純の兄弟子)は足利義教に願い出て大徳寺を十刹より外してもらい林下となり、以後自分の法流から住持を出すようになります。(それが必ずしもうまくいかなかったことは以前にも書きました)香林宗簡はせっかく得た大徳寺住持というキャリアを自分の法流に活かせなくなったということになります。

 それを支えたのはやはり山名家でした。1435年(永享七年)に山名時煕が亡くなるとこれを月庵宗光が建てた大明寺に葬られます。後を継いだのは持豊、後の宗全です。持豊継承の翌年、香林宗簡は南禅寺の住持となります。大徳寺住持のキャリアと持豊の政治力の結果でありましょう。この後に山名家にとって重要な転機が訪れます。
 それは嘉吉の変でした。足利義教が播磨国守護の赤松満祐に暗殺されたのです。持豊は在国の兵を動員して播磨に出兵、赤松満祐を自刃に追い込みました。この功をもって持豊は赤松が領した守護国を継承し、計八ヶ国守護となります。山名家は最盛期には及ばないものの、勢力を盛り返したわけです。
 嘉吉の変の翌年、山名持豊は出家します。号して宗峰。これは大徳寺開山の宗峰妙超の号そのものでした。養叟宗頤が大徳寺を林下に落とし、住持職を自分の法流で独占したことを不快に思ってのことではないかと想像します。香林宗簡もそれに意を同じくしていたことと思います。山名宗峰は香林宗簡のために南禅寺に新しい塔頭真乗院を建立しました。
 しかし、山名宗峰の大徳寺への執着はそれだけでは済まなかったようです。大徳寺には香林宗簡の他に、住持職に大きな興味を持っていた法流がありました。日峰宗舜率いる妙心寺派(関山派)でした。日峰宗舜は細川勝元を後ろ盾に大徳寺住持を勝ち取るための工作を続けており、養叟宗頤は一休宗純らとともに対応に苦慮しておりました。山名宗峰は自らの養女を細川勝元に娶らせて同盟関係を構築します。同盟そのものはこの時点で権力を掌握していた畠山持国に対抗するためでしたが、この同盟が日峰宗舜ら関山派を勢いづけ、ついに日峰宗舜は勅命を得て大徳寺住持に就任することに成功します。婿に任せて意趣を晴らしたというところでしょうか。
 山名宗峰と細川勝元の同盟は畠山持国をも屈服させて、向かうところ敵なしというところだったのですが、嘉吉の変で滅ぼされた赤松家が幕府に赦免を申し出ていた問題で、播磨を領していた宗峰は強硬に反対します。しかし、それが室町殿足利義政の勘気を蒙り、但馬国に逼塞します。この間、自分自身を見つめ直したのでしょう。さすがに宗峰はないと思ったのか、宗全に号を変更します。逼塞の四年後に赦免されて幕政を復帰、細川勝元と協調しながら幕政をすすめてゆくのですが、ついに破たんして応仁の乱へと至ります。
 山名宗全は応仁の乱中に陣没、それが和平の契機になるわけですが、彼は香林宗簡のいる南禅寺真乗院に葬られることとなります。山名宗全本人は大徳寺に帰依をしたことはなかったものの、南浦紹明、峰翁祖一の法流を尊重してその評価をあげようと下支えをしたといえると思います。

Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年8月 | トップページ | 2016年1月 »