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2016年1月23日 (土)

中漠:明応軍乱編④延暦寺焼亡

 本稿では細川政元による延暦寺焼き討ちについて語ってゆきたいと思います。

1499年(明応 八年)七月二十日に起こった事件について、一次史料で見てみます。大乗院雑事記は大和国を支配する興福寺の二大門跡の一つである大乗院門跡の日記です。確認した日記は数種しかありませんが、この日記の記述が一番詳しく書かれています。

大乗院雑事記 明応八年七月二十日
一、昨日早朝、根本中堂が炎上。本堂並びに動座の神輿が焼け失せるなり。閉籠衆は西坊城顕長卿、桃井殿、東蔵坊師弟四人と延暦寺宗徒十人が討たれた。寄せ手の大将は波々伯部と言うらしい。延暦寺宗徒らが討たれたということは、尚、天下、特に京都が滅亡する元となるだろう。細川方はこれを大いに喜んだという。三上の書状には講堂が燃え尽きたとあり、常行堂・法華堂・神輿・三社が炎上したという。

同 明応八年七月二十三日
一、京都より注進があった。二十日辰の刻(午前七時頃)、山門の所々が炎上した。
根本中堂並びに御動座の神輿、大講堂、常行堂、法華堂、延命院、四王堂、大黒堂、御経蔵、鐘楼、政所等なり。以上を悉く燃やし、焼け残った分は戒壇院一宇のみ。
一、座主梶井門跡殿が逐電したという。座主をご辞退とのこと。
一、山門炎上は珍重、お悦び事として、二十二日に能楽師観世の子が公方邸において能を披露した。

 閉籠衆というのは延暦寺が強訴を行う時に神輿を担いで山を下り、洛中に神輿を捨て置いて山上の僧達を退避させた上で根本中堂の中を締め切って籠もる人々のことを言います。いわば強訴の実働部隊であったのですね。西坊城家は朝廷の大学寮を管轄する家柄の公卿で、西坊城顕長は文明十二年に出家隠遁していました。延暦寺の世話になっていたようです。宗徒十人というのはいかにも少ないですが、幹部クラスということで、戦死者はもっと多いのでしょう。

 併せて、続報で詳報を載せています。延暦寺はその寺域にたくさんの坊を抱えていますが、大きく分けて三つのエリアで構成されています。根本中堂のある東塔エリアと西塔エリア、そして横川エリアです。九棟の堂舎が焼けたとありますが、そのメインは根本中堂のある東塔エリアでした。

東塔エリア…根本中堂及び動座神輿、大講堂、延命院、四王堂、大黒堂=政所、鐘楼、御経蔵
西塔エリア…常行堂、法華堂、鐘楼

 横川エリアには被害が及んでいなかった模様です。東塔エリアでただ一つ残されたのが戒壇院という建物で、ここで正式な僧籍を発行する所です。さらに天台座主は逐電した旨、述べられています。この時の天台座主は梶井門跡堯胤法親王と言いました。伏見宮貞成親王(後花園天皇の父、伏見宮家の始祖であり、死後に後崇光院と諡号される)の孫にあたります。こののち、梶井門跡は過去の例を引いて根本中堂を焼いてしまった責任をとり辞職する旨朝廷に申し入れましたが、慰留され延暦寺再建に余生を費やすこととなります。但し、細川政元存命中にはそれは叶わず、根本中堂がなんとか復興できたのが永正十五年ごろとなります。
 細川政元はこれを祝って将軍足利義澄の邸宅で観世流の能楽師を読んで一座を興行させました。

 政元の意を受けて延暦寺を攻撃した大将として大乗院雑記は波波伯部とのみ伝えていますが、もう一人いたことが鹿苑日録と後法興院政家記に記されています。前者は相国寺塔頭鹿苑院僧録の日記であり、後者は時の関白近衛政家の日記です。

鹿苑日録 明応八年七月二十日
早朝、細川陪臣波々伯部と宗益が軍勢を率いて叡山に赴き、山門宗徒宗を根本中堂に攻める。伝えて曰く、中堂はすでに焼亡し、悪徒の首魁である東蔵坊、桃井ら皆斬首となった。実否は知らず。
(中略)
酒を買えと叫ぶ命令を聞く。書記を登らせて飲ませしめよと。つらつら思うに澤蔵の所へ行き、労をねぎらうのであろう。今日は比叡山上で合戦があったのだから。

後法興院政家記
晴れのち曇り、晩に小雨。今朝より京兆が山門の閉籠衆を払うため、澤蔵軒、波々伯部五郎らを向かわせ、程なく帰洛。閉籠衆は悉く責め殺されたという。中堂その他外堂舎九棟が消失、言語道断の次第である。戒壇院のみが残ったという。

 波波伯部には五郎という通名を持っていたことがわかります。東大史料編纂室編の史料総覧には波々伯部宗量と記されている丹波国人の一族の者です。あと、宗益と澤蔵軒は同一人物で、赤澤朝経という人物です。信濃国の国人でしたが、後を子供に譲って出家した余生を京都で過ごすために上洛した人物でした。いずれも細川政元の家臣ですが、二人の経歴については別稿で詳しくやりたいと思います。

 ここまで述べた三書にスタンスの違いがみられるのが興味深いです。鹿苑日録が閉籠衆の東蔵坊、桃井らを悪徒の首魁と完全に政元の立場に立った書きっぷりであるのに対し、大乗院雑事記は聞いた事を淡々と描いた上に天下滅亡の予兆であるとクールに予言(しかもこれは実現します)し、近衛政家は言語道断と非難をしています。この事件は御所の帝の耳にも達し、後柏原天皇は次のような言葉を残して言います。

御湯殿上日記 明応八年七月十九日
あさましきのみおおせごとあり。

 なぜかほかの記録より一日早い七月十九日の出来事となっていますが、概ねの概略を聞いた後に後柏原天皇が発した述懐です。御湯殿上日記は帝に仕える宮廷女官の業務日報で、天皇もまた非難しているのですね。

 戦闘そのものは短期間に集結しています。日記の記述を総合すると、早朝に波波伯部五郎と赤澤朝経率いる軍が出立してその日の内に軍勢の一部が帰洛しています。そして使者を比叡山に登らせて酒をふるまえという命令が出ているということは、幕府軍は京から延暦寺へ物資を安全に運ぶルートをその日の内に確保してしまっていることを意味しています。
 足利尊氏が上洛してから延暦寺に籠もる後醍醐天皇を降伏させるまで五か月かけています。しかも、宮方諸将を打ち取ることができたものの、延暦寺の寺域に侵入することはできず延暦寺の影響力を完全にそぐことができないまま幕府を始めることになってしまったわけです。足利義教も延暦寺成敗に乗り出しましたが、この時は奸計を用いて延暦寺からの講和使節を殺害し、閉籠衆による根本中堂の自焼きを誘ったにとどまり、比叡山に軍を派遣してこれを制圧したわけでもありません。

 これを意味するところを推察するに、戦国時代に入って物流がストップし、山上の大寺院の維持が困難になっていたものと思われます。おそらくは僧侶の大半は山を下りて坂本あたりに住して生活を維持し、山上には閉籠衆と呼ばれるわずかな人数しかいなかったのではないかと思われます。
 幕府軍は八瀬ルートから東塔・西塔エリアに侵入し、坂本からのルートを塞いだ上で根本中堂をはじめとする諸坊を焼き払ったのでしょう。
 後年、信長が延暦寺を攻撃した際にはわざわざ堅田・坂本エリアを包囲し、そこの住人を延暦寺に避難させた上で坂本ルートを登って延暦寺の根本中堂に至りました。その結果僧俗併せて数千の死者が出たと言います。それでも概ね一日で決着がついたのです。
 応仁乱以前には洛中に猛威を振るって法華宗や浄土宗を弾圧した延暦寺もすでに昔日の実力は失っていたと言えるでしょう。

 細川政元のこの思い切った策が功を奏し、足利義材は近江で敗れて大内義興をたよって周防に流れ、尾州畠山尚順も総州畠山義英(義豊の遺児)に敗れて紀伊に逼塞することになります。

 次稿以降では延暦寺攻撃を指揮した波波伯部五郎と赤澤朝経のプロフィールを深彫りしてゆきたいと思います。

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