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2016年2月 6日 (土)

中漠:明応軍乱編⑥波波伯部五郎宗量Ⅱ

 波波伯部源次郎は1503年(文亀三年)頃、細川政元に近習として仕えております。また、1507年(永正四年)に細川政元暗殺の現場に居合わせているのですが、その時に彼は「小姓の童」と応仁後記に書かれておりますので、元服間もない十代の少年武者というところだったのでしょう。細川政元には男色家の評判があり、困ったことにそれが同時代史料でも確認できたりもします。また、政元の暗殺現場が風呂場であり、そこで登場する源次郎のお役目が当時の風呂、すなわちサウナに入る政元に入浴衣を手渡すことだったりするので、源次郎君は伽の相手だったと見なされたりもしている人物です。波波伯部源次郎は細川政元遭難に巻き込まれ、下手人(応仁後記では祐筆戸倉某、細川大心院記では警護役の竹田孫七)に傷を負わされます。
 波波伯部源次郎は傷を負いながらも急変を細川政元の養子の一人である阿波細川家出身の澄元に報告します。この時点で細川澄之は廃嫡されており、政元亡き後の細川家当主になるべき人物は新たに嫡男に建てられた澄元でした。そして、細川澄之を奉じた政元暗殺の首謀者である香西元長、薬師寺長忠らが澄元の館へ攻め込んできました。細川政元遭難について書かれた文書、応仁後記と細川大心院記ではここで源次郎君の運命が分岐します。
 すなわち、応仁後記では傷を押して戦いに参加し、政元暗殺の下手人戸倉某を見事打ち取り、細川澄元の賞賛を得て無事近江に撤退することになっていますが、細川大心院記においては、主君を守り切れなかったことを悔やみながら復讐戦を挑んだ末に、澄之方の中路七郎左衛門に打ち取られてしまいます。細川大心院記によると彼の諱は元継とされ、五郎と同様細川政元の偏諱を受けているようです。先にふれたとおり、澄之を奉じたクーデターは失敗し、澄之に仕えていた波波伯部伯耆入道宗寅(盛郷)も主人と共に戦死いたします。

 波波伯部五郎元教の運命も源次郎の扱いで変わってきます。まず、細川大心院記においては、源次郎の戦死を見た五郎はもはやこれまでと討って出て戦死しますが、応仁後記においては五郎は登場しません。よって、政元暗殺後の騒動に巻き込まれずに生き残っている可能性は残されています。そして後の歴史に興味深い人名が二ヶ所出てきます。それは「波波伯部兵庫助」という人名です。この名を冠した人物が大永年間(1521年から1527年)に丹波国篠山に東山城という城郭を立てております。そして、1531年(享禄四年)に起こった大物崩れにおいて細川高国方武将として戦死した人物も同じ名乗りを上げておりました。
 先に述べたとおりこれは波波伯部盛郷の名乗りでした。生前出家して伯耆入道宗寅と名乗った後に戦死しておりますので、当人であるとは考えられません。となると息子である元教が父親の官途名を継いだ可能性も考えられます。
 但し、東山城を築城した兵庫助には光興という諱が伝えられております。大物崩れで戦死した人物も諱は伝えられておらず、いずれも五郎元教と同一人物かどうかは判断がつきません。波波伯部一族の縁者が五郎元教の死を知った上で盛郷の名跡を継いだとも考えられるのですね。併せて東山城を築城した人物と大物崩れで戦死した人物が同一人物であるかどうかの確証も今のところ取れておりません。

 東大史料編纂所の史料集覧では延暦寺を焼き討ちした波波伯部五郎のことを波波伯部宗量と呼び、ウィキペディアにおいては「ほうかべむねかず」と訓じていますが、その出典を探し出すことができませんでした。少なくとも日記資料などで波波伯部宗量等と諱で呼称したものは見つけられません。よって、これは入道した折につけられる戒名ではないかと思われます。但し、波波伯部五郎元教が永正の錯乱か大物崩れのいずれで戦死したとしても、その名前は五郎であり、兵庫助であったりして出家入道した形跡はありません。これは死後につけられた死後戒名だったのでしょう。

 父親の盛郷は宗寅という戒名をもち、宗量と「宗」という共通の文字をもっています。叡山焼き討ちに同道した赤澤朝経にも澤蔵軒宗益という「宗」のつく法号がついています。これはすなわち、彼らの宗旨は大徳寺・妙心寺派の臨済宗であったと考えられます。大徳寺・妙心寺派にとって戒名の「宗」の文字は宗峰妙超から取られた両派のアイデンティティ・コードと言えるもので、その法流の僧につけられるものでした。北条早雲こと、伊勢宗瑞の戒名は大徳寺から貰ったものであるとの説を小和田哲男氏が唱えられておりますが、この時代の妙心寺は大徳寺との一体化工作を着々と押し進めていた時代であり、その妙心寺のスポンサーとして協力に後押しをしていたのが細川勝元・政元親子でした。よって、「宗量」とはWikiPediaが訓じた「むねかず」ではなく「そうりょう」という読みであり、細川政元側近の波波伯部盛郷(宗寅)、赤澤朝経(宗益)に与えられた大徳寺・妙心寺系と見られる法号と同様のものである可能性は決して低くはないと考えております。

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