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2016年3月12日 (土)

中漠:明応軍乱編⑪南都の異端児古市澄胤Ⅰ

応仁の乱終結直後の政治状況を親西軍派の大和国人古市澄胤の立場で見るならば、まさしく薄氷を踏みつつ進まねばならない状況であったかと思われます。京においては実質東軍勝利であり、山名政豊、大内政弘、畠山義就ら西軍派勢力は悉く本国に引きこもった状態です。大和国の西軍派としては隣国河内に畠山義就の勢力が残っているから勢力を保てていた状況でした。しかし、山城国守護を東軍派の畠山政長が抑えてしまえば非常に大きなプレッシャーとなったに違いありません。
 そういう意味では山城国一揆は古市澄胤にとって実に都合のよい事件でした。もっとも、古市澄胤は南山城に馬借のネットワークを持ち、一揆衆とも利害関係を有するステークホルダーでもありました。そして、山城国守護には畠山氏に代わって伊勢貞陸がおさまります。これによって東軍派の京と大和国との間に緩衝地帯ができたわけです。
 その間京の室町殿は西軍派の六角高頼を近江に攻めたりしていつ大和に矛先が向いてもおかしくはない状況でした。六角攻めをした足利義尚はその志を果たせないまま病没し、足利義視、義材親子がその後継につきます。この二人、もともとは西軍派ではありましたが、東軍派の組織の上に乗っかった形で政治を進めます。しかも、古市澄胤にとって都合の悪いことに足利義材は、畠山政長を重用するのですね。そして、1490年(延徳二年)に畠山義就が没します。これをチャンスと見た畠山政長は足利義材に河内遠征を勧め、河内遠征は実現します。おそらく畠山政長が河内国を掌握すれば、次に畠山政長は筒井氏ら大和国の東軍派、即ち親政長派国人を煽って越智・古市氏らの討伐に動かしたに違いありません。古市氏らがそれらによしんば勝利したとしても、それが幕府介入の口実を与えてしまうでしょう。さらには河内征服の成功で権威が強化された畠山政長が、山城守護の回復を要求し、それが容れられてしまうこともありえたかもしれません。
 いずれにせよ、古市澄胤にとっては悲観的な未来しか予測できない状況だったのですが、それを逆転させたのが細川政元でした。細川政元は畠山義就の遺児義豊と結び、畠山政長を討った上に足利義材を幽閉します。これは政長派の縮退を意味しました。と同時に山城国が畠山政長にも義就にも与しない中立国である必要もなくなりました。それどころか、政変直後の流動的な政治勢力を手早くまとめあげないと、対抗勢力に潰されかねない状況でもあったのです。現に細川政元は足利義材を龍安寺に幽閉していたのですが、まんまと脱出されて越前に亡命されてしまっています。
 伊勢貞陸は細川政元に呼応して、一揆衆の支配体制の解体を試みます。そこに白羽の矢が立ったのが古市澄胤でした。彼は親畠山義就(義豊=基家)派を旗印に掲げた武士団を擁しつつ、山城国でも馬借を営んでいるステークホルダーでした。さらに言えば古市澄胤は親畠山義就(義豊)派であっても、興福寺宗徒、それも官符衆徒と呼ばれる幹部クラスであり畠山家との被官関係はありません。伊勢貞陸にとっては畠山の顔を立てつつ山城国における自らの影響力を強化しうる人選だったわけです。古市澄胤はこの要請に応えて山城国一揆を攻めてこれを降し、自らが守護代として南山城を担当することとなります。
 ところがこの伊勢貞陸の山城国掌握は畠山義豊を刺激する結果となってしまいました。彼の立場に立てば、もともと山城国は畠山家の守護国であるはずであり、家内の内紛で山城国統治ができなくなったため一時的に伊勢氏に国を預けた形になったにすぎないのですね。畠山家の内訌も義豊が勝利をおさめ、山城国一揆も鎮定されたなら山城国守護は畠山義豊に返還されてしかるべきなのでしょうが、伊勢貞陸にも立場があります、よって畠山義豊は被官遊佐弥六を山城に派遣して既成事実を作ることから始めました。遊佐弥六は畠山家が守護をやっていた頃には綴喜郡で代官をやっていたのですが、守護代と称してやりたい放題をします。古市澄胤にも畠山義豊から釘が刺されていたらしく、古市党はこれを防ぎません。古市家が動かないとなると伊勢貞陸には山城国で自らが動かせる軍事力はありませんでした。
 伊勢貞陸に泣きつかれた細川政元は、赤澤宗益を派遣しました。彼のチートっぷりは前に述べた通りです。この頃の細川家における赤澤宗益の扱いは便利に使える鉄砲玉くらいのものでした。細川家の譜代家臣ではなく、武芸の腕を買われて被官の末座に列した新参者に過ぎません。粗相があればすぐさま放逐されてしまうような無茶振りの出兵でしたが、赤澤宗益は見事期待に応えて遊佐弥六の追い出しに成功します。細川政元も並行して畠山義豊との講和をまとめあげ、赤澤宗益が山城上三郡(南山城)の守護代ということになったわけです。その結果、古市澄胤は守護代の地位を追われることになるのですが、赤澤宗益の存在は強く印象付けられたようです。一言で言うと、古市澄胤の後半生は赤澤宗益に振り回され続けることになります。赤澤宗益の武芸は現代の小笠原流につながる弓法の達人であり、東山文化の担い手である室町殿、足利義政の上覧に耐えうる程の完全性を備えたものでした。そして古市澄胤はその技前を美として受け取ることのできる感受性の持ち主でもあったのです。

 古市家の勢力範囲の北に位置する宇治では茶が栽培されており、古市家では茶会(と言っても茶の湯的なそれではなく、文字通りのお茶が振る舞われるパーティー)がよく営まれておりました。古市家は大和国人の中では抜きんでて家中の結束の強い一族でしたが、この茶会も縁を深める役割を果たしていたものと思われます。
 そんな折、古市澄胤は茶の湯の開祖村田珠光に出会います。珠光の茶の湯は一休宗純から学んだ禅の精神を取り入れつつ、四畳半の狭い書院造りの茶室で振る舞う茶は古市家で行われている淋汗茶湯とは全く異質で後に千利休が茶道にまで昇華される茶の湯の元祖と呼ばれるべきものでした。古市澄胤は村田珠光の茶の湯に新しさを感じ取り教えを乞いました。村田珠光は一休宗純仕込みの茶の湯のエッセンスを一文にまとめあげ、「心の文」と題して送ったものが現代に残っております。残念ながら二人の交際がいつごろ始まってどんな内容であったかは詳らかではありませんが、心の文の精神は現代茶道にもつながっているものでもあります。その一節に「冷え枯るる」という文言があるのですが、これは茶を人生の寄る辺として突き詰めた者が到達する境地を表現したものです。古市澄胤は町屋の家屋の屋根に乗せられた風押さえの自然石の中から奇妙な形のものを見出しました。それは暗褐色の石の上部が白くなっているものでしたが、古市澄胤はこれを春近い山の峰に残る雪と見立てて「残雪」と銘じて盆石に仕立てます。これは後に大名物として珍重されて現代の西本願寺に伝わるものなのですが、古市澄胤がこの「残雪」を通して珠光の言う「冷え枯るる」境地の意味を思索したと思えば、大変興味深いものでありましょう。

 しかし、戦乱の世は古市澄胤をして精神を冷え枯れさせる暇を与えてはくれませんでした。赤澤宗益が遊佐弥六を山城国から追い出した翌年、1497年(明応六年)十一月、古市澄胤は白豪寺近辺で復活してきた筒井氏勢力と激突して大敗を喫し、大和国を没落することになります。そしてこれが古市澄胤と赤澤宗益との再会のきっかけにもなるのでした。

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