« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月26日 (土)

中漠:明応軍乱編⑫南都の異端児古市澄胤Ⅱ

 古市澄胤が1497年(明応六年)に筒井氏らに敗れた原因は、畠山義豊が家内統制に失敗したためでした。すなわち、河内で遊佐氏と誉田氏が紛争を起こし、不満を持った側が畠山政長の遺児尚順を担いで挙兵しました。そして翌月の十月には高屋城を攻め落として畠山義豊は山城まで敗走するにいたります。この挙に併せて応仁の乱後に国外に逼塞していた筒井順賢、十市遠治らが大和国に攻め込んで越智家栄・家令親子と古市澄胤に襲い掛かりました。緩みがあったのか、尚順方は次々に勝利を重ねてゆきます。古市澄胤はこれを白毫寺で迎え撃ちますが、一族の山村氏ら多数の戦死者を出して敗北。山城国笠置寺に落ち延びます。
 勝ちに乗じた筒井順賢は翌年山城国に侵入して稲八妻城を陥落させました。これらの攻勢に反攻しようと畠山義豊は河内国へ兵を率いて攻め込みましたが、逆に1499年(明応八年)一月三十日に河内国十七箇所にて戦死します。ここでようやく細川政元が動きました。越前から足利義尹(義材)が上洛戦を仕掛けてきたのでこれを討ちはらう必要がでてきたためです。まずは波波伯部五郎元教と赤澤宗益を延暦寺に送り込んでこれを蹂躙。その後に一気に南山城に入って尚順・筒井氏らの敵対勢力を駆逐し始めたのでした。そして大和国に侵入。西大寺・法華寺・菅原寺で合戦して勝ちを連ねてゆきます。この間まだ一年もたっていません。古市澄胤はこの強さに魅了されたようです。大和国に帰国すると、赤澤宗益の膝下に入ることとしました。赤澤宗益もまた、統治を苦手としており、また地元民でもないので古市澄胤のような人物はぜひとも必要でした。

 赤澤宗益の大和制圧と時を合わせて畠山尚順は畠山義豊の遺児である義英に敗れて河内国の勢力が均衡します。この時代の戦いがなぜ長引くかというと、大将を討ち取ってもそれで戦いに決着がつくわけではなく、負けた側は大将の息子を新たな旗印にして再戦を挑むからなのですね。戦国時代は日本人が正しい負け方を学ぶ過程であり、その精華が関ヶ原合戦であったといえるかもしれません。
 その間興福寺は春日神木を動座させて赤澤宗益に対抗しようとしますが、何の効果も生みだしませんでした。古市澄胤は赤澤宗益に協力して、赤沢被官が大和国人に殺害された事件で犯人を捜してこれを殺害する挙にもでています。新しい秩序構築のために手を貸しているともいえますが、それが決して大和国人衆の支持を増やしているともいえませんでした。赤澤軍は大和国中央部の楊本荘(現在の天理市柳本)で戦闘に敗れるのですが、赤沢宗益は山城まで兵を一旦引いてしまいます。それは立て直しが必要なほどの打撃を受けたというわけではありません。後背にいる大和国人衆の動向にきな臭いものを感じ取ったのでしょう。そして再び大和国に乱入して西大寺を全焼させてしまいました。不安定な大和国を無理やり力で押さえつけていたようです。

 この後、細川政元自身の問題が発生したり、後継者として指名されていた養子細川聡明丸(澄之)が廃嫡されたりして、阿波細川家から細川六郎(澄元)が新たな養子として迎え入れられる等、京兆家で大きな動きがありました。そんな中で頼みの赤澤宗益が謀反を起こしたり、巻き込まれたりしていた間、大和国は手薄になってしまいますが、そこを古市澄胤は必死に勢力版図を守っていました。赤澤宗益は軍事力はあっても占領後統治機能を作る能力は決定的に欠けていたみたいです。古市澄胤も大和国では国人の一人でしかなく、軍事的背景がなければ抑えきることは難しいものでした。その間隙をぬって畠山尚順は義英と和睦をしてしまいます。そして大和国に手を伸ばして古市氏を除く大和国人衆を連判させて味方に取り込むことに成功します。この危機に際して罪を許された赤澤宗益は兵を率いて大和を縦断、法華寺や正暦寺を焼き払って多武峰まで到達します。
 この大和攻めには宗益だけではなく、阿波細川家の三好之長も加わっておりましたのでフリーダムさも、チートさも倍増しております。余勢をかって河内国にも乱入して誉田、高屋城を攻め落として畠山尚順を逃亡せしめました。

 何度も軍事的支援を得て何とか大和国の平均を得た澄胤でしたが、その成果は長続きしませんでした。1507年(永正四年)六月二十三日、細川政元は薬師寺長忠、香西元長らに暗殺されます。そしてその三日後に丹後に遠征にでていた赤澤宗益も戦死しました。政元暗殺の報せを聞いて京へ撤退しようとした中でのことでした。政局は動転し、最終的に京は足利義稙(義材・義尹)と大内義興らと組んだ細川高国が掌握します。足利義稙は畠山尚順を支持したために、古市澄胤は政治的な後ろ盾を失ってしまいました。古市澄胤は劣勢を建て直すために細川澄元の幕下に入り、赤澤宗益の養子長経とともに河内に攻め込んで高屋城を攻めましたが返り討ちにあって戦死いたしました。

 大和国人同士の争いに劣勢となって細川氏を頼り、赤澤宗益の軍を引き入れて大和国を席巻した古市澄胤でしたが、結局対抗勢力を抑えることができませんでした。力に頼った結果力に敗れるという教訓通りの人生を送った人物ですが、その反面村田珠光との交流の中で自らの美意識を育んでいた人物でもありました。彼が大和国にもたらしたものは戦乱と寺社仏閣の破壊ばかりといってもよいでしょう。彼は「わが心の師となれ、心を師とするな」との珠光の言葉をいかに受け取って実践したのでしょうか。焼き討ちされた結果冷え枯れた廃墟となった寺社がその到達点であるとは思いたくはありませんが、彼が手にした美意識をもって彼自身の人生を評したならばどのようなものになるのか、興味は尽きません。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月12日 (土)

中漠:明応軍乱編⑪南都の異端児古市澄胤Ⅰ

応仁の乱終結直後の政治状況を親西軍派の大和国人古市澄胤の立場で見るならば、まさしく薄氷を踏みつつ進まねばならない状況であったかと思われます。京においては実質東軍勝利であり、山名政豊、大内政弘、畠山義就ら西軍派勢力は悉く本国に引きこもった状態です。大和国の西軍派としては隣国河内に畠山義就の勢力が残っているから勢力を保てていた状況でした。しかし、山城国守護を東軍派の畠山政長が抑えてしまえば非常に大きなプレッシャーとなったに違いありません。
 そういう意味では山城国一揆は古市澄胤にとって実に都合のよい事件でした。もっとも、古市澄胤は南山城に馬借のネットワークを持ち、一揆衆とも利害関係を有するステークホルダーでもありました。そして、山城国守護には畠山氏に代わって伊勢貞陸がおさまります。これによって東軍派の京と大和国との間に緩衝地帯ができたわけです。
 その間京の室町殿は西軍派の六角高頼を近江に攻めたりしていつ大和に矛先が向いてもおかしくはない状況でした。六角攻めをした足利義尚はその志を果たせないまま病没し、足利義視、義材親子がその後継につきます。この二人、もともとは西軍派ではありましたが、東軍派の組織の上に乗っかった形で政治を進めます。しかも、古市澄胤にとって都合の悪いことに足利義材は、畠山政長を重用するのですね。そして、1490年(延徳二年)に畠山義就が没します。これをチャンスと見た畠山政長は足利義材に河内遠征を勧め、河内遠征は実現します。おそらく畠山政長が河内国を掌握すれば、次に畠山政長は筒井氏ら大和国の東軍派、即ち親政長派国人を煽って越智・古市氏らの討伐に動かしたに違いありません。古市氏らがそれらによしんば勝利したとしても、それが幕府介入の口実を与えてしまうでしょう。さらには河内征服の成功で権威が強化された畠山政長が、山城守護の回復を要求し、それが容れられてしまうこともありえたかもしれません。
 いずれにせよ、古市澄胤にとっては悲観的な未来しか予測できない状況だったのですが、それを逆転させたのが細川政元でした。細川政元は畠山義就の遺児義豊と結び、畠山政長を討った上に足利義材を幽閉します。これは政長派の縮退を意味しました。と同時に山城国が畠山政長にも義就にも与しない中立国である必要もなくなりました。それどころか、政変直後の流動的な政治勢力を手早くまとめあげないと、対抗勢力に潰されかねない状況でもあったのです。現に細川政元は足利義材を龍安寺に幽閉していたのですが、まんまと脱出されて越前に亡命されてしまっています。
 伊勢貞陸は細川政元に呼応して、一揆衆の支配体制の解体を試みます。そこに白羽の矢が立ったのが古市澄胤でした。彼は親畠山義就(義豊=基家)派を旗印に掲げた武士団を擁しつつ、山城国でも馬借を営んでいるステークホルダーでした。さらに言えば古市澄胤は親畠山義就(義豊)派であっても、興福寺宗徒、それも官符衆徒と呼ばれる幹部クラスであり畠山家との被官関係はありません。伊勢貞陸にとっては畠山の顔を立てつつ山城国における自らの影響力を強化しうる人選だったわけです。古市澄胤はこの要請に応えて山城国一揆を攻めてこれを降し、自らが守護代として南山城を担当することとなります。
 ところがこの伊勢貞陸の山城国掌握は畠山義豊を刺激する結果となってしまいました。彼の立場に立てば、もともと山城国は畠山家の守護国であるはずであり、家内の内紛で山城国統治ができなくなったため一時的に伊勢氏に国を預けた形になったにすぎないのですね。畠山家の内訌も義豊が勝利をおさめ、山城国一揆も鎮定されたなら山城国守護は畠山義豊に返還されてしかるべきなのでしょうが、伊勢貞陸にも立場があります、よって畠山義豊は被官遊佐弥六を山城に派遣して既成事実を作ることから始めました。遊佐弥六は畠山家が守護をやっていた頃には綴喜郡で代官をやっていたのですが、守護代と称してやりたい放題をします。古市澄胤にも畠山義豊から釘が刺されていたらしく、古市党はこれを防ぎません。古市家が動かないとなると伊勢貞陸には山城国で自らが動かせる軍事力はありませんでした。
 伊勢貞陸に泣きつかれた細川政元は、赤澤宗益を派遣しました。彼のチートっぷりは前に述べた通りです。この頃の細川家における赤澤宗益の扱いは便利に使える鉄砲玉くらいのものでした。細川家の譜代家臣ではなく、武芸の腕を買われて被官の末座に列した新参者に過ぎません。粗相があればすぐさま放逐されてしまうような無茶振りの出兵でしたが、赤澤宗益は見事期待に応えて遊佐弥六の追い出しに成功します。細川政元も並行して畠山義豊との講和をまとめあげ、赤澤宗益が山城上三郡(南山城)の守護代ということになったわけです。その結果、古市澄胤は守護代の地位を追われることになるのですが、赤澤宗益の存在は強く印象付けられたようです。一言で言うと、古市澄胤の後半生は赤澤宗益に振り回され続けることになります。赤澤宗益の武芸は現代の小笠原流につながる弓法の達人であり、東山文化の担い手である室町殿、足利義政の上覧に耐えうる程の完全性を備えたものでした。そして古市澄胤はその技前を美として受け取ることのできる感受性の持ち主でもあったのです。

 古市家の勢力範囲の北に位置する宇治では茶が栽培されており、古市家では茶会(と言っても茶の湯的なそれではなく、文字通りのお茶が振る舞われるパーティー)がよく営まれておりました。古市家は大和国人の中では抜きんでて家中の結束の強い一族でしたが、この茶会も縁を深める役割を果たしていたものと思われます。
 そんな折、古市澄胤は茶の湯の開祖村田珠光に出会います。珠光の茶の湯は一休宗純から学んだ禅の精神を取り入れつつ、四畳半の狭い書院造りの茶室で振る舞う茶は古市家で行われている淋汗茶湯とは全く異質で後に千利休が茶道にまで昇華される茶の湯の元祖と呼ばれるべきものでした。古市澄胤は村田珠光の茶の湯に新しさを感じ取り教えを乞いました。村田珠光は一休宗純仕込みの茶の湯のエッセンスを一文にまとめあげ、「心の文」と題して送ったものが現代に残っております。残念ながら二人の交際がいつごろ始まってどんな内容であったかは詳らかではありませんが、心の文の精神は現代茶道にもつながっているものでもあります。その一節に「冷え枯るる」という文言があるのですが、これは茶を人生の寄る辺として突き詰めた者が到達する境地を表現したものです。古市澄胤は町屋の家屋の屋根に乗せられた風押さえの自然石の中から奇妙な形のものを見出しました。それは暗褐色の石の上部が白くなっているものでしたが、古市澄胤はこれを春近い山の峰に残る雪と見立てて「残雪」と銘じて盆石に仕立てます。これは後に大名物として珍重されて現代の西本願寺に伝わるものなのですが、古市澄胤がこの「残雪」を通して珠光の言う「冷え枯るる」境地の意味を思索したと思えば、大変興味深いものでありましょう。

 しかし、戦乱の世は古市澄胤をして精神を冷え枯れさせる暇を与えてはくれませんでした。赤澤宗益が遊佐弥六を山城国から追い出した翌年、1497年(明応六年)十一月、古市澄胤は白豪寺近辺で復活してきた筒井氏勢力と激突して大敗を喫し、大和国を没落することになります。そしてこれが古市澄胤と赤澤宗益との再会のきっかけにもなるのでした。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月 5日 (土)

中漠:明応軍乱編⑩戦国仏教王国の内情

 前稿において、赤澤宗益が山城・大和を席巻した話を書きましたが、彼はあくまで地元に地縁を持たない外様でした。それがチートに勝ちを重ねることができたのは、大和国に有力な協力者がいたためです。その名を古市澄胤と言います。彼の一族は仏教王国大和において、興福寺宗徒でありながら畠山氏、伊勢氏、細川氏らの外部勢力の支援を受けることで勢力拡大を図っておりました。これは他の大和国の国人領主達にも当てはまることではありますが、その中でも古市澄胤はその勢力にて仏教王国に甚大なダメージを与えた異端児とも言えるでしょう。

 彼の事績を述べる前に、大和国の他国とは一風違った独自の権力構造について述べたいと思います。
 興福寺とは、南都六宗の法相宗の大本山であると同時に藤原鎌足を祖とする藤原一族全ての氏寺です。氏寺であるがゆえにこの寺は藤原一族が藤原一族であることを保証する役割を持っていました。逆に言うと藤原氏から勘当、すなわち籍を抜く権限も有していたのです。興福寺に対して不利益を働いた藤原一族の者に対して、興福寺が以後藤原氏を名乗ることを認めなくすることを放氏と言います。放氏された者は官位や官人たる資格を剥奪されるため、その人物は朝臣としては何もできなくなってしまうのでした。かくして朝廷が日本国を掌握し、その朝廷を藤原氏が牛耳っていた時代においては絶大な権威を持っていたのです。
 源頼朝が幕府を開き全国に守護を置いた時も、大和国には守護を置くことはできませんでした。室町時代に至っても一貫して大和国の太守としての役割は興福寺別当(住持のことを興福寺に関してはこの呼び方をします)が担っていたわけです。その別当職は代々主に摂関家出身の人物が担うことになっていました。そして摂関家出身の興福寺別当が入るべき塔頭が用意されます。それが一条院と大乗院でした。一条院は摂関家筆頭の近衛家の子弟が、大乗院は九条家の子弟がそれぞれの塔頭の門主を務め、それが交替で興福寺別当に就任して大和国太守の職責を担ったわけです。
 藤原北家の嫡流は近衛家ですが、九条家は鎌倉時代に幕府に接近した結果一族から将軍や摂関を出せる家格となりました。そのせいか両家の間柄は必ずしも良くはありません。その対立は一条院と大乗院にも波及し、時に協力して春日神木を上洛させ幕府や朝廷に対し権威を誇示することもありましたが、対立して武力抗争に走ることも稀ではありませんでした。
 春日神木を担ぎ、武力抗争を行う役割を担ったのが一条院、大乗院それぞれについた宗徒、国民衆でした。両者はともに興福寺領の荘園における荘官から身を起こした武士であり、両者の違いは宗徒は法体、国民は俗体であることにあります。
 一条院、大乗院の対立は朝廷・幕府の関係によっても規定されます。南北朝時代においては大乗院が南朝方につき、これを大和国民十市氏が支援をしております。永享年間においては両塔頭の対立が武力抗争に発展しました。一条院派は宗徒筒井氏、国民十市氏、大乗院方には国民越智氏、箸尾氏が合戦を行い、足利義教の介入を受けて越智維通が討伐されております。筒井、十市、越智、箸尾を総称して大和四家と言います。
 古市氏は大乗院に属して興福寺に在勤する官務宗徒の一族です。但し、大和四家と比べて家柄自体は遜色ない程古くはあるものの、さほど大きな家ではなかったようです。ただ、この一族の特徴として商業活動を重視し、客を招いて茶会等を行うなど、当時の国人領主としては異例の新機軸を打ち出していました。茶会と言っても当時は利休流の茶道はなく、どちらかと言えば佐々木導誉が行ったような贅を尽くしたパーティーに近いものだったと言います。こういう規格外なことをすると周囲からはにらまれるものですが、古市氏はこれを逆用して一族内の結束強化につなげていきました。

 永享年間の大和国の動乱で筒井氏が越智氏を打ち負かした形になったのですが、その後筒井氏が内部分裂します。それに付け込んで大乗院門跡経覚が反撃とばかり筒井氏を追い詰めてゆきます。そこで経覚の配下で実働したのが古市澄胤の父、古市胤仙でした。この勝利は一時的ですぐに筒井氏の反撃を受けてしまい、逆に大乗院に築いた砦をおとされてしまうのですが、そのご古市胤仙が経覚を自分の城に囲って勢力回復に努めます。
 余談ではありますが、この経覚、越前国に大乗院の荘園を持っておりまして、その荘官に和田本覚寺の蓮光をつけていたりします。応仁乱中に延暦寺に弾圧された蓮如に越前行きを勧めたのがこの経覚であり本願寺教団との接点を持っていた人物でもありました。
 大乗院門跡・古市氏VS筒井氏の抗争は、古市胤仙が亡くなった間隙をついて経覚と筒井氏が和睦することで終結します。古市胤仙の後継者である嫡男古市胤栄ら古市党は、当主と担いでいた神輿を同時に失ったことになります。もっとも、この時、古市胤栄は十代半ばの少年でありましたので、戦争継続が難しかったのは確かでしょう。
 その後、応仁の乱が勃発します。大和国を応仁の乱の戦渦に巻き込んだのは畠山政長と義就の争いでした。河内守護の畠山氏が京に影響力を及ぼそうとするとすれば、大和国はその重要な軍路となりえます。畠山政長は筒井氏、箸尾氏、十市氏を味方につけ、越智氏、古市氏は畠山義就に与した結果、大和国を二分する戦いになりました。
 文明七年に春日社での激突で古市氏は大敗を喫し、その責を負って古市胤栄は家督を弟に譲ります。その弟こそが、古市澄胤でした。 

 古市澄胤は大敗した古市氏を立て直して応仁の乱が終わるころには概ね彼らが属した西軍有利な形で終わります。しかし、大和北方の南山城で畠山政長・義就の争いが続いていたことに山城国人がこの二人を放逐し、自検断をする独立国を作ってしまいました。一応そこに守護として伊勢貞陸があてがわれたのですが、事実上お飾りの守護でした。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »