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2016年2月21日 (日)

中漠:明応軍乱編⑧天台座主尭胤法親王

 細川政元の叡山焼討によって、延暦寺は焼亡したわけですが、その被害者である天台座主とその周辺についても前に書いた事を踏まえつつ、触れてゆきたいと思います。
 延暦寺焼打時の天台座主は堯胤法親王といい、伏見宮家出身で梶井門跡を務めておりました。天台座主は基本的に儀式のときのみ比叡山に入山します。よって焼き討ち時には延暦寺にいませんでした。梶井門跡が住する洛北の大原円融坊(後に三千院と称す)にいたものと思われます。焼き討ちの被害は東塔エリアと西塔エリアが中心であり、横川エリアは坂本門前町と同様被害は及んでいないようです。ただ、興福寺の大乗院雑記事には座主を辞して逐電したという記事があります。辞意表明自体は別の記録にも残っているので確かな事でしょうが、逐電とあるのは恐らくは大原にも累が及ぶ事を警戒して行方をくらませていたのかもしれません。

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 尭胤法親王の天台座主を辞職の理由ですが、それを永享の延暦寺火災の先例に倣ったものとしています。1435年(永享七年)時の室町殿である足利義教は延暦寺と対立し、和議と称して延暦寺の高僧を都に招いた上で殺害するに至ります。延暦寺山徒はこれに抗議して根本中堂を自焼きしたわけですが、時の天台座主、良什僧正はこれの責任をとる形で辞任し、後任には足利義教の弟である梶井門跡義承が就任します。籤で決めた将軍候補の外れ組の一人です。
 先例に従うという理由については妥当なものだったかと思いますが、延暦寺と朝廷はこれに反対して慰留します。焼き討ちのあった翌月、八月四日延暦寺は三院集会を開き、尭胤法親王に責任はないとして、朝廷に再建を申し入れます。この三院とは代々の天台座主を排出する延暦寺傘下の三つの有力寺院である円徳院(梶井門跡のいる円融坊の別称)、青蓮院、妙法院を指します。これを受けて翌年二月には延暦寺大衆の総意として延暦寺再建を求める運動を始めることとなりました。延暦寺としては、再建にあたっては朝廷の支援が不可欠であり、そのパイプ役としては伏見宮家出身の尭胤法親王以上の人材はいないという判断だったと思われます。
 朝廷の方はありていに言えば予算がありませんでした。尭胤法親王が天台座主であれば、その格式を維持する費用は延暦寺が出してくれます。尭胤法親王が天台座主を辞めても皇族としての格式を保つための予算が必要なのですが、時の後柏原天皇の朝廷は自らの即位の礼を挙行する予算も捻出できないほど、財政がひっ迫していたのです。朝臣であり、有職故実を司る官務家の大宮時元は火事の責任をとって天台座主を辞めた前例などはない、という勘文を出してしまいます。勘文とは朝廷に諮問された学者が回答として報告する調査報告書のようなものですが、事実関係としては尭胤法親王の方が正しく、その先例はたった六十四年前に起こったことです。官務家すなわち、学者の家としては不面目なことですが、大宮家は応仁の乱の兵火によって職務で管理していた有職故実を記した書物を焼失・散逸させており、十全な調査能力を発揮できなかったものと思われます。しかし、その回答は朝廷にとっても延暦寺にとっても都合のよいものでした。尭胤法親王の辞意は撤回され、天台座主として延暦寺の再建に努めることとなります。その一方で学問の家としての大宮家はそれから半世紀後に断絶することとなります。

 延暦寺東塔エリアで焼け残ったのは戒壇院のみだったと、大乗院雑事記は述べていますが、ここの建物自体は残ったものの、本尊は略奪にあったか破壊されたようで儀式ができるような状態ではなかったようです。それを尭胤法親王のいとこにあたる後柏原天皇が代替の本尊を撫で物(お祓いをするための道具)と一緒に送りました。尭胤法親王はこれに感謝しつつ、先例に倣った延暦寺再建計画を朝廷に開陳します。先例としたのは永享の火災復興時にプロジェクトを立ち上げて上棟式を行うまでのスキームでした。先例に従えば一年ほどで上棟式はできるスケジュールでした。足利義教も健在でしたが延暦寺再建自体は反対はしなかったようです。逆に延暦寺炎上を噂した町人を問答無用で斬殺し、都人を万人恐怖に陥れたりしていたので、延暦寺炎上自体をなかったことにしたかったようです。故に復興もハイスピードで進められました。しかし、明応の焼き討ちにおいては、結果から見るに再建は進みません。それもそのはず、細川政元は返す刀で赤澤澤蔵軒宗益を使って南都征伐を始め、寺社仏閣をお構いなしに破壊しています。いわば、延暦寺焼き討ちは南都への見せしめにもなっていたわけですね。
 破壊された仏像仏具の新造は細々と行われました。根本法華堂に安置されていた伝教大師像の修復は梶井で行ったり、中堂への仏像を美濃の円信という僧が寄進したりとり進め、朝廷にも仏像一体勧進の勅を出して欲しいという要請を行っています。細川政元の目の黒いうちは復興も思うように進められず、苦衷が伺えます。
 そんな細川政元も1507年(永正四年)に暗殺され、翌年に足利義稙が将軍復帰してようやく、加速できるきざしが現れます。しかし、足利義稙も財政支援は行っていません。後柏原天皇が熱望していた即位の礼に対しても冷淡でしたので、延暦寺復興も押して知るべしでした。ちなみに、後柏原天皇が即位の礼を挙行できたのは、この足利義稙が二度目の都落ちをした後、足利義晴の将軍就任を認めることを条件に細川高国と交渉した結果でした。

 中堂に焼け残った仏典の修復や、足りない経典を諸寺から収集する事業に一段落したのは、細川政元暗殺の翌年、1508年(永正五年)のことでした。そこから延暦寺中堂の再建が本格化します。それがなんとか形になったのが十年後でした。尭胤法親王は晩年を迎えていました。再建なった根本中堂供養の導師を務め、それが恙なく遂行できたことを後柏原天皇に賞賛されると、その年のうちに示寂します。彼の後半生の十九年は地道に寺を再建することに費やされました。この再建した根本中堂も元亀年間に織田信長によってふたたび焼かれることになります。

 最近の研究によると、明応の焼き討ち後の復興は順調ではなく、延暦寺の諸坊の多くは未再建のまま信長の焼き討ちを受けたとのことです。明応の焼き討ちは延暦寺の寺内町である坂本の反対側から攻めることで、数の少ない閉籠衆を討って山上諸坊を灰にすることができました。明応の再建が不十分ながらも寺社としての体裁を整えられたのは、延暦寺のネットワークもさることながら、寺内町である坂本が無傷であったことによります。山上には閉籠衆が残ってこれを管理し、学僧の多くは坂本に降りて戦乱で破壊された流通機構を補う形で生産活動に従事していたものと思われます。
 織田信長は坂本の住人ごと延暦寺を屠ってしまった上に坂本に城を立てて再起不能にまで陥れられます。信長公記は坂本に降りた延暦寺僧侶の世俗化を堕落と述べ、虐殺を正当化してます。しかし、これを堕落というのははなはだ酷であり、貨幣経済登場以前の中世以前の寺社が、自らの信用と権威によって生産・流通活動を請け負う企業家としての側面を持っていたことを見落としています。畢竟、叡山僧侶の堕落とは、近世以降の宗教観に毒された物の見方でしかないでしょう。
 織田信長は延暦寺を坂本と一緒に壊滅させることで延暦寺を生産と流通の保護機能ごと破壊しました。信長が暗殺されて安土城が燃やされ、明智光秀が討たれて坂本城が燃え、羽柴秀吉が織田家の一門衆や徳川家康に対抗するために朝廷と結びついて自らの権威を上げようと心変わりしなければ、再建は始めることすらできなかったのです。細川政元の明応の延暦寺焼き討ちと織田信長による元亀の延暦寺焼き討ちについては、その視座において比較されるべきだと私は考えます。

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