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2016年1月30日 (土)

中漠:明応軍乱編⑤波波伯部五郎宗量Ⅰ

 東大史料編纂所が出している史料集覧の明応八年七月二十日の条に延暦寺焼討事件の記事と出典史料が挙げられております。その内の大乗院雑事記においては、波波伯部が延暦寺攻めの大将であると記されています。本稿においては、延暦寺焼き討ちを行った波波伯部五郎宗量とされる人物とその一族の事績を追いかけてみます。

 鹿苑日録、後法興院政家記には澤蔵軒又は宗益(いずれも赤澤朝経のこと)と波波伯部(五郎)という名前が挙げられていました。大乗院雑事記とあわせたこれら四書すべてに波波伯部の名前がでていますので、延暦寺攻撃の指揮をとったのは波波伯部五郎宗量であることは間違いないでしょう。ちなみに延暦寺側の史料もあさったのですが、こちらには誰が攻撃してきたかの旨は確認できませんでした。また、宮廷女官の業務日報である御湯殿上日記には「ほそかわ」と命令者の名前が記されています。

 波波伯部と書いて「ほうかべ」と読むそうです。丹波国篠山あたりを治める土豪でした。名前の由来となる「波波伯」はハハカとも読み、この木の皮を燃料に牡鹿の骨を焼いて吉凶を占ったという話が古事記にあるそうです。波波伯部はこのハハカの木を朝廷に献上する部民(べのたみ)の集落であったらしい。
 この地を開墾した波波伯部の農民は平安時代後期の1098年(承徳二年)に開墾した農地を荘園として祇園社(現在の八坂神社)に寄進します。荘園となった波波伯部保の荘官の一族の子孫が波波伯部五郎宗量というわけです。
 祇園社は10世紀後半に延暦寺の傘下に入っており洛中を接する鴨川一帯を神域として、延暦寺の最前線として機能するようになり、鎌倉新仏教諸派のことごとくを蹴散らす実働部隊として働きました。荘官としての波波伯部氏もこの威光をフル活用して1221年(承久三年)には地頭の濫妨停止を鎌倉幕府に訴えてこれに勝訴しております。
 
 波波伯部氏は延暦寺が足利尊氏に屈する以前に武家方に与し、足利義満の代になって祇園社が延暦寺から独立するなどの変化があり、波波伯部氏と祇園社の関係も少しずつ変わってきていたのですが、どういう経緯か細川政元の近臣として三名仕えていたことが確認できます。波波伯部兵庫助盛郷、波波伯部五郎元教、波波伯部源次郎の三名ですが、先に述べたとおり、このうちの波波伯部五郎元教が赤澤宗益と一緒に叡山焼き討ちを行った人物です。
 後法興院政家記には「今朝より京兆(細川政元)山門(延暦寺)閉籠衆を拂う、澤蔵軒・波波伯部五郎等を罷り向かわせ、程なく帰洛。閉籠衆は悉く責め殺されると云々」とあります。

 この人物の諱については、冷泉為広が書いた「越後下向日記」の1491年(延徳三年)三月十一日の記述に「元教波五」という記載があります。この延徳三年に何があったかと言いますと、細川政元が奥州下向を策して越後まで向かったのですが、それに冷泉為広と波波伯部五郎が供奉していたのですね。越後下向日記はその時の記録です。波波伯部五郎の越後供奉は蔭涼軒日録同年三月三日条にも、「今午細川右京兆政元公奥州に赴く、…(中略)…、政元公伴衆、上原神六、…(中略)…、波々伯部五郎、…(後略)」と書かれていて裏付けられます。蔭涼軒は鹿苑寺塔頭で僧録補佐の立場で事実上叢林の禅宗僧を統括していた高僧の日記です。かつては応仁の乱直前に失脚した季瓊真蘂などがここの軒主を務めていたことがあります。波五ですが、この時代の日記や書状では、氏と通名・官途名の頭一字を繋いだ略称を一般的に用いていますので、波五=波波伯部五郎であり、その諱は元教であることが判るわけです。

 波波伯部兵庫助盛郷はこの波波伯部五郎元教の父親です。このことは1504年(永正元年)に祇園社の社務執行を司る宝寿院が波波伯部五郎に宛てた書状と、それについて波波伯部兵庫助盛郷が宝寿院に対して送った返書に五郎のことを子と記した文書から明らかになっています。彼は文明十八年から1497年(明応六年)まで細川政元の奏者として仕え、その後は政元の養子である澄之付きの側近となります。1505年二月には伯耆守となった後、同年七月には入道して波波伯部伯耆入道宗寅(そういん)と名乗るようになります。永正の錯乱における彼が果たした役割はわかりませんが、細川政元暗殺後に祭り上げられた澄之が澄元の報復を受けて自害した折、澄之を守ろうとして戦死したとの記事が多聞院日記に記されております。

 波波伯部源次郎については次項に続きます。

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2016年1月23日 (土)

中漠:明応軍乱編④延暦寺焼亡

 本稿では細川政元による延暦寺焼き討ちについて語ってゆきたいと思います。

1499年(明応 八年)七月二十日に起こった事件について、一次史料で見てみます。大乗院雑事記は大和国を支配する興福寺の二大門跡の一つである大乗院門跡の日記です。確認した日記は数種しかありませんが、この日記の記述が一番詳しく書かれています。

大乗院雑事記 明応八年七月二十日
一、昨日早朝、根本中堂が炎上。本堂並びに動座の神輿が焼け失せるなり。閉籠衆は西坊城顕長卿、桃井殿、東蔵坊師弟四人と延暦寺宗徒十人が討たれた。寄せ手の大将は波々伯部と言うらしい。延暦寺宗徒らが討たれたということは、尚、天下、特に京都が滅亡する元となるだろう。細川方はこれを大いに喜んだという。三上の書状には講堂が燃え尽きたとあり、常行堂・法華堂・神輿・三社が炎上したという。

同 明応八年七月二十三日
一、京都より注進があった。二十日辰の刻(午前七時頃)、山門の所々が炎上した。
根本中堂並びに御動座の神輿、大講堂、常行堂、法華堂、延命院、四王堂、大黒堂、御経蔵、鐘楼、政所等なり。以上を悉く燃やし、焼け残った分は戒壇院一宇のみ。
一、座主梶井門跡殿が逐電したという。座主をご辞退とのこと。
一、山門炎上は珍重、お悦び事として、二十二日に能楽師観世の子が公方邸において能を披露した。

 閉籠衆というのは延暦寺が強訴を行う時に神輿を担いで山を下り、洛中に神輿を捨て置いて山上の僧達を退避させた上で根本中堂の中を締め切って籠もる人々のことを言います。いわば強訴の実働部隊であったのですね。西坊城家は朝廷の大学寮を管轄する家柄の公卿で、西坊城顕長は文明十二年に出家隠遁していました。延暦寺の世話になっていたようです。宗徒十人というのはいかにも少ないですが、幹部クラスということで、戦死者はもっと多いのでしょう。

 併せて、続報で詳報を載せています。延暦寺はその寺域にたくさんの坊を抱えていますが、大きく分けて三つのエリアで構成されています。根本中堂のある東塔エリアと西塔エリア、そして横川エリアです。九棟の堂舎が焼けたとありますが、そのメインは根本中堂のある東塔エリアでした。

東塔エリア…根本中堂及び動座神輿、大講堂、延命院、四王堂、大黒堂=政所、鐘楼、御経蔵
西塔エリア…常行堂、法華堂、鐘楼

 横川エリアには被害が及んでいなかった模様です。東塔エリアでただ一つ残されたのが戒壇院という建物で、ここで正式な僧籍を発行する所です。さらに天台座主は逐電した旨、述べられています。この時の天台座主は梶井門跡堯胤法親王と言いました。伏見宮貞成親王(後花園天皇の父、伏見宮家の始祖であり、死後に後崇光院と諡号される)の孫にあたります。こののち、梶井門跡は過去の例を引いて根本中堂を焼いてしまった責任をとり辞職する旨朝廷に申し入れましたが、慰留され延暦寺再建に余生を費やすこととなります。但し、細川政元存命中にはそれは叶わず、根本中堂がなんとか復興できたのが永正十五年ごろとなります。
 細川政元はこれを祝って将軍足利義澄の邸宅で観世流の能楽師を読んで一座を興行させました。

 政元の意を受けて延暦寺を攻撃した大将として大乗院雑記は波波伯部とのみ伝えていますが、もう一人いたことが鹿苑日録と後法興院政家記に記されています。前者は相国寺塔頭鹿苑院僧録の日記であり、後者は時の関白近衛政家の日記です。

鹿苑日録 明応八年七月二十日
早朝、細川陪臣波々伯部と宗益が軍勢を率いて叡山に赴き、山門宗徒宗を根本中堂に攻める。伝えて曰く、中堂はすでに焼亡し、悪徒の首魁である東蔵坊、桃井ら皆斬首となった。実否は知らず。
(中略)
酒を買えと叫ぶ命令を聞く。書記を登らせて飲ませしめよと。つらつら思うに澤蔵の所へ行き、労をねぎらうのであろう。今日は比叡山上で合戦があったのだから。

後法興院政家記
晴れのち曇り、晩に小雨。今朝より京兆が山門の閉籠衆を払うため、澤蔵軒、波々伯部五郎らを向かわせ、程なく帰洛。閉籠衆は悉く責め殺されたという。中堂その他外堂舎九棟が消失、言語道断の次第である。戒壇院のみが残ったという。

 波波伯部には五郎という通名を持っていたことがわかります。東大史料編纂室編の史料総覧には波々伯部宗量と記されている丹波国人の一族の者です。あと、宗益と澤蔵軒は同一人物で、赤澤朝経という人物です。信濃国の国人でしたが、後を子供に譲って出家した余生を京都で過ごすために上洛した人物でした。いずれも細川政元の家臣ですが、二人の経歴については別稿で詳しくやりたいと思います。

 ここまで述べた三書にスタンスの違いがみられるのが興味深いです。鹿苑日録が閉籠衆の東蔵坊、桃井らを悪徒の首魁と完全に政元の立場に立った書きっぷりであるのに対し、大乗院雑事記は聞いた事を淡々と描いた上に天下滅亡の予兆であるとクールに予言(しかもこれは実現します)し、近衛政家は言語道断と非難をしています。この事件は御所の帝の耳にも達し、後柏原天皇は次のような言葉を残して言います。

御湯殿上日記 明応八年七月十九日
あさましきのみおおせごとあり。

 なぜかほかの記録より一日早い七月十九日の出来事となっていますが、概ねの概略を聞いた後に後柏原天皇が発した述懐です。御湯殿上日記は帝に仕える宮廷女官の業務日報で、天皇もまた非難しているのですね。

 戦闘そのものは短期間に集結しています。日記の記述を総合すると、早朝に波波伯部五郎と赤澤朝経率いる軍が出立してその日の内に軍勢の一部が帰洛しています。そして使者を比叡山に登らせて酒をふるまえという命令が出ているということは、幕府軍は京から延暦寺へ物資を安全に運ぶルートをその日の内に確保してしまっていることを意味しています。
 足利尊氏が上洛してから延暦寺に籠もる後醍醐天皇を降伏させるまで五か月かけています。しかも、宮方諸将を打ち取ることができたものの、延暦寺の寺域に侵入することはできず延暦寺の影響力を完全にそぐことができないまま幕府を始めることになってしまったわけです。足利義教も延暦寺成敗に乗り出しましたが、この時は奸計を用いて延暦寺からの講和使節を殺害し、閉籠衆による根本中堂の自焼きを誘ったにとどまり、比叡山に軍を派遣してこれを制圧したわけでもありません。

 これを意味するところを推察するに、戦国時代に入って物流がストップし、山上の大寺院の維持が困難になっていたものと思われます。おそらくは僧侶の大半は山を下りて坂本あたりに住して生活を維持し、山上には閉籠衆と呼ばれるわずかな人数しかいなかったのではないかと思われます。
 幕府軍は八瀬ルートから東塔・西塔エリアに侵入し、坂本からのルートを塞いだ上で根本中堂をはじめとする諸坊を焼き払ったのでしょう。
 後年、信長が延暦寺を攻撃した際にはわざわざ堅田・坂本エリアを包囲し、そこの住人を延暦寺に避難させた上で坂本ルートを登って延暦寺の根本中堂に至りました。その結果僧俗併せて数千の死者が出たと言います。それでも概ね一日で決着がついたのです。
 応仁乱以前には洛中に猛威を振るって法華宗や浄土宗を弾圧した延暦寺もすでに昔日の実力は失っていたと言えるでしょう。

 細川政元のこの思い切った策が功を奏し、足利義材は近江で敗れて大内義興をたよって周防に流れ、尾州畠山尚順も総州畠山義英(義豊の遺児)に敗れて紀伊に逼塞することになります。

 次稿以降では延暦寺攻撃を指揮した波波伯部五郎と赤澤朝経のプロフィールを深彫りしてゆきたいと思います。

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2016年1月16日 (土)

中漠:明応軍乱編③細川政元と新仏教

u 細川政元は妙心寺の庇護者ですが、彼が関与した宗教は妙心寺派臨済宗だけではありませんでした。細川政元は禅・本願寺・法華ら顕密の旧仏教に対抗して出てきた新仏教勢力と積極的に接触するようになりますが、そのきっかけとなったのは明応の政変でした。

 明応の政変は畠山政長を重用する室町殿、足利義材に業を煮やした細川政元がクーデターを起こし、仏門に入っていた堀越公方足利政知の息子清晃を擁立した事件です。クーデターは足利義材が畠山政長を従えて河内国に蟠踞する畠山義就を対峙するための遠征をした留守を狙って行われました。クーデターによって京からの支援を建たれた遠征軍は瓦解。畠山政長は自害を余儀なくされ、足利義材は細川政元が派遣した朝倉貞景の捕縛され、京に連れ戻された後、龍安寺に幽閉されてしまいました。言うまでもなく、龍安寺は細川勝元が義天玄承に作らせた妙心寺派の寺院です。禅将軍を幽閉し、傀儡の将軍を立てて管領独裁体制が完成すると思いきや、二ヶ月後にこの足利義材は龍安寺を脱出して越前に亡命してしまいます。

 この足利義材を野に放ったことで政局の混沌はさらに深まってしまいました。というのは、足利義材が亡命先の越中に開いた御所に越前国の朝倉貞景が参じてしまうのです。これに腹を立てた細川政元は加賀国の本願寺教団寺院に命じて越前国侵入をさせますが、朝倉貞景はこれを撃退します。  これは小競り合いと言ってよいものでしたが、この時本願寺教団が細川政元の意を受けて動いたのにはわけがありました。時の山科本願寺法主の実如は先代蓮如の時に起こった加賀一向一揆事件の収束に細川政元に大きな借りができていたのです。すなわち、一向一揆が加賀国守護富樫政親を殺害して国を乗っ取ったことを黙認してもらったのですね。なので、細川政元が力を貸せと命じられれば、それに抗うことができませんでした。

 細川政元はその一方で近江六角氏を味方につけます。六角家の当主は六角行高と言い、近江国の幕府領横領の咎で足利義尚の討伐を受けた人物です。幸いにして義尚は若死にし、義材も近江討伐を企図していたものの、実現前にクーデターが起こって助かった人物です。細川政元は義材が倒れて政治的なフリーハンドを得ることができたわけですね。六角行高は晴れて近江守護の座を得たばかりではなく、還俗した新室町殿の偏諱を得て高頼と名乗ります。新たな室町殿の名前は義高と言いました。後に義澄と解明するのですが、後に改名することになる理由が政変の時に起こっていたわけです。

 それは後土御門天皇が足利義高の将軍継職を承認しなかったためでした。朝廷的には征夷大将軍は越中に亡命した足利義材であって義高には正統性を認められなかったのですね。朝廷は元々が財政難に苦しんでいたのですが、これをきっかけに細川政元はさらに財政的な圧迫を加え始めたものと思われます。というのは、この頃丁度摂関家の近衛家が洛中法華寺院と関係を深めているのです。後土御門天皇は明応五年に崩御しますが、細川政元の嫌がらせによって死後四十日も以外を禁裏の中におかれたままの状態とされてしまいました。こういう状況では朝廷も足利義高の将軍継職を認めざるを得ませんでした。晴れて足利義高は将軍となって足利義澄を名乗ります。一方、朝廷は細川政元より後柏原天皇の即位の礼が財源不足で認められないという仕打ちを受けております。

 流れ公方こと足利義材は思ったよりも強力でした。明応五年には美濃の斎藤妙純が近江に攻め込みます。斎藤妙純の娘婿は朝倉貞景だったりするのですね。その直前に美濃の内乱に六角高頼がちょっかいをかけていたこともあるのですが、それを打ち破った余勢を駆っての出陣です。無論、足利義材が朝倉貞景を通してそそのかしたのでしょう。しかし、斎藤妙純は運悪く、地元の土一揆に暗殺されてしまいます。その間に義材はさらに延暦寺、根来寺、高野山に檄を飛ばして味方につけることに成功します。1499年(明応八年)一月に尾州畠山尚順は総州畠山義豊を河内で討ち取ります。それに呼応して足利義材が越前から南下を開始します。尾州畠山の躍進には高野山や根来寺の支援が後押ししたと思われますし、越前からの南下にしても、延暦寺の呼応が大きな要因となっていたことでしょう。顕密勢力が義材側についたことで細川政元は仏教側に対策を講じる必要が出てきました。細川政元は最も近接する敵対勢力に武をもって応えました。すなわち、延暦寺を討ったのです。

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2016年1月 9日 (土)

中漠:明応軍乱編②題目の巷

 本稿では戦国期において法華宗が朝廷に影響力を及ぼす過程について少し触れておきたいと思います。
 朝廷の貴族の家格には以下の序列があります。摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家これ以下にも序列はあるのですが、一応殿上に上がる資格を持つ諸家をあげております。
 基本的に法華宗は庶民の宗教であり、一部スカウトされた貴族や武士が信心したりしていますが、殿上貴族にとってはそういう者を信じること自体許されざることではあったのです。

 妙顕寺の第四代住持、月明が継職した前後に本迹一致・勝劣論争というものが法華宗四条門流で起こりました。簡単に言うと法華経の前半部と後半部の価値は同じなのか? 後半の方が大事なのかという論争で、これを機に日隆を中心とする本迹勝劣を支持する一派が妙顕寺から離れ、本門流を名乗って独立します。その日隆派の日慶が四条門流の始祖、日像の京における最初の檀徒である柳酒屋仲興の屋敷内に作られた法華堂を再興する形で妙蓮寺を立ち上げました。応永年間のことです。
 本迹一致・勝劣論争では激しいバトルが繰り広げられて、妙顕寺(この頃は妙本寺を名乗る)は日隆の本応寺を破却するなどしておりました。しかし、時代が変わり洛中法華寺院二十一箇寺は寛正の盟約を結んで教義の小異を捨てて団結することになります。この盟約の中に妙蓮寺も入っておりました。

 新興の妙蓮寺は地位を固める為に、朝廷につかえる貴族を入信させて次期住持にすることで立場の強化を図ります。ターゲットとなったのは羽林家の庭田家でした。ここは崇光天皇の子孫である伏見宮家に嫁を出しております。そして、後光厳系の皇統が絶えた時に伏見宮家から天皇を出すことになりました。これが後花園天皇です。日慶が弟子にしたのは、その後花園天皇の従兄弟に当たる日応と言う人物です。日慶はこの日応を自らの後継に付けて、自らはその後見役となります。そして、1477年(文明九年)に日応は僧正に任じられます。
 この年に応仁の乱は終わっているのですが、庭田家はこの時、土御門天皇や伏見宮家に宮女を送っているので僧正くらいにはなれるかと思ったのですが、中御門宣胤の日記には「ありうべからざること」と記されているのですね。というのは、この時の法華宗にとっての僧正号は朝廷においてはふさわしくないと考えられていたからです。

 この僧正号は妙本寺(妙顕寺)月明が朝廷からもらったことがあったのですが、その僧正号授与に不服を申し立てて比叡山延暦寺が強訴し、寺は破却され月明は僧正号を返上するという事件が起こっていたのでした。この先例を、考えればいかに庭田氏が皇室の外戚として権威を持とうと、延暦寺が黙っていないはずだから、中御門宣胤は「ありうべからざること」と考えたらしい。しかし、実際は延暦寺は動かず、妙蓮寺も妙顕寺が果たせなかった僧正号の取得と維持を図れるようになりました。
 これは単純に庭田氏の政治手腕と言うよりも、応仁の乱における流通破壊によって、朝廷自体が洛中法華に頼らざるを得ない程財政状況がひっ迫したことと、洛中法華も二十一箇寺の団結で叡山の介入を防ぎおおせたことがあったのでしょう。

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 本満寺は六条門流の本国寺から関白近衛道嗣のスポンサードで分かれた寺院です。例によって道嗣の息子である日秀が本国寺にスカウトされていたのですが、近衛道嗣が日秀の為に自分の別荘を提供して1410年(応永十七年)に建立しました。本満寺は六条門流すなわち六老僧の日朗からの支流ですが、なぜか崇敬開山というものを設けてそこに日持をあてています。日持は六老僧に数えられてはいるのですが、祖師像を作ったこと以外はあまり業績が知られていない人物でその弟子筋の門流も持っておりません。わざわざそういった人物を開山に設けるのですから、本国寺とはなにか対立するようなことがあったのかも知れません。
 近衛家の私設道場として機能はしていましたが、なんといっても近衛家は摂関家であって基本的に当主は法華入信というわけにはいきません。それが戦国期に入って一族の子女が臨終の際に本満寺に運ばれて祈祷をうけ、そこで臨終を迎える例が出てきます。本満寺の寺地は洛外にあたりますので、死穢を嫌って運び込まれるわけなのでしょう。それがさらに当主自身がその寺に通って法話を聞いたり、あまつさえ入信したのではという噂までながれて九条尚経の日記に書かれたりします。九条家は近衛家の分家で同じ摂関家の一つです。こちらも実は浄土宗に感化されているのですが、近衛家の日蓮宗への態度が戦国期に入ってゆるくなったことは、この九条尚経の日記にそれまで法華寺院が大宮小路以東に進出してきたことはなかったのが、文明年間以降はどんどん大宮小路を超えて建設ラッシュが起こっております。1494年(明応三年)のことです。

 そうなると黙っていないのが延暦寺なのですが、ここで延暦寺が政争に巻き込まれます。九条尚経が日記を書いた前年、細川政元がクーデターを起こし、足利義材を幽閉して新たに義澄をたてます。義材は政元の監視下から脱出して諸国を流浪しながら反細川闘争の檄を飛ばし続けるのですが、これに延暦寺が呼応してしまうのですね。激怒した細川政元は比叡山に軍を差し向け、延暦寺を蹂躙します。室町から戦国期にかけて延暦寺を焼き討ちした三人の政治家がいて、それぞれ足利義教、細川政元、織田信長の三名ですが、この三人がいずれも暗殺で命をおとしているのはとても興味深いです。ともあれ、細川政元は比叡山上にある根本中堂をはじめとした寺院群をことごとく焼いてしばらくの間延暦寺は再建の為に政治的介入ができなくなってしまいました。
 その間、殿上公家が町衆の経済力を当てにして洛中法華寺院の格をあげにかかります。後柏原天皇は先帝崩御により践祚をしますが、財源不足で即位の礼ができませんでした。税が京に入ってこないこともその理由だったのですが、諸国のうち摂津・丹波の租税を椿阿弥という法華宗徒が仲介して即位の為の税を朝廷に納めました。この功で椿阿弥の信心している本国寺の極官が僧正まで許されることになります。その結果1503年(文亀三年)に本国寺住持日了に僧正号が認められました。この日了は精華家である花山院家出身であるそうです。
 また、摂関家である鷹司家からも政平の息子が出家して妙顕寺に入ります。さらには九条家からも九条政忠の息子日?が立本寺から僧正になるに至ります。
 戦乱の世の中で朝廷は洛中法華衆に依存し、顕密勢力の干渉が配された中、法華宗の教線は確実に朝廷内へと浸透していったわけです。

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2016年1月 2日 (土)

中漠:明応軍乱編①応仁の乱が十一年も続いた理由

 一般に戦争はお金がかかる物です。京における応仁の乱においては、十年間で近国・遠国の守護大名によってのべ数十万の兵力が動員されました。
 それを可能にしたのは何か、ということなのですがそれは緒戦において西軍が地理上の優位を確保できていた為と思われます。応仁の乱の引き金を直接引いたのは畠山義就でした。その直前まで細川勝元の支持のもと、同族の畠山政長が管領および、山城・河内・紀伊の三国の守護をつとめていたのですが、軍を率いて上洛し足利義政に政長の罷免と自らへの役職継承を迫って勝ち取ったところから始まります。彼の背後にいたのは山名宗全でした。山名宗全は事前に足利義政を懐柔し、管領畠山政長、細川勝元の頭越しに決めてしまったのでした。

 細川勝元は丹波、摂津、讃岐守護で一門では阿波守護家の細川成之が阿波国を、細川常有、政久が和泉国の守護をつとめていますが、山城、河内、紀伊を手中にした畠山義就と但馬、播磨、伊賀守護の山名宗全の両方を敵に回すと東西を完全にはさまれた形になります。その外延部には六角、一色、土岐、斯波と山名宗全を支持する勢力が取り巻いており、細川勝元は西軍派に完全包囲された形で応仁の乱を始めることになりました。
 応仁元年には西軍からの援軍が続々と来援するのですが、その戦火の中で細川勝元は洛外に逃げることなく足利義政と朝廷を確保することに成功します。そして伊勢貞親を重用することで当初担いでいた足利義視を離反せしめた上で足利義尚を改めて奉じ、正統性の枠組みを担保してこれを守りきりました。応仁二年中には流動的だった対立の大枠が定まります。
 応仁の乱は戦国時代の幕開けと言われておりましたが、この時点においてはまだ権威の威光は有効でした。
 一方の西軍はこの間に足利義教が討ち取った足利持氏の遺児である古河公方足利成氏と和睦を結んだり、揚げ句には後南朝の皇子を西陣に迎えたりして政治的な失策を重ねておりました。しかし、それでも大内政弘率いる一万余の防州軍は強力で応仁二年には山城国をほぼ制圧し終わっております。
 さらに翌年には細川勝元が守護をしている摂津国の諸城を陥落させ、京への補給路を確保します。これによって大内軍は水路で京まで上るルートを確保できたわけでした。畠山義就はこれを七年後に畠山・大内両軍が撤収するまで占領し続けます。
 細川勝元は確保した正統性を武器に西軍拠点に揺さぶりをかけます。ターゲットになったのが斯波義廉の被官衆、朝倉孝景です。1471年(文明三年)五月大盤振る舞いをして斯波家の陪臣の身でありながら、斯波義廉がついていた越前国守護に封じられます。朝倉孝景はこれに応じて東軍に寝返りました。これをきっかけに長期にわたる戦乱に集中力が切れたのか、その翌々年三月に山名宗全は没し、五月に細川勝元も亡くなりました。勝元の後を継いだのは当時わずか八歳の聡明丸(のちの政元)です。さすがに八歳の童子に政務は任せられないので細川典廐家の政国が代行します。そして、山名宗全の息子の政豊と手打ちを果たします。これによって山名家も東軍方になったわけです。
 残るは大内家と畠山家ですが、山名家寝返り後も三年間摂津・山城に猛威をふるっていました。そこで大内政弘に対しては日野富子を通して本領安堵を約束して帰国してもらいました。総大将であるはずの山名氏が東軍についた為、大内家が戦争をする大義も失われていたのですね。最後までガチで戦っていたのが畠山義就と政長でした。大内撤収後は摂津を確保しておく必要性が薄れ、維持もコストがかかります。河内と山城はつながっていますし、大和国には古市胤栄という協力者もいるので、河内国を主戦場に移すことになりました。これが応仁の乱の戦闘経緯です。

 応仁の乱が十年も続いた理由ですが、まずは緒戦で一方が他方を仕留めきれなかったことが大きいです。西軍は大軍を動員しましたが、天皇や足利殿の身柄を確保することに失敗、細川勝元を都から追い出すこともできませんでした。東軍方は数が劣勢な上に細川勝元が領する摂津国を西軍に奪われていました。よって細川勝元の手勢として使えたのは丹波国人衆と分家の阿波守護家勢でした。中でも細川成之被官の三好之長は一筋縄でいかない人物で、たびたび問題を起こしては主君の手を焼かせ続けていました。
 細川勝元・政国はたびたび摂津奪還を試みますが、畠山義就は摂津国人である茨木氏、吹田氏を味方につけて摂津国の支配体制を整えてしまっていたのですね。
 かつて楠木正成は死の直前に後醍醐帝を叡山に遷御させた上で尊氏を京に入れた後に摂津からの兵糧を抑えれば宮方勝利間違いなしという策を献じました。その策は正成死後に行われましたが、結局失敗に終わっています。肝心の摂津の押さえを行う楠木正成が亡くなっていた為です。西軍勢は摂津国の支配を固めた為に、細川勝元も実力で排除ができず、時間をかけた調略で戦争を勝利に導いたわけでした。

 応仁の乱後、元服をして細川政元を名乗ることになった細川聡明丸は奪い返した摂津国を含めて家臣団を再編しますが、応仁の乱を戦い抜いた丹波衆が摂津国人衆の重用に難色を示すようになりました。これに不満を持った摂津国茨木城主の茨木三郎、吹田城主吹田成枝らが畠山義就に通じて一揆を起こします。細川政元はこれを平らげて摂津国の完全掌握を図ってようやく応仁の乱を乗り切ることができたのでした。

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