« 中漠:明応軍乱編⑧天台座主尭胤法親王 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑩戦国仏教王国の内情 »

2016年2月27日 (土)

中漠:明応軍乱編⑨赤澤朝経のセカンドライフⅡ

 1499年(明応八年)一月三十日、故畠山政長の遺児尚順は河内国で畠山義就の子、義豊を討ち、気勢を上げます。この緊急事態に細川政元は赤澤澤蔵軒宗益に対し反撃を命じていますが、その内容がふるっております。それは、赤澤宗益に河内国十七箇所代官職を与えるということでした。この河内国十七箇所というのは現在の寝屋川市、守口市、門真市あたりにある荘園ですが、細川政元が守護を務める摂津側から向かおうとすれば、淀川を渡らなければならない地形です。この時、河内国十七箇所は細川政元が領していたのですが、畠山尚順は義豊を討った余勢でここの代官を追い払われるという事態になっておりました。
 赤澤澤蔵軒宗益は山城上三郡守護代を拝命していましたが、この時在京で河内国へ入国するルートも持っていません。それ以上に、河内国の畠山義豊派は壊滅しかかっており、それを助けるにしろ、その為の軍路を開拓しなければなりません。先の南山城への遊佐氏侵入と言い、赤澤澤蔵軒宗益にはこのように無茶振りな命令がしばしば出されていました。もっとも、河内に残された畠山義豊派の保護を行う窓口を定めたというくらいの意味合いであるのかもしれません。

 畠山尚順の台頭に呼応して大和国人の筒井順賢が叡山焼き討ちの前年に南山城の稲八妻城を落とします。親尚順派はここから違乱活動を繰り返していました。赤澤澤蔵軒宗益は山城上三郡守護代ではありましたが、十全にその役割を果たせたとは言えませんでした。そもそも彼は地生えの人間ではありませんし、自らの武芸の腕だけを頼りに上京してきた武辺者でありましたので、信頼のできる家臣団も持っていません。どうも、統治は山城国一揆で南山城を治めていた三十六人衆に任せて自分はその上に乗っかる形の体制だったようです。それも畠山尚順派に蹴散らされて三十六人衆らともども洛中に避難していたようです。赤澤宗益が波波伯部元教と延暦寺を焼き討ちしたのはその年の七月でした。しかし、延暦寺は焼けた後も、足利義尹(義材)は近江を南下していました。
 細川政元は延暦寺焼き討ちを反撃の狼煙とし、畠山勢に対抗して淀に薬師寺元一を、宇治に赤澤澤蔵軒宗益を配置。近江の足利義尹には六角高頼を宛てて、反撃を命じました。

 第二の人生を歩む赤澤澤蔵軒にとっては細川政元の無茶振りもまた楽しいことであったようです。1499年(明応八年)九月に赤澤澤蔵軒は以前に古市澄胤を撃退したのと同様にあっという間に山城国から親尚順派勢力を追い出すことに成功します。そして、翌十月には兵を洛中に振り戻して京中の土一揆を平定していたりします。この土一揆は如意ヶ嶽(大文字山)を拠点としていて、当初細川政元の内衆で家老格の安富元家が鎮圧を任されていたのですが、思うように進まないことに業を煮やして赤澤宗益が投入されたのでした。安富元家は細川京兆家の命により東讃岐や近江の守護代を任されているほどの人物です。それが土一揆の鎮圧もままならないのは意外ではあります。その理由なのですが、如意ヶ嶽には如意寺という三井寺の末寺があったりしたのですね。応仁の乱頃に被災して再建もままならなかった状態のようだったのですが、安富元家といえども土一揆勢がそこに逃げ込まれては手出しができなかったものではないかと思われます。対して赤澤澤蔵軒宗益は延暦寺にやったのと同じように徹底的につぶすことも厭いません。まさに『いともたやすく行われるえげつない行為』を平気に行う人物だったわけです。このあたりの価値観は織田信長にも通じるところがあるかもしれません。
 一方近江の足利義尹は坂本まで進出することはできましたが、叡山のバックアップを得られない中で六角高頼と戦って退却を余儀なくされます。代々の天台宗宗徒である六角高頼も延暦寺がこの戦いに参加できなくなっていた分、楽に戦えたものと思われます。赤澤澤蔵軒宗益の中世人離れした宗教観は、細川政元に降りかかった危機を救う方に働いたのでした。

 三十六人衆を南山城に戻して領地を確保した赤澤澤蔵軒宗益はさらに歩みを進め、大和国に侵入します。このあたり実に攻撃的です。そして西大寺、法華寺、菅原寺の三寺院を焼き払ってしまうわけです。
 西大寺は孝謙天皇(称徳天皇)が恵美押勝の乱平定祈願の為に発願建立したという由緒寺院で、かの東大寺と対をなす格式だったのですが、中途で寂れたところを鎌倉時代に真言律宗の叡尊が立て直したものです。 法華寺は法華宗とは関係がなく、光明皇后(藤原光明子)発願の国分尼寺でした。菅原寺は喜光寺ともいい、東大寺勧進に活躍した行基入滅の地に建てられた寺でした。いずれも奈良時代の栄華を象徴する由緒寺院です。
 大和国は恐慌に陥りました。この乱暴を防ぐべき畠山尚順は畠山義豊の遺児である義英に敗れ、足利義尹(義材)も大内氏を頼って周防に逃げていました。興福寺や大和国国人衆はこれに対抗しますが、赤澤軍は手の付けられない勢いでした。興福寺は春日神木を持ち出して神威でこれを折伏させようとしましたが、あえなく失敗します。足利義満に仕えた細川頼之の時代とは隔世の感があります。さらに細かい経緯は別稿に書こうと思いますが、この戦いは1502年(文亀二年)まで続き、興福寺、東大寺はその門を閉めて籠城するしかない状況に追い込まれました。

 山城・大和に大きな軍事勢力を築くに至った赤澤澤蔵軒宗益でしたが、彼自身が地縁を一切持たない外様であること、寺社を焼くことに躊躇を感じない独特な宗教観の持ち主であること、そして何よりここにきて細川政元の行動にブレが生じ始めたことによって、新たな困難に直面することになります。すなわち、身内である細川家家臣団から足を引っ張られることとなったのでした。
 すなわち、1504年(永正元年)謀反の嫌疑を受け、摂津守護代薬師寺元一に襲撃されます。難を逃れて逃亡する中許されるのですが、今度はその薬師寺元一が起こした反逆に連座したかどで捕縛されます。薬師寺は斬首されますが、赤澤は武功と引き換えに許されます。そして元の山城上三郡守護代に復帰したのでした。この間何があったかと言うと、畠山義英が畠山尚順と和睦して、細川家に敵対をはじめたのでした。大和国は赤澤宗益が抑えていた状態だったのですが、謀反嫌疑でドタバタしているあいだに河内国の状況が悪化したのでした。
 1506年(永正三年)一月に赤澤宗益は河内国を縦断して誉田城・高屋城を占領します。畠山義英は大和に逃亡。そしてこれを追って再度大和に侵入したのでした。大和では筒井氏ら大和国人と多武峰で合戦し、これを撃破しました。実にチートな活躍っぷりです。
 状況が安定した為、細川政元は赤澤宗益を連れて自ら丹後国の一色義有と戦う為の遠征にでます。一色家は宗家断絶後、三河知多郡分国守護家出身の義有を迎えこれを当初は細川政元も追認していたのですが、丹後国人のコントロールができずに、政元を敵に回してしまいます。政元自ら戦場に赴くと、一色義有は降伏。政元は後を赤澤宗益に任せて帰京しますが、その直後に暗殺されてしまいます。政元腹心の薬師寺長忠、香西元長らの手によるものでした。
 赤澤宗益は兵をまとめて帰洛しようとしますが、その背後を一色義有配下の石川直経の反撃を受けて戦死します。

 赤澤宗益は細川政元に見出されて、その武名を畿内に轟かせたわけですが、細川政元の死とともにその役割を終えて歴史のはざまに消えてしまいました。その強さも弱さも含めてまさに戦国時代の申し子であったということができると思います。

Photo

|

« 中漠:明応軍乱編⑧天台座主尭胤法親王 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑩戦国仏教王国の内情 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/63268273

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:明応軍乱編⑨赤澤朝経のセカンドライフⅡ:

« 中漠:明応軍乱編⑧天台座主尭胤法親王 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑩戦国仏教王国の内情 »