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2016年2月13日 (土)

中漠:明応軍乱編⑦赤澤朝経のセカンドライフⅠ

 本稿においては、波波伯部五郎と共に叡山焼討を行った澤蔵軒宗益こと赤澤朝経について書きます。
 赤澤朝経は元々信濃国の国人領主で甲斐源氏小笠原家の庶家出身です。信濃国塩崎を根拠地とする赤澤家の当主として家を守り、嫡子を育て上げて教育を施し、これに家督を継がせたのちに上京いたします。細川阿讃守護家の重臣である三好氏も小笠原流だったりし、また朝経以前にも細川家に仕えている赤澤一族の者もいたりするので、その関係で縁故を頼ったとも言われていますが、はっきりしたことは判りません。

 赤澤氏の宗家である小笠原家は弓馬故実という格式高い弓馬の礼法を司っており、朝経はそのうちの弓法のエキスパートでした。豪傑の気風ありと伝えられている人物で、上洛後は細川政元や足利義政に武芸を披露し、弓術指導を行って武者所に属することになったそうです。赤澤朝経の上洛時期ですが、この人物が応仁の乱で活躍した記録はありません。後年の活躍をかんがえますと、この弓法のエキスパートが武者所にいて国を二分する大戦で武名を轟かせないとは考えにくいです。また、足利義尚と直接会見したという話も残っていません。もし1487年(長享元年)に足利義尚が近江国鈎に陣所を敷く以前に赤澤朝経が上洛していたなら、弓法のエキスパートとして足利義尚と会見した等の話があってもよいはずです。ということは、足利義政が生存・在京しているが、義尚が京を出ている時期なのではないでしょうか。足利義政は1490年(延徳二年)に亡くなっております。よって、上洛&武芸披露は1487年(長享元年)から1490年(延徳二年)までの三年の間のどこかだったと考えるのが妥当かな、と思います。

 ここまでの記録は断片的な情報を繋ぎ合わせたもので、赤澤朝経が正式な記録に残るのは、1491年(延徳三年)、足利義材が起こした第二次六角征伐への参加からです。そして、細川政元はその武芸の腕を見込んで自らの内衆に加えたとのことです。細川政元はこの直前に波波伯部五郎らを引き連れて越後に下向しており、足利義材の六角征伐にも反対していたのですが、そんな中で赤澤朝経をスカウトしたのは、義材の傍に置き力をつけさせるのは危険と考えたからかもしれません。ちなみに、この時までに朝経は出家して澤蔵軒宗益と「宗」のつく法号を名乗っております。一休宗純が自著『狂雲集』の中で、「逆行の沙門三尺の剣、禅録を見ずして軍書を読む」と大徳寺が弟子を真面目に修行させないで、軍書ばかりを読んでいる沙門を量産していると非難していましたが、澤蔵軒宗益は伊勢宗瑞以上にその匂いがします。

 その頃、洛外南山城では山城国一揆が勃発しておりました。山城国は元々畠山氏が守護を務める国だったのですが、応仁の乱が終わっても西軍の畠山義就と東軍の畠山政長が主導権争いをしており、これに業を煮やした南山城国人衆が蜂起して両軍を追い出して、三十六人の有力者による合議制の自検断体制を敷いてしまいました。幕府はここに伊勢貞陸を山城国守護に宛がいつつも、この自検断体制を認めましたので、いわゆるコンミューン(共同体)が支配する領域が誕生したのでした。幕府としては、東軍方の畠山政長が義就を抑えられない以上、義就が影響力を持つ河内国と大和国(興福寺坊官たちと義就は同盟関係を結んでおりました)からの緩衝地帯を確保したいという思惑があったのでしょう。南山城と京・洛南の間には当時巨椋池という巨大な池があり、淀と宇治橋を抑えてしまえば河内・大和方面から京に侵入することができません。応仁の乱が終わって摂津国はすでに細川政元が回復していますので、淀・宇治橋の確保のため南山城は中立でもよいので、非西軍勢力に支配してもらいたかったのです。
 ちなみに、南山城三郡の中の綴喜郡薪には一休宗純が開いた報恩庵があります。この時一休宗純はすでに示寂しておりましたが、その人脈は活きているはずです。山城国一揆が成立したのも一休宗純のフリーダムな生き方が影響したのかもしれません。

 山城国一揆の成立後、足利義材と細川政元の仲は険悪になります。義材が将軍になれるなら、何のための応仁の乱だったのか、といえる程の政治的アクロバットでした。畠山義就が1490年(延徳二年)に亡くなったのをチャンスと見た畠山政長は室町殿の河内親征を要請し、義材はこれに応じます。
 細川政元は室町殿の留守中に堀越公方足利政知の息子の清晃を担いでクーデターを敢行します。京周辺の諸侯を抱き込みそれだけではなく、畠山義就を継いだ基家まで抱き込んで足利義材・政長包囲網を作り、これを屈服させました。政長はこれで死ぬわけですが、幕府にとって山城国一揆は畠山義就(この時点では基家)勢力に対する防波堤として機能することを期待されて存続していたのですが、細川政元が畠山基家と組んだことによって、国一揆による支配という変則体制を続ける理由が亡くなりました。名ばかりの山城国守護伊勢貞陸はここに興福寺坊官出身の古市澄胤をヘッドハンティングして守護代に据えます。大和国国人の多くは興福寺坊官出身なのですが、興福寺坊官は決して一枚岩ではなく、応仁の乱の時は古市澄胤の属する親西軍派が他の国人達を抑えていた状況だったのです。古市澄胤の山城侵入で山城国一揆は解体されます。古市起用自体が明応の政変なくしてはあり得ないことで、山城国一揆は明らかにそのあおりを受けたのでした。

 ところが、古市守護代体制の南山城も安定しません。今度は畠山基家家臣の遊佐弥六左衛門が兵を率いて南山城に侵入します。この人物は畠山守護体制の山城国において久世郡郡代を務めておりました。私兵を勝手に動かしたらしいですが、伊勢貞陸にぶんどられた山城守護を回復したいという畠山基家の意向がなかったとは考えにくいです。伊勢貞陸は細川政元に救援を求めます。ただ、古市澄胤の南山城支配に細川政元は難色を示していた手前、自前の精鋭を送り出して畠山基家との関係をぶち壊すのも躊躇われました。そこで起用されたのが、赤澤澤蔵軒宗益でした。
 成功すれば畠山基家との妥協も図れるし、失敗した場合赤澤宗益を細川家とは無関係と突き放すことも可能な立場だったのです。赤澤宗益はこの期待に応えて遊佐弥六の追い出しに成功します。ここで細川政元と畠山基家の間で妥協が成立したのでしょう。遊佐弥六は「私兵を勝手に動かした」ことになりました。遊佐が赤澤に勝っていれば赤澤が私兵を勝手に動かしたことになっていたでしょう。いずれにせよ、遊佐弥六は既成事実作りに失敗したわけです。
 赤澤澤蔵軒宗益はこういう使われ方をする武将でした。

 山城国一揆の戦後処理は一応守護は伊勢貞陸のままですが、北部の五郡(なぜかこれを下五郡と呼ぶ)を細川政元譜代の被官香西元長が、南部の三郡(なぜかこれを上三郡と呼ぶ)を細川家新参被官の赤澤澤蔵軒宗益が務めることになりました。実質的に細川家がのっとった形になります。
 これには理由があって、細川政元に殺された畠山政長の遺児、尚頼が紀伊・河内で蜂起して畠山義豊(基家、正式に河内守護が認められて義豊に改名)を脅かしていたからです。
 さらに悪いことに畠山尚頼の背後には足利義尹(義材のこと)が居ました。まずいことに、足利義尹は越中の神保長誠と越前の朝倉貞景の支援を受けて一勢力を築いていたのです。足利義澄は誰が見ても細川政元の傀儡ですから、細川政元に不満のある勢力は足利義尹に従います。畠山尚頼も、父政長が足利義材=義尹に仕えていたこともあり、義尹の御行書を振りかざして勢力拡大をはかります。そして明応八年一月になってついに宿敵畠山義豊を討ち取ることに成功します。紀伊河内が権力空白地帯になりました。細川政元は赤澤澤蔵軒宗益を河内国十七箇所の代官に任じて河内国の崩壊を防ぐ手立てを討ちます。
 足利義尹の方はこれをチャンスと越前からの南下を始め、比叡山延暦寺に呼応を呼びかけて、延暦寺もこれに従います。細川政元はすぐに延暦寺の焼き討ちを決めます。延暦寺は京の鎮護の象徴ですが、政元にためらいはありませんでした。その実働部隊として選んだのが、波波伯部五郎元教と赤澤澤蔵軒宗益の二人でした。

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