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2016年3月 5日 (土)

中漠:明応軍乱編⑩戦国仏教王国の内情

 前稿において、赤澤宗益が山城・大和を席巻した話を書きましたが、彼はあくまで地元に地縁を持たない外様でした。それがチートに勝ちを重ねることができたのは、大和国に有力な協力者がいたためです。その名を古市澄胤と言います。彼の一族は仏教王国大和において、興福寺宗徒でありながら畠山氏、伊勢氏、細川氏らの外部勢力の支援を受けることで勢力拡大を図っておりました。これは他の大和国の国人領主達にも当てはまることではありますが、その中でも古市澄胤はその勢力にて仏教王国に甚大なダメージを与えた異端児とも言えるでしょう。

 彼の事績を述べる前に、大和国の他国とは一風違った独自の権力構造について述べたいと思います。
 興福寺とは、南都六宗の法相宗の大本山であると同時に藤原鎌足を祖とする藤原一族全ての氏寺です。氏寺であるがゆえにこの寺は藤原一族が藤原一族であることを保証する役割を持っていました。逆に言うと藤原氏から勘当、すなわち籍を抜く権限も有していたのです。興福寺に対して不利益を働いた藤原一族の者に対して、興福寺が以後藤原氏を名乗ることを認めなくすることを放氏と言います。放氏された者は官位や官人たる資格を剥奪されるため、その人物は朝臣としては何もできなくなってしまうのでした。かくして朝廷が日本国を掌握し、その朝廷を藤原氏が牛耳っていた時代においては絶大な権威を持っていたのです。
 源頼朝が幕府を開き全国に守護を置いた時も、大和国には守護を置くことはできませんでした。室町時代に至っても一貫して大和国の太守としての役割は興福寺別当(住持のことを興福寺に関してはこの呼び方をします)が担っていたわけです。その別当職は代々主に摂関家出身の人物が担うことになっていました。そして摂関家出身の興福寺別当が入るべき塔頭が用意されます。それが一条院と大乗院でした。一条院は摂関家筆頭の近衛家の子弟が、大乗院は九条家の子弟がそれぞれの塔頭の門主を務め、それが交替で興福寺別当に就任して大和国太守の職責を担ったわけです。
 藤原北家の嫡流は近衛家ですが、九条家は鎌倉時代に幕府に接近した結果一族から将軍や摂関を出せる家格となりました。そのせいか両家の間柄は必ずしも良くはありません。その対立は一条院と大乗院にも波及し、時に協力して春日神木を上洛させ幕府や朝廷に対し権威を誇示することもありましたが、対立して武力抗争に走ることも稀ではありませんでした。
 春日神木を担ぎ、武力抗争を行う役割を担ったのが一条院、大乗院それぞれについた宗徒、国民衆でした。両者はともに興福寺領の荘園における荘官から身を起こした武士であり、両者の違いは宗徒は法体、国民は俗体であることにあります。
 一条院、大乗院の対立は朝廷・幕府の関係によっても規定されます。南北朝時代においては大乗院が南朝方につき、これを大和国民十市氏が支援をしております。永享年間においては両塔頭の対立が武力抗争に発展しました。一条院派は宗徒筒井氏、国民十市氏、大乗院方には国民越智氏、箸尾氏が合戦を行い、足利義教の介入を受けて越智維通が討伐されております。筒井、十市、越智、箸尾を総称して大和四家と言います。
 古市氏は大乗院に属して興福寺に在勤する官務宗徒の一族です。但し、大和四家と比べて家柄自体は遜色ない程古くはあるものの、さほど大きな家ではなかったようです。ただ、この一族の特徴として商業活動を重視し、客を招いて茶会等を行うなど、当時の国人領主としては異例の新機軸を打ち出していました。茶会と言っても当時は利休流の茶道はなく、どちらかと言えば佐々木導誉が行ったような贅を尽くしたパーティーに近いものだったと言います。こういう規格外なことをすると周囲からはにらまれるものですが、古市氏はこれを逆用して一族内の結束強化につなげていきました。

 永享年間の大和国の動乱で筒井氏が越智氏を打ち負かした形になったのですが、その後筒井氏が内部分裂します。それに付け込んで大乗院門跡経覚が反撃とばかり筒井氏を追い詰めてゆきます。そこで経覚の配下で実働したのが古市澄胤の父、古市胤仙でした。この勝利は一時的ですぐに筒井氏の反撃を受けてしまい、逆に大乗院に築いた砦をおとされてしまうのですが、そのご古市胤仙が経覚を自分の城に囲って勢力回復に努めます。
 余談ではありますが、この経覚、越前国に大乗院の荘園を持っておりまして、その荘官に和田本覚寺の蓮光をつけていたりします。応仁乱中に延暦寺に弾圧された蓮如に越前行きを勧めたのがこの経覚であり本願寺教団との接点を持っていた人物でもありました。
 大乗院門跡・古市氏VS筒井氏の抗争は、古市胤仙が亡くなった間隙をついて経覚と筒井氏が和睦することで終結します。古市胤仙の後継者である嫡男古市胤栄ら古市党は、当主と担いでいた神輿を同時に失ったことになります。もっとも、この時、古市胤栄は十代半ばの少年でありましたので、戦争継続が難しかったのは確かでしょう。
 その後、応仁の乱が勃発します。大和国を応仁の乱の戦渦に巻き込んだのは畠山政長と義就の争いでした。河内守護の畠山氏が京に影響力を及ぼそうとするとすれば、大和国はその重要な軍路となりえます。畠山政長は筒井氏、箸尾氏、十市氏を味方につけ、越智氏、古市氏は畠山義就に与した結果、大和国を二分する戦いになりました。
 文明七年に春日社での激突で古市氏は大敗を喫し、その責を負って古市胤栄は家督を弟に譲ります。その弟こそが、古市澄胤でした。 

 古市澄胤は大敗した古市氏を立て直して応仁の乱が終わるころには概ね彼らが属した西軍有利な形で終わります。しかし、大和北方の南山城で畠山政長・義就の争いが続いていたことに山城国人がこの二人を放逐し、自検断をする独立国を作ってしまいました。一応そこに守護として伊勢貞陸があてがわれたのですが、事実上お飾りの守護でした。

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