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2016年1月 2日 (土)

中漠:明応軍乱編①応仁の乱が十一年も続いた理由

 一般に戦争はお金がかかる物です。京における応仁の乱においては、十年間で近国・遠国の守護大名によってのべ数十万の兵力が動員されました。
 それを可能にしたのは何か、ということなのですがそれは緒戦において西軍が地理上の優位を確保できていた為と思われます。応仁の乱の引き金を直接引いたのは畠山義就でした。その直前まで細川勝元の支持のもと、同族の畠山政長が管領および、山城・河内・紀伊の三国の守護をつとめていたのですが、軍を率いて上洛し足利義政に政長の罷免と自らへの役職継承を迫って勝ち取ったところから始まります。彼の背後にいたのは山名宗全でした。山名宗全は事前に足利義政を懐柔し、管領畠山政長、細川勝元の頭越しに決めてしまったのでした。

 細川勝元は丹波、摂津、讃岐守護で一門では阿波守護家の細川成之が阿波国を、細川常有、政久が和泉国の守護をつとめていますが、山城、河内、紀伊を手中にした畠山義就と但馬、播磨、伊賀守護の山名宗全の両方を敵に回すと東西を完全にはさまれた形になります。その外延部には六角、一色、土岐、斯波と山名宗全を支持する勢力が取り巻いており、細川勝元は西軍派に完全包囲された形で応仁の乱を始めることになりました。
 応仁元年には西軍からの援軍が続々と来援するのですが、その戦火の中で細川勝元は洛外に逃げることなく足利義政と朝廷を確保することに成功します。そして伊勢貞親を重用することで当初担いでいた足利義視を離反せしめた上で足利義尚を改めて奉じ、正統性の枠組みを担保してこれを守りきりました。応仁二年中には流動的だった対立の大枠が定まります。
 応仁の乱は戦国時代の幕開けと言われておりましたが、この時点においてはまだ権威の威光は有効でした。
 一方の西軍はこの間に足利義教が討ち取った足利持氏の遺児である古河公方足利成氏と和睦を結んだり、揚げ句には後南朝の皇子を西陣に迎えたりして政治的な失策を重ねておりました。しかし、それでも大内政弘率いる一万余の防州軍は強力で応仁二年には山城国をほぼ制圧し終わっております。
 さらに翌年には細川勝元が守護をしている摂津国の諸城を陥落させ、京への補給路を確保します。これによって大内軍は水路で京まで上るルートを確保できたわけでした。畠山義就はこれを七年後に畠山・大内両軍が撤収するまで占領し続けます。
 細川勝元は確保した正統性を武器に西軍拠点に揺さぶりをかけます。ターゲットになったのが斯波義廉の被官衆、朝倉孝景です。1471年(文明三年)五月大盤振る舞いをして斯波家の陪臣の身でありながら、斯波義廉がついていた越前国守護に封じられます。朝倉孝景はこれに応じて東軍に寝返りました。これをきっかけに長期にわたる戦乱に集中力が切れたのか、その翌々年三月に山名宗全は没し、五月に細川勝元も亡くなりました。勝元の後を継いだのは当時わずか八歳の聡明丸(のちの政元)です。さすがに八歳の童子に政務は任せられないので細川典廐家の政国が代行します。そして、山名宗全の息子の政豊と手打ちを果たします。これによって山名家も東軍方になったわけです。
 残るは大内家と畠山家ですが、山名家寝返り後も三年間摂津・山城に猛威をふるっていました。そこで大内政弘に対しては日野富子を通して本領安堵を約束して帰国してもらいました。総大将であるはずの山名氏が東軍についた為、大内家が戦争をする大義も失われていたのですね。最後までガチで戦っていたのが畠山義就と政長でした。大内撤収後は摂津を確保しておく必要性が薄れ、維持もコストがかかります。河内と山城はつながっていますし、大和国には古市胤栄という協力者もいるので、河内国を主戦場に移すことになりました。これが応仁の乱の戦闘経緯です。

 応仁の乱が十年も続いた理由ですが、まずは緒戦で一方が他方を仕留めきれなかったことが大きいです。西軍は大軍を動員しましたが、天皇や足利殿の身柄を確保することに失敗、細川勝元を都から追い出すこともできませんでした。東軍方は数が劣勢な上に細川勝元が領する摂津国を西軍に奪われていました。よって細川勝元の手勢として使えたのは丹波国人衆と分家の阿波守護家勢でした。中でも細川成之被官の三好之長は一筋縄でいかない人物で、たびたび問題を起こしては主君の手を焼かせ続けていました。
 細川勝元・政国はたびたび摂津奪還を試みますが、畠山義就は摂津国人である茨木氏、吹田氏を味方につけて摂津国の支配体制を整えてしまっていたのですね。
 かつて楠木正成は死の直前に後醍醐帝を叡山に遷御させた上で尊氏を京に入れた後に摂津からの兵糧を抑えれば宮方勝利間違いなしという策を献じました。その策は正成死後に行われましたが、結局失敗に終わっています。肝心の摂津の押さえを行う楠木正成が亡くなっていた為です。西軍勢は摂津国の支配を固めた為に、細川勝元も実力で排除ができず、時間をかけた調略で戦争を勝利に導いたわけでした。

 応仁の乱後、元服をして細川政元を名乗ることになった細川聡明丸は奪い返した摂津国を含めて家臣団を再編しますが、応仁の乱を戦い抜いた丹波衆が摂津国人衆の重用に難色を示すようになりました。これに不満を持った摂津国茨木城主の茨木三郎、吹田城主吹田成枝らが畠山義就に通じて一揆を起こします。細川政元はこれを平らげて摂津国の完全掌握を図ってようやく応仁の乱を乗り切ることができたのでした。

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