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2016年1月 9日 (土)

中漠:明応軍乱編②題目の巷

 本稿では戦国期において法華宗が朝廷に影響力を及ぼす過程について少し触れておきたいと思います。
 朝廷の貴族の家格には以下の序列があります。摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家これ以下にも序列はあるのですが、一応殿上に上がる資格を持つ諸家をあげております。
 基本的に法華宗は庶民の宗教であり、一部スカウトされた貴族や武士が信心したりしていますが、殿上貴族にとってはそういう者を信じること自体許されざることではあったのです。

 妙顕寺の第四代住持、月明が継職した前後に本迹一致・勝劣論争というものが法華宗四条門流で起こりました。簡単に言うと法華経の前半部と後半部の価値は同じなのか? 後半の方が大事なのかという論争で、これを機に日隆を中心とする本迹勝劣を支持する一派が妙顕寺から離れ、本門流を名乗って独立します。その日隆派の日慶が四条門流の始祖、日像の京における最初の檀徒である柳酒屋仲興の屋敷内に作られた法華堂を再興する形で妙蓮寺を立ち上げました。応永年間のことです。
 本迹一致・勝劣論争では激しいバトルが繰り広げられて、妙顕寺(この頃は妙本寺を名乗る)は日隆の本応寺を破却するなどしておりました。しかし、時代が変わり洛中法華寺院二十一箇寺は寛正の盟約を結んで教義の小異を捨てて団結することになります。この盟約の中に妙蓮寺も入っておりました。

 新興の妙蓮寺は地位を固める為に、朝廷につかえる貴族を入信させて次期住持にすることで立場の強化を図ります。ターゲットとなったのは羽林家の庭田家でした。ここは崇光天皇の子孫である伏見宮家に嫁を出しております。そして、後光厳系の皇統が絶えた時に伏見宮家から天皇を出すことになりました。これが後花園天皇です。日慶が弟子にしたのは、その後花園天皇の従兄弟に当たる日応と言う人物です。日慶はこの日応を自らの後継に付けて、自らはその後見役となります。そして、1477年(文明九年)に日応は僧正に任じられます。
 この年に応仁の乱は終わっているのですが、庭田家はこの時、土御門天皇や伏見宮家に宮女を送っているので僧正くらいにはなれるかと思ったのですが、中御門宣胤の日記には「ありうべからざること」と記されているのですね。というのは、この時の法華宗にとっての僧正号は朝廷においてはふさわしくないと考えられていたからです。

 この僧正号は妙本寺(妙顕寺)月明が朝廷からもらったことがあったのですが、その僧正号授与に不服を申し立てて比叡山延暦寺が強訴し、寺は破却され月明は僧正号を返上するという事件が起こっていたのでした。この先例を、考えればいかに庭田氏が皇室の外戚として権威を持とうと、延暦寺が黙っていないはずだから、中御門宣胤は「ありうべからざること」と考えたらしい。しかし、実際は延暦寺は動かず、妙蓮寺も妙顕寺が果たせなかった僧正号の取得と維持を図れるようになりました。
 これは単純に庭田氏の政治手腕と言うよりも、応仁の乱における流通破壊によって、朝廷自体が洛中法華に頼らざるを得ない程財政状況がひっ迫したことと、洛中法華も二十一箇寺の団結で叡山の介入を防ぎおおせたことがあったのでしょう。

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 本満寺は六条門流の本国寺から関白近衛道嗣のスポンサードで分かれた寺院です。例によって道嗣の息子である日秀が本国寺にスカウトされていたのですが、近衛道嗣が日秀の為に自分の別荘を提供して1410年(応永十七年)に建立しました。本満寺は六条門流すなわち六老僧の日朗からの支流ですが、なぜか崇敬開山というものを設けてそこに日持をあてています。日持は六老僧に数えられてはいるのですが、祖師像を作ったこと以外はあまり業績が知られていない人物でその弟子筋の門流も持っておりません。わざわざそういった人物を開山に設けるのですから、本国寺とはなにか対立するようなことがあったのかも知れません。
 近衛家の私設道場として機能はしていましたが、なんといっても近衛家は摂関家であって基本的に当主は法華入信というわけにはいきません。それが戦国期に入って一族の子女が臨終の際に本満寺に運ばれて祈祷をうけ、そこで臨終を迎える例が出てきます。本満寺の寺地は洛外にあたりますので、死穢を嫌って運び込まれるわけなのでしょう。それがさらに当主自身がその寺に通って法話を聞いたり、あまつさえ入信したのではという噂までながれて九条尚経の日記に書かれたりします。九条家は近衛家の分家で同じ摂関家の一つです。こちらも実は浄土宗に感化されているのですが、近衛家の日蓮宗への態度が戦国期に入ってゆるくなったことは、この九条尚経の日記にそれまで法華寺院が大宮小路以東に進出してきたことはなかったのが、文明年間以降はどんどん大宮小路を超えて建設ラッシュが起こっております。1494年(明応三年)のことです。

 そうなると黙っていないのが延暦寺なのですが、ここで延暦寺が政争に巻き込まれます。九条尚経が日記を書いた前年、細川政元がクーデターを起こし、足利義材を幽閉して新たに義澄をたてます。義材は政元の監視下から脱出して諸国を流浪しながら反細川闘争の檄を飛ばし続けるのですが、これに延暦寺が呼応してしまうのですね。激怒した細川政元は比叡山に軍を差し向け、延暦寺を蹂躙します。室町から戦国期にかけて延暦寺を焼き討ちした三人の政治家がいて、それぞれ足利義教、細川政元、織田信長の三名ですが、この三人がいずれも暗殺で命をおとしているのはとても興味深いです。ともあれ、細川政元は比叡山上にある根本中堂をはじめとした寺院群をことごとく焼いてしばらくの間延暦寺は再建の為に政治的介入ができなくなってしまいました。
 その間、殿上公家が町衆の経済力を当てにして洛中法華寺院の格をあげにかかります。後柏原天皇は先帝崩御により践祚をしますが、財源不足で即位の礼ができませんでした。税が京に入ってこないこともその理由だったのですが、諸国のうち摂津・丹波の租税を椿阿弥という法華宗徒が仲介して即位の為の税を朝廷に納めました。この功で椿阿弥の信心している本国寺の極官が僧正まで許されることになります。その結果1503年(文亀三年)に本国寺住持日了に僧正号が認められました。この日了は精華家である花山院家出身であるそうです。
 また、摂関家である鷹司家からも政平の息子が出家して妙顕寺に入ります。さらには九条家からも九条政忠の息子日?が立本寺から僧正になるに至ります。
 戦乱の世の中で朝廷は洛中法華衆に依存し、顕密勢力の干渉が配された中、法華宗の教線は確実に朝廷内へと浸透していったわけです。

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