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2016年2月27日 (土)

中漠:明応軍乱編⑨赤澤朝経のセカンドライフⅡ

 1499年(明応八年)一月三十日、故畠山政長の遺児尚順は河内国で畠山義就の子、義豊を討ち、気勢を上げます。この緊急事態に細川政元は赤澤澤蔵軒宗益に対し反撃を命じていますが、その内容がふるっております。それは、赤澤宗益に河内国十七箇所代官職を与えるということでした。この河内国十七箇所というのは現在の寝屋川市、守口市、門真市あたりにある荘園ですが、細川政元が守護を務める摂津側から向かおうとすれば、淀川を渡らなければならない地形です。この時、河内国十七箇所は細川政元が領していたのですが、畠山尚順は義豊を討った余勢でここの代官を追い払われるという事態になっておりました。
 赤澤澤蔵軒宗益は山城上三郡守護代を拝命していましたが、この時在京で河内国へ入国するルートも持っていません。それ以上に、河内国の畠山義豊派は壊滅しかかっており、それを助けるにしろ、その為の軍路を開拓しなければなりません。先の南山城への遊佐氏侵入と言い、赤澤澤蔵軒宗益にはこのように無茶振りな命令がしばしば出されていました。もっとも、河内に残された畠山義豊派の保護を行う窓口を定めたというくらいの意味合いであるのかもしれません。

 畠山尚順の台頭に呼応して大和国人の筒井順賢が叡山焼き討ちの前年に南山城の稲八妻城を落とします。親尚順派はここから違乱活動を繰り返していました。赤澤澤蔵軒宗益は山城上三郡守護代ではありましたが、十全にその役割を果たせたとは言えませんでした。そもそも彼は地生えの人間ではありませんし、自らの武芸の腕だけを頼りに上京してきた武辺者でありましたので、信頼のできる家臣団も持っていません。どうも、統治は山城国一揆で南山城を治めていた三十六人衆に任せて自分はその上に乗っかる形の体制だったようです。それも畠山尚順派に蹴散らされて三十六人衆らともども洛中に避難していたようです。赤澤宗益が波波伯部元教と延暦寺を焼き討ちしたのはその年の七月でした。しかし、延暦寺は焼けた後も、足利義尹(義材)は近江を南下していました。
 細川政元は延暦寺焼き討ちを反撃の狼煙とし、畠山勢に対抗して淀に薬師寺元一を、宇治に赤澤澤蔵軒宗益を配置。近江の足利義尹には六角高頼を宛てて、反撃を命じました。

 第二の人生を歩む赤澤澤蔵軒にとっては細川政元の無茶振りもまた楽しいことであったようです。1499年(明応八年)九月に赤澤澤蔵軒は以前に古市澄胤を撃退したのと同様にあっという間に山城国から親尚順派勢力を追い出すことに成功します。そして、翌十月には兵を洛中に振り戻して京中の土一揆を平定していたりします。この土一揆は如意ヶ嶽(大文字山)を拠点としていて、当初細川政元の内衆で家老格の安富元家が鎮圧を任されていたのですが、思うように進まないことに業を煮やして赤澤宗益が投入されたのでした。安富元家は細川京兆家の命により東讃岐や近江の守護代を任されているほどの人物です。それが土一揆の鎮圧もままならないのは意外ではあります。その理由なのですが、如意ヶ嶽には如意寺という三井寺の末寺があったりしたのですね。応仁の乱頃に被災して再建もままならなかった状態のようだったのですが、安富元家といえども土一揆勢がそこに逃げ込まれては手出しができなかったものではないかと思われます。対して赤澤澤蔵軒宗益は延暦寺にやったのと同じように徹底的につぶすことも厭いません。まさに『いともたやすく行われるえげつない行為』を平気に行う人物だったわけです。このあたりの価値観は織田信長にも通じるところがあるかもしれません。
 一方近江の足利義尹は坂本まで進出することはできましたが、叡山のバックアップを得られない中で六角高頼と戦って退却を余儀なくされます。代々の天台宗宗徒である六角高頼も延暦寺がこの戦いに参加できなくなっていた分、楽に戦えたものと思われます。赤澤澤蔵軒宗益の中世人離れした宗教観は、細川政元に降りかかった危機を救う方に働いたのでした。

 三十六人衆を南山城に戻して領地を確保した赤澤澤蔵軒宗益はさらに歩みを進め、大和国に侵入します。このあたり実に攻撃的です。そして西大寺、法華寺、菅原寺の三寺院を焼き払ってしまうわけです。
 西大寺は孝謙天皇(称徳天皇)が恵美押勝の乱平定祈願の為に発願建立したという由緒寺院で、かの東大寺と対をなす格式だったのですが、中途で寂れたところを鎌倉時代に真言律宗の叡尊が立て直したものです。 法華寺は法華宗とは関係がなく、光明皇后(藤原光明子)発願の国分尼寺でした。菅原寺は喜光寺ともいい、東大寺勧進に活躍した行基入滅の地に建てられた寺でした。いずれも奈良時代の栄華を象徴する由緒寺院です。
 大和国は恐慌に陥りました。この乱暴を防ぐべき畠山尚順は畠山義豊の遺児である義英に敗れ、足利義尹(義材)も大内氏を頼って周防に逃げていました。興福寺や大和国国人衆はこれに対抗しますが、赤澤軍は手の付けられない勢いでした。興福寺は春日神木を持ち出して神威でこれを折伏させようとしましたが、あえなく失敗します。足利義満に仕えた細川頼之の時代とは隔世の感があります。さらに細かい経緯は別稿に書こうと思いますが、この戦いは1502年(文亀二年)まで続き、興福寺、東大寺はその門を閉めて籠城するしかない状況に追い込まれました。

 山城・大和に大きな軍事勢力を築くに至った赤澤澤蔵軒宗益でしたが、彼自身が地縁を一切持たない外様であること、寺社を焼くことに躊躇を感じない独特な宗教観の持ち主であること、そして何よりここにきて細川政元の行動にブレが生じ始めたことによって、新たな困難に直面することになります。すなわち、身内である細川家家臣団から足を引っ張られることとなったのでした。
 すなわち、1504年(永正元年)謀反の嫌疑を受け、摂津守護代薬師寺元一に襲撃されます。難を逃れて逃亡する中許されるのですが、今度はその薬師寺元一が起こした反逆に連座したかどで捕縛されます。薬師寺は斬首されますが、赤澤は武功と引き換えに許されます。そして元の山城上三郡守護代に復帰したのでした。この間何があったかと言うと、畠山義英が畠山尚順と和睦して、細川家に敵対をはじめたのでした。大和国は赤澤宗益が抑えていた状態だったのですが、謀反嫌疑でドタバタしているあいだに河内国の状況が悪化したのでした。
 1506年(永正三年)一月に赤澤宗益は河内国を縦断して誉田城・高屋城を占領します。畠山義英は大和に逃亡。そしてこれを追って再度大和に侵入したのでした。大和では筒井氏ら大和国人と多武峰で合戦し、これを撃破しました。実にチートな活躍っぷりです。
 状況が安定した為、細川政元は赤澤宗益を連れて自ら丹後国の一色義有と戦う為の遠征にでます。一色家は宗家断絶後、三河知多郡分国守護家出身の義有を迎えこれを当初は細川政元も追認していたのですが、丹後国人のコントロールができずに、政元を敵に回してしまいます。政元自ら戦場に赴くと、一色義有は降伏。政元は後を赤澤宗益に任せて帰京しますが、その直後に暗殺されてしまいます。政元腹心の薬師寺長忠、香西元長らの手によるものでした。
 赤澤宗益は兵をまとめて帰洛しようとしますが、その背後を一色義有配下の石川直経の反撃を受けて戦死します。

 赤澤宗益は細川政元に見出されて、その武名を畿内に轟かせたわけですが、細川政元の死とともにその役割を終えて歴史のはざまに消えてしまいました。その強さも弱さも含めてまさに戦国時代の申し子であったということができると思います。

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2016年2月21日 (日)

中漠:明応軍乱編⑧天台座主尭胤法親王

 細川政元の叡山焼討によって、延暦寺は焼亡したわけですが、その被害者である天台座主とその周辺についても前に書いた事を踏まえつつ、触れてゆきたいと思います。
 延暦寺焼打時の天台座主は堯胤法親王といい、伏見宮家出身で梶井門跡を務めておりました。天台座主は基本的に儀式のときのみ比叡山に入山します。よって焼き討ち時には延暦寺にいませんでした。梶井門跡が住する洛北の大原円融坊(後に三千院と称す)にいたものと思われます。焼き討ちの被害は東塔エリアと西塔エリアが中心であり、横川エリアは坂本門前町と同様被害は及んでいないようです。ただ、興福寺の大乗院雑記事には座主を辞して逐電したという記事があります。辞意表明自体は別の記録にも残っているので確かな事でしょうが、逐電とあるのは恐らくは大原にも累が及ぶ事を警戒して行方をくらませていたのかもしれません。

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 尭胤法親王の天台座主を辞職の理由ですが、それを永享の延暦寺火災の先例に倣ったものとしています。1435年(永享七年)時の室町殿である足利義教は延暦寺と対立し、和議と称して延暦寺の高僧を都に招いた上で殺害するに至ります。延暦寺山徒はこれに抗議して根本中堂を自焼きしたわけですが、時の天台座主、良什僧正はこれの責任をとる形で辞任し、後任には足利義教の弟である梶井門跡義承が就任します。籤で決めた将軍候補の外れ組の一人です。
 先例に従うという理由については妥当なものだったかと思いますが、延暦寺と朝廷はこれに反対して慰留します。焼き討ちのあった翌月、八月四日延暦寺は三院集会を開き、尭胤法親王に責任はないとして、朝廷に再建を申し入れます。この三院とは代々の天台座主を排出する延暦寺傘下の三つの有力寺院である円徳院(梶井門跡のいる円融坊の別称)、青蓮院、妙法院を指します。これを受けて翌年二月には延暦寺大衆の総意として延暦寺再建を求める運動を始めることとなりました。延暦寺としては、再建にあたっては朝廷の支援が不可欠であり、そのパイプ役としては伏見宮家出身の尭胤法親王以上の人材はいないという判断だったと思われます。
 朝廷の方はありていに言えば予算がありませんでした。尭胤法親王が天台座主であれば、その格式を維持する費用は延暦寺が出してくれます。尭胤法親王が天台座主を辞めても皇族としての格式を保つための予算が必要なのですが、時の後柏原天皇の朝廷は自らの即位の礼を挙行する予算も捻出できないほど、財政がひっ迫していたのです。朝臣であり、有職故実を司る官務家の大宮時元は火事の責任をとって天台座主を辞めた前例などはない、という勘文を出してしまいます。勘文とは朝廷に諮問された学者が回答として報告する調査報告書のようなものですが、事実関係としては尭胤法親王の方が正しく、その先例はたった六十四年前に起こったことです。官務家すなわち、学者の家としては不面目なことですが、大宮家は応仁の乱の兵火によって職務で管理していた有職故実を記した書物を焼失・散逸させており、十全な調査能力を発揮できなかったものと思われます。しかし、その回答は朝廷にとっても延暦寺にとっても都合のよいものでした。尭胤法親王の辞意は撤回され、天台座主として延暦寺の再建に努めることとなります。その一方で学問の家としての大宮家はそれから半世紀後に断絶することとなります。

 延暦寺東塔エリアで焼け残ったのは戒壇院のみだったと、大乗院雑事記は述べていますが、ここの建物自体は残ったものの、本尊は略奪にあったか破壊されたようで儀式ができるような状態ではなかったようです。それを尭胤法親王のいとこにあたる後柏原天皇が代替の本尊を撫で物(お祓いをするための道具)と一緒に送りました。尭胤法親王はこれに感謝しつつ、先例に倣った延暦寺再建計画を朝廷に開陳します。先例としたのは永享の火災復興時にプロジェクトを立ち上げて上棟式を行うまでのスキームでした。先例に従えば一年ほどで上棟式はできるスケジュールでした。足利義教も健在でしたが延暦寺再建自体は反対はしなかったようです。逆に延暦寺炎上を噂した町人を問答無用で斬殺し、都人を万人恐怖に陥れたりしていたので、延暦寺炎上自体をなかったことにしたかったようです。故に復興もハイスピードで進められました。しかし、明応の焼き討ちにおいては、結果から見るに再建は進みません。それもそのはず、細川政元は返す刀で赤澤澤蔵軒宗益を使って南都征伐を始め、寺社仏閣をお構いなしに破壊しています。いわば、延暦寺焼き討ちは南都への見せしめにもなっていたわけですね。
 破壊された仏像仏具の新造は細々と行われました。根本法華堂に安置されていた伝教大師像の修復は梶井で行ったり、中堂への仏像を美濃の円信という僧が寄進したりとり進め、朝廷にも仏像一体勧進の勅を出して欲しいという要請を行っています。細川政元の目の黒いうちは復興も思うように進められず、苦衷が伺えます。
 そんな細川政元も1507年(永正四年)に暗殺され、翌年に足利義稙が将軍復帰してようやく、加速できるきざしが現れます。しかし、足利義稙も財政支援は行っていません。後柏原天皇が熱望していた即位の礼に対しても冷淡でしたので、延暦寺復興も押して知るべしでした。ちなみに、後柏原天皇が即位の礼を挙行できたのは、この足利義稙が二度目の都落ちをした後、足利義晴の将軍就任を認めることを条件に細川高国と交渉した結果でした。

 中堂に焼け残った仏典の修復や、足りない経典を諸寺から収集する事業に一段落したのは、細川政元暗殺の翌年、1508年(永正五年)のことでした。そこから延暦寺中堂の再建が本格化します。それがなんとか形になったのが十年後でした。尭胤法親王は晩年を迎えていました。再建なった根本中堂供養の導師を務め、それが恙なく遂行できたことを後柏原天皇に賞賛されると、その年のうちに示寂します。彼の後半生の十九年は地道に寺を再建することに費やされました。この再建した根本中堂も元亀年間に織田信長によってふたたび焼かれることになります。

 最近の研究によると、明応の焼き討ち後の復興は順調ではなく、延暦寺の諸坊の多くは未再建のまま信長の焼き討ちを受けたとのことです。明応の焼き討ちは延暦寺の寺内町である坂本の反対側から攻めることで、数の少ない閉籠衆を討って山上諸坊を灰にすることができました。明応の再建が不十分ながらも寺社としての体裁を整えられたのは、延暦寺のネットワークもさることながら、寺内町である坂本が無傷であったことによります。山上には閉籠衆が残ってこれを管理し、学僧の多くは坂本に降りて戦乱で破壊された流通機構を補う形で生産活動に従事していたものと思われます。
 織田信長は坂本の住人ごと延暦寺を屠ってしまった上に坂本に城を立てて再起不能にまで陥れられます。信長公記は坂本に降りた延暦寺僧侶の世俗化を堕落と述べ、虐殺を正当化してます。しかし、これを堕落というのははなはだ酷であり、貨幣経済登場以前の中世以前の寺社が、自らの信用と権威によって生産・流通活動を請け負う企業家としての側面を持っていたことを見落としています。畢竟、叡山僧侶の堕落とは、近世以降の宗教観に毒された物の見方でしかないでしょう。
 織田信長は延暦寺を坂本と一緒に壊滅させることで延暦寺を生産と流通の保護機能ごと破壊しました。信長が暗殺されて安土城が燃やされ、明智光秀が討たれて坂本城が燃え、羽柴秀吉が織田家の一門衆や徳川家康に対抗するために朝廷と結びついて自らの権威を上げようと心変わりしなければ、再建は始めることすらできなかったのです。細川政元の明応の延暦寺焼き討ちと織田信長による元亀の延暦寺焼き討ちについては、その視座において比較されるべきだと私は考えます。

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2016年2月13日 (土)

中漠:明応軍乱編⑦赤澤朝経のセカンドライフⅠ

 本稿においては、波波伯部五郎と共に叡山焼討を行った澤蔵軒宗益こと赤澤朝経について書きます。
 赤澤朝経は元々信濃国の国人領主で甲斐源氏小笠原家の庶家出身です。信濃国塩崎を根拠地とする赤澤家の当主として家を守り、嫡子を育て上げて教育を施し、これに家督を継がせたのちに上京いたします。細川阿讃守護家の重臣である三好氏も小笠原流だったりし、また朝経以前にも細川家に仕えている赤澤一族の者もいたりするので、その関係で縁故を頼ったとも言われていますが、はっきりしたことは判りません。

 赤澤氏の宗家である小笠原家は弓馬故実という格式高い弓馬の礼法を司っており、朝経はそのうちの弓法のエキスパートでした。豪傑の気風ありと伝えられている人物で、上洛後は細川政元や足利義政に武芸を披露し、弓術指導を行って武者所に属することになったそうです。赤澤朝経の上洛時期ですが、この人物が応仁の乱で活躍した記録はありません。後年の活躍をかんがえますと、この弓法のエキスパートが武者所にいて国を二分する大戦で武名を轟かせないとは考えにくいです。また、足利義尚と直接会見したという話も残っていません。もし1487年(長享元年)に足利義尚が近江国鈎に陣所を敷く以前に赤澤朝経が上洛していたなら、弓法のエキスパートとして足利義尚と会見した等の話があってもよいはずです。ということは、足利義政が生存・在京しているが、義尚が京を出ている時期なのではないでしょうか。足利義政は1490年(延徳二年)に亡くなっております。よって、上洛&武芸披露は1487年(長享元年)から1490年(延徳二年)までの三年の間のどこかだったと考えるのが妥当かな、と思います。

 ここまでの記録は断片的な情報を繋ぎ合わせたもので、赤澤朝経が正式な記録に残るのは、1491年(延徳三年)、足利義材が起こした第二次六角征伐への参加からです。そして、細川政元はその武芸の腕を見込んで自らの内衆に加えたとのことです。細川政元はこの直前に波波伯部五郎らを引き連れて越後に下向しており、足利義材の六角征伐にも反対していたのですが、そんな中で赤澤朝経をスカウトしたのは、義材の傍に置き力をつけさせるのは危険と考えたからかもしれません。ちなみに、この時までに朝経は出家して澤蔵軒宗益と「宗」のつく法号を名乗っております。一休宗純が自著『狂雲集』の中で、「逆行の沙門三尺の剣、禅録を見ずして軍書を読む」と大徳寺が弟子を真面目に修行させないで、軍書ばかりを読んでいる沙門を量産していると非難していましたが、澤蔵軒宗益は伊勢宗瑞以上にその匂いがします。

 その頃、洛外南山城では山城国一揆が勃発しておりました。山城国は元々畠山氏が守護を務める国だったのですが、応仁の乱が終わっても西軍の畠山義就と東軍の畠山政長が主導権争いをしており、これに業を煮やした南山城国人衆が蜂起して両軍を追い出して、三十六人の有力者による合議制の自検断体制を敷いてしまいました。幕府はここに伊勢貞陸を山城国守護に宛がいつつも、この自検断体制を認めましたので、いわゆるコンミューン(共同体)が支配する領域が誕生したのでした。幕府としては、東軍方の畠山政長が義就を抑えられない以上、義就が影響力を持つ河内国と大和国(興福寺坊官たちと義就は同盟関係を結んでおりました)からの緩衝地帯を確保したいという思惑があったのでしょう。南山城と京・洛南の間には当時巨椋池という巨大な池があり、淀と宇治橋を抑えてしまえば河内・大和方面から京に侵入することができません。応仁の乱が終わって摂津国はすでに細川政元が回復していますので、淀・宇治橋の確保のため南山城は中立でもよいので、非西軍勢力に支配してもらいたかったのです。
 ちなみに、南山城三郡の中の綴喜郡薪には一休宗純が開いた報恩庵があります。この時一休宗純はすでに示寂しておりましたが、その人脈は活きているはずです。山城国一揆が成立したのも一休宗純のフリーダムな生き方が影響したのかもしれません。

 山城国一揆の成立後、足利義材と細川政元の仲は険悪になります。義材が将軍になれるなら、何のための応仁の乱だったのか、といえる程の政治的アクロバットでした。畠山義就が1490年(延徳二年)に亡くなったのをチャンスと見た畠山政長は室町殿の河内親征を要請し、義材はこれに応じます。
 細川政元は室町殿の留守中に堀越公方足利政知の息子の清晃を担いでクーデターを敢行します。京周辺の諸侯を抱き込みそれだけではなく、畠山義就を継いだ基家まで抱き込んで足利義材・政長包囲網を作り、これを屈服させました。政長はこれで死ぬわけですが、幕府にとって山城国一揆は畠山義就(この時点では基家)勢力に対する防波堤として機能することを期待されて存続していたのですが、細川政元が畠山基家と組んだことによって、国一揆による支配という変則体制を続ける理由が亡くなりました。名ばかりの山城国守護伊勢貞陸はここに興福寺坊官出身の古市澄胤をヘッドハンティングして守護代に据えます。大和国国人の多くは興福寺坊官出身なのですが、興福寺坊官は決して一枚岩ではなく、応仁の乱の時は古市澄胤の属する親西軍派が他の国人達を抑えていた状況だったのです。古市澄胤の山城侵入で山城国一揆は解体されます。古市起用自体が明応の政変なくしてはあり得ないことで、山城国一揆は明らかにそのあおりを受けたのでした。

 ところが、古市守護代体制の南山城も安定しません。今度は畠山基家家臣の遊佐弥六左衛門が兵を率いて南山城に侵入します。この人物は畠山守護体制の山城国において久世郡郡代を務めておりました。私兵を勝手に動かしたらしいですが、伊勢貞陸にぶんどられた山城守護を回復したいという畠山基家の意向がなかったとは考えにくいです。伊勢貞陸は細川政元に救援を求めます。ただ、古市澄胤の南山城支配に細川政元は難色を示していた手前、自前の精鋭を送り出して畠山基家との関係をぶち壊すのも躊躇われました。そこで起用されたのが、赤澤澤蔵軒宗益でした。
 成功すれば畠山基家との妥協も図れるし、失敗した場合赤澤宗益を細川家とは無関係と突き放すことも可能な立場だったのです。赤澤宗益はこの期待に応えて遊佐弥六の追い出しに成功します。ここで細川政元と畠山基家の間で妥協が成立したのでしょう。遊佐弥六は「私兵を勝手に動かした」ことになりました。遊佐が赤澤に勝っていれば赤澤が私兵を勝手に動かしたことになっていたでしょう。いずれにせよ、遊佐弥六は既成事実作りに失敗したわけです。
 赤澤澤蔵軒宗益はこういう使われ方をする武将でした。

 山城国一揆の戦後処理は一応守護は伊勢貞陸のままですが、北部の五郡(なぜかこれを下五郡と呼ぶ)を細川政元譜代の被官香西元長が、南部の三郡(なぜかこれを上三郡と呼ぶ)を細川家新参被官の赤澤澤蔵軒宗益が務めることになりました。実質的に細川家がのっとった形になります。
 これには理由があって、細川政元に殺された畠山政長の遺児、尚頼が紀伊・河内で蜂起して畠山義豊(基家、正式に河内守護が認められて義豊に改名)を脅かしていたからです。
 さらに悪いことに畠山尚頼の背後には足利義尹(義材のこと)が居ました。まずいことに、足利義尹は越中の神保長誠と越前の朝倉貞景の支援を受けて一勢力を築いていたのです。足利義澄は誰が見ても細川政元の傀儡ですから、細川政元に不満のある勢力は足利義尹に従います。畠山尚頼も、父政長が足利義材=義尹に仕えていたこともあり、義尹の御行書を振りかざして勢力拡大をはかります。そして明応八年一月になってついに宿敵畠山義豊を討ち取ることに成功します。紀伊河内が権力空白地帯になりました。細川政元は赤澤澤蔵軒宗益を河内国十七箇所の代官に任じて河内国の崩壊を防ぐ手立てを討ちます。
 足利義尹の方はこれをチャンスと越前からの南下を始め、比叡山延暦寺に呼応を呼びかけて、延暦寺もこれに従います。細川政元はすぐに延暦寺の焼き討ちを決めます。延暦寺は京の鎮護の象徴ですが、政元にためらいはありませんでした。その実働部隊として選んだのが、波波伯部五郎元教と赤澤澤蔵軒宗益の二人でした。

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2016年2月 6日 (土)

中漠:明応軍乱編⑥波波伯部五郎宗量Ⅱ

 波波伯部源次郎は1503年(文亀三年)頃、細川政元に近習として仕えております。また、1507年(永正四年)に細川政元暗殺の現場に居合わせているのですが、その時に彼は「小姓の童」と応仁後記に書かれておりますので、元服間もない十代の少年武者というところだったのでしょう。細川政元には男色家の評判があり、困ったことにそれが同時代史料でも確認できたりもします。また、政元の暗殺現場が風呂場であり、そこで登場する源次郎のお役目が当時の風呂、すなわちサウナに入る政元に入浴衣を手渡すことだったりするので、源次郎君は伽の相手だったと見なされたりもしている人物です。波波伯部源次郎は細川政元遭難に巻き込まれ、下手人(応仁後記では祐筆戸倉某、細川大心院記では警護役の竹田孫七)に傷を負わされます。
 波波伯部源次郎は傷を負いながらも急変を細川政元の養子の一人である阿波細川家出身の澄元に報告します。この時点で細川澄之は廃嫡されており、政元亡き後の細川家当主になるべき人物は新たに嫡男に建てられた澄元でした。そして、細川澄之を奉じた政元暗殺の首謀者である香西元長、薬師寺長忠らが澄元の館へ攻め込んできました。細川政元遭難について書かれた文書、応仁後記と細川大心院記ではここで源次郎君の運命が分岐します。
 すなわち、応仁後記では傷を押して戦いに参加し、政元暗殺の下手人戸倉某を見事打ち取り、細川澄元の賞賛を得て無事近江に撤退することになっていますが、細川大心院記においては、主君を守り切れなかったことを悔やみながら復讐戦を挑んだ末に、澄之方の中路七郎左衛門に打ち取られてしまいます。細川大心院記によると彼の諱は元継とされ、五郎と同様細川政元の偏諱を受けているようです。先にふれたとおり、澄之を奉じたクーデターは失敗し、澄之に仕えていた波波伯部伯耆入道宗寅(盛郷)も主人と共に戦死いたします。

 波波伯部五郎元教の運命も源次郎の扱いで変わってきます。まず、細川大心院記においては、源次郎の戦死を見た五郎はもはやこれまでと討って出て戦死しますが、応仁後記においては五郎は登場しません。よって、政元暗殺後の騒動に巻き込まれずに生き残っている可能性は残されています。そして後の歴史に興味深い人名が二ヶ所出てきます。それは「波波伯部兵庫助」という人名です。この名を冠した人物が大永年間(1521年から1527年)に丹波国篠山に東山城という城郭を立てております。そして、1531年(享禄四年)に起こった大物崩れにおいて細川高国方武将として戦死した人物も同じ名乗りを上げておりました。
 先に述べたとおりこれは波波伯部盛郷の名乗りでした。生前出家して伯耆入道宗寅と名乗った後に戦死しておりますので、当人であるとは考えられません。となると息子である元教が父親の官途名を継いだ可能性も考えられます。
 但し、東山城を築城した兵庫助には光興という諱が伝えられております。大物崩れで戦死した人物も諱は伝えられておらず、いずれも五郎元教と同一人物かどうかは判断がつきません。波波伯部一族の縁者が五郎元教の死を知った上で盛郷の名跡を継いだとも考えられるのですね。併せて東山城を築城した人物と大物崩れで戦死した人物が同一人物であるかどうかの確証も今のところ取れておりません。

 東大史料編纂所の史料集覧では延暦寺を焼き討ちした波波伯部五郎のことを波波伯部宗量と呼び、ウィキペディアにおいては「ほうかべむねかず」と訓じていますが、その出典を探し出すことができませんでした。少なくとも日記資料などで波波伯部宗量等と諱で呼称したものは見つけられません。よって、これは入道した折につけられる戒名ではないかと思われます。但し、波波伯部五郎元教が永正の錯乱か大物崩れのいずれで戦死したとしても、その名前は五郎であり、兵庫助であったりして出家入道した形跡はありません。これは死後につけられた死後戒名だったのでしょう。

 父親の盛郷は宗寅という戒名をもち、宗量と「宗」という共通の文字をもっています。叡山焼き討ちに同道した赤澤朝経にも澤蔵軒宗益という「宗」のつく法号がついています。これはすなわち、彼らの宗旨は大徳寺・妙心寺派の臨済宗であったと考えられます。大徳寺・妙心寺派にとって戒名の「宗」の文字は宗峰妙超から取られた両派のアイデンティティ・コードと言えるもので、その法流の僧につけられるものでした。北条早雲こと、伊勢宗瑞の戒名は大徳寺から貰ったものであるとの説を小和田哲男氏が唱えられておりますが、この時代の妙心寺は大徳寺との一体化工作を着々と押し進めていた時代であり、その妙心寺のスポンサーとして協力に後押しをしていたのが細川勝元・政元親子でした。よって、「宗量」とはWikiPediaが訓じた「むねかず」ではなく「そうりょう」という読みであり、細川政元側近の波波伯部盛郷(宗寅)、赤澤朝経(宗益)に与えられた大徳寺・妙心寺系と見られる法号と同様のものである可能性は決して低くはないと考えております。

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