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2016年4月29日 (金)

中漠:明応軍乱編⑰明応大震災

 二三年ほど前にとある歴史シンポジウムを見に行った折の話です。シンポジウムのテーマは三河一向一揆についての話で、本稿でも題材をとらせていただいている村岡教授等の他、質疑応答では新行紀一氏や平野明夫氏等、戦国時代のこの地方の歴史を語る上では外せない面々がそろい踏みしていて大変聞きごたえのある講演でした。
 そのパネリストの一人に峰岸純夫氏がおられました。大学教授を退官されており、寒い冬の日に暖かそうなセーターを着て気さくに話をされていたのが印象に残っております。その峰岸氏の発表内容も大変勉強になったのですが、その話の中に戦国史に明応地震の影響を考えるべき、と言う指摘があったことが強く印象に残っております。そのシンポジウムは東日本大震災が起こった後のことでしたので、そういう話題もタイムリーであったことも一因かもしれません。
 本稿において、ちょうどその時代に差し掛かりましたので、一稿設けたいと思います。※

 明応地震は二度あったと言われています。1495年(明応四年)八月二十五日と1498年(明応七年)六月十一日です。いずれも大津波を伴った地震で関東東海地方に甚大な被害を及ぼしたそうです。
 とは言ってもこの明応四年の方は典拠とされた史料が鎌倉大日記のみでして、その記述にしても、津波で鎌倉大仏の大仏殿が流されたなどと書かれていたりするのですけど、この地震の日以前に鎌倉大仏を見に行った人の記録にその時点で大仏殿はなく、今と同じく鎌倉大仏は露天にさらされた状態だったなどとあり、鎌倉大日記には不整合な記述もあって、この明応四年の地震はなかったか、あったとしても明応七年地震と混同されたのではないかと言われておりました。しかし、『御湯殿の上の日記』と『後法興院記』にて同日に京都で有感地震の発生が記録されていることと、金子浩之氏の地質調査で明応七年の地震で起こった津波では起きえない場所に津波堆積物の地層が見つかったことで、この鎌倉大日記の記述が見直されつつあるとのことです。

 ちょうどその年、伊勢宗瑞は扇谷上杉氏の家臣大森藤頼が守る小田原城を攻め落としているとされているのですが、北条記などには、宗瑞が火牛の計をもって小田原城を乗っ取る。などという書かれ方をしています。火牛の計とは、牛に松明を取り付けて敵に向かって突進させるという絵面的にはとても派手な戦法ではありますが、北条記に描かれた火牛の使われ方はいわゆる見せ勢で、夜中に松明を取り付けた牛を後方に並べて実際の戦力より多いように見せかけたのでした。実際に夜中に火と大量の牛を使うのはリスクの大きい戦法であってあまりリアリティはありません。
 しかも、小田原城主の大森藤頼について、この時今川家と扇谷上杉氏は同盟関係にあって、伊勢宗瑞も先代の定正の為に援軍を出したことがあります。地震の一年後山内上杉軍が小田原城を攻めたのですが、宗瑞の弟伊勢弥二郎盛興とともに大森藤頼も小田原城を守っていたという記録があるそうです。
 前述の金子浩之氏の研究によると津波を牛に例えることがあり、これもそれではないかとのこと。すなわち、今川と扇谷上杉の同盟で津波にあった小田原城の支援を伊勢宗瑞がおこなったようです。この城は明応十年までに大森氏の内紛に乗じた伊勢宗瑞が手中に収めたので、このような話になったのではないかということらしい。

 伊勢宗瑞の小田原侵攻伝説の一年前、今川氏親は遠江に攻め込んでいます。そのさらに一年前に京では明応の政変が起こってますので、それに呼応した動きであろうと思われます。遠江は応仁の乱の時に氏親の父である義忠が塩買坂で討ち死にしていて、今川氏親にとっては因縁の地です。また、今川了俊の家系の瀬名・堀越今川氏が中遠地方で頑張っていましたのでこれと組んで征服に取り組もうとしたと思われます。この遠征軍の指揮官も伊勢宗瑞だったりするので、宗瑞は東へ西へとこき使われておりました。
 この遠州侵入に対抗する勢力としては、斯波氏の守護代甲斐敏光がいたはずなのですが、この時期の消息は不明となっております。明応三年の遠江侵入については、翌年・翌々年に伊勢宗瑞が東方へ派兵している模様なので、本格的なものではなく、今川氏が本気を出すのは文亀元年になってからです。その時の斯波側の主力となったのが守護である斯波義寛とその兄弟たちであり、この時点で遠江守護代甲斐氏の名前が消えてしまっているのですね。
 これを明応七年の地震と津波によるものと考えるのはうがちすぎでありましょうか? とりあえず、それまで代々在京で守護代をやっていた者がすでに在地の国人・土豪の秩序の中に割り込むわけですから、それは簡単なことではありませんし、甲斐敏光はそれまでずっと越前守護代奪還戦を戦った末に敗れた結果の遠江入りなのですから、守護代として国をまとめる求心力は持っていなかったと思われます。それでも何とか秩序をつくったとしても、襲ってきた地震と津波にはなすすべもなかったのではないでしょうか。

 当時の地震の凄さを示すエピソードとしては地震以前の浜名湖は陸で区切られた淡水湖で、遠淡海(とほつあはうみ)すなわち遠江国の語源となった湖でした。ちなみに近淡海(ちかつあはうみ)は琵琶湖のことで近江の語源となっています。浜名湖の湖水は浜名川を通って遠州灘に落ちていたのですが、津波によって浜名川そのものが粉砕されて浜名湖と遠州灘がつながってしまい、浜名湖は塩湖となったとのことです。
 この地震と津波被害は遠州だけではなく、東海地方全域及び、紀伊半島東岸に波及しました。今川氏親と伊勢宗瑞のいた駿河国においても、沼津、清水、焼津といったおもな港が壊滅的打撃を受けています。しかし、そうした中でも駿河国は国としての統治形態を保ってなお精強でした。それに対して周辺国は自然の猛威になすすべもなく打ちのめされていたと思われます。その一つが伊豆半島の根深城でした。ここは伊勢宗瑞の伊豆入り後も独立勢力を保っておりましたが、伊勢宗瑞は地震後に兵をここに入れて占拠します。一説によるとここには足利茶々丸が潜伏していて、堀越公方家の再興を狙っていたのですが、まさに天に見放された形で自害を強いられたらしい。
 駿河今川氏はこの地震においても勢力も保ちえたのですが、それが故に壊滅的打撃を受けた近隣諸侯に対し、救民の旗を掲げて勢力を広げる名分と義務を負うことになりました。その勢力を保ちえた理由ですが、私は安倍金山などの金鉱の存在を考えています。詳しくは折を見て別稿を立てる予定です。
 この前後遠江今川氏の一秀が駿府と清水港の中間にある瀬名に住し、瀬名を氏とします。今川了俊の子孫です。氏親の補佐の為に移住したと言うことになっていますが、時期的に遠江国が今川家傘下に入るにあたって、自身で崩壊した遠江国にいる親族への援助ともとらえることもできるかもしれません。そして、救民の視線はさらに西へと進んでゆくのでした。

※本稿を含めたブログ記事は書き溜めたものを順次公開しているのですが、本稿は熊本地震以前に書いていたものです。被災者の方にお見舞い申し上げるとともに、わが国はこういった大きな災害が頻繁に起こる場所であることを思い起こさざるを得ません。

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2016年4月23日 (土)

中漠:明応軍乱編⑯後北条家の宗旨報告書Ⅰ(伊勢宗瑞)

 本稿の内容はほぼ「今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川義忠~今川氏親)」に被ります。
 今川義忠の正室は伊勢新九郎盛時の姉の北川殿でした。彼女が嫁した今川家は他家同様ごたごた続きであり、盛時は姉を助けて駿河へ下向するわけです。この北側殿輿入れの二年前に伊勢新九郎盛時の弟である賢仲繁哲が駿河国焼津(静岡県焼津市)に林叟院という曹洞宗寺院を建立しております。これは今川義忠と北側殿との婚姻が家格相応の物であり、恙ない結婚生活を送るため準備とみればよいかと思います。後に、今川義忠が急死し、義忠の従兄弟の小鹿範満がお家乗っ取りを企んだ折、焼津にある小山城の長谷川正宣を頼って嫡子龍王丸とともに逃れております。その折に弟の賢仲繁哲が近くにいたことは大変心強かったろうし、もう一人の弟盛時を呼び寄せるきっかけとなったことは想像に難くありません。
 最初は小鹿範満を陣代として認めることで妥協した北川殿も、龍王丸が成人しても陣代を返上しない範満をみて、1487年(長享元年)十一月九日、再び弟を呼び寄せてこれを滅ぼします。その功をもって伊勢新九郎盛時は今川龍王丸、元服して氏親から興国寺城を与えられ、今川家に仕えることとなりました。

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 伊勢新九郎盛時が興国寺城に入った伊豆国修善寺にある修禅寺に叔父の隆渓繁紹を入れます。修禅寺はもともとは真言宗寺院で源範頼、頼家が幽閉され殺害された場所であり、蘭渓道隆が臨済宗の禅寺に改めたのですが、その後廃れておりました。それを曹洞宗寺院として再興させたのです。但し、修禅寺のある伊豆国は今川領ではありません。堀越公方足利政知の直轄地でした。彼は足利義教の次男であり、影響の乱で鎌倉公方足利持氏が滅ぼされた後の関東を支配すべく送り込まれたのですが、地元の諸侯の支持を得られずに伊豆一国に押し込められた形になっておりました。

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 堀越公方足利政知には三人の息子がおりました。茶々丸、清晃、潤童子の三人です。茶々丸と清晃、潤童子とは母親が違っておりました。一応茶々丸が嫡男でしたので、清晃は僧籍に入れられ、潤童子もいずれはそうなるものと思われましたが、一説によると二人の母親の円満院(武者小路隆光の娘)が我が子かわいさのあまり茶々丸について讒言し、その結果茶々丸は素行不良のかどで廃嫡の上、土牢に幽閉の身となったそうです。足利政知は足利義教の次男であり、将軍になる見込みはありませんでした。しかし、彼が僧籍に入った後、兄義勝が急死し、僧籍に入る前の弟の義政がその後継となったのです。間が悪いと言えば間が悪いものです。政治の都合で持氏亡き後の関東公方に選ばれた折もそうでした。還俗させられたのは二十三歳の時です。しかし、幕府は関東公方が独立されることを恐れ、十分な兵力でサポートしなかったために、持氏の遺児の成氏が古河公方として復活してしまった結果、関東全域を支配する予定だった足利政知は伊豆一国に押し込められたのです。足利茶々丸は父政知が還俗した二十三歳の時から次男清晃が生まれた四十七歳の間に生まれた息子です。しかしながら、現代に幼名以外の名は伝わっていないのですね。茶々丸の廃嫡が決まったのが、1487年(長享元年)六月でこの時廃嫡に反対した関東執事の上杉政憲を自害させております。この時点で元服していない年齢となれば、概ね、1475年(文明七年)当たりの生まれであろうと推測できますね。
 ただ、政知は関東公方をあきらめたわけではありませんでした。清晃・潤童子の母親は武者小路隆光の娘で彼のもう一人の娘は九条政基に嫁いで聡明丸という息子がいました。聡明丸は二歳の時に細川政元の養子となっております。姻族つながりで細川政元との縁ができたのです。

 伊勢新九郎盛時が伊豆国修禅寺に叔父隆渓繁紹を入れて再興させたのはこの時期でした。多分ではありますが、伊勢新九郎は修禅寺を通して興国寺城にいながらその情報を探っていたものと思われます。修禅寺再興の翌々年、1491年(延徳三年)、堀越公方足利政知が病死します。次男の清晃(この時数え十一歳)は京の天龍寺香厳院におります。一応僧籍に入っているわけですが、この時点で細川政元は京の室町殿足利義材を見限っており、清晃を次期将軍にすべく、時期をはかっておりました。政知の突然の死は、細川政元にとって関東平定が遅れることを意味しました。但し、関東公方としての足利政知はほぼ京都の傀儡であり、その意味ではその後継に幼君が就くことは歓迎されるべきことでもありました。後継者として指名されたのは廃嫡された茶々丸ではなく、三男の潤童子でした。茶々丸はこれに反発し、挙兵して潤童子とその母親円満院を殺害し、自ら二代目堀越公方を名乗ります。もちろん、単純に私怨で弟や母親を殺害しても誰も賛同しないでしょう。廃嫡に反対した上杉正憲の意を汲む勢力が堀越御所の中にいたはずです。しかしながら、それは管領細川政元にとって受け入れられるものではありませんでした。この機に城して興国寺城の伊勢新九郎盛時は伊豆国に侵入して韮山城を抑えます。それは西伊豆の出口に蓋をして、一時的にではありますが、この政変の影響を国外に出さない効果を生みました。
 その間に管領細川政元はクーデターを仕掛け、室町殿足利義材を蹴落とし、天龍寺香厳院の清晃を還俗させて時期室町殿としました。足利十一代将軍義澄です。新将軍は母親と弟を殺害した異母兄を許しはしませんでした。その意向を受けて1493年(明応二年)十月に伊勢新九郎は堀越御所を攻め、足利茶々丸を追放します。かくして堀越公方は二代で滅亡し、細川政元による関東掌握計画は一時的に頓挫することになります。

 北川殿とともに伊勢新九郎を駿河国に呼び寄せるきっかけを作った弟の賢仲繁哲と伊勢新九郎の伊豆侵攻の先駆けとなって修禅寺に入った叔父隆渓繁紹はともに曹洞宗の僧侶であり、遠州石雲院の崇芝性岱に学んだ同門でした。彼らは同じ曹洞宗であっても今川氏が元々受け入れていた華蔵・海蔵流(道元の弟子が九州を中心に教えを広めた方)ではなく、能登国総持寺三世の峨山韶碩(三代争論で永平寺を飛び出して作られた方)より大源・恕仲の流れを汲む宗派でした。

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2016年4月16日 (土)

中漠:明応軍乱編⑮本願寺参戦Ⅱ

 両畠山家が和睦に至った経緯を考えるに、尾州畠山尚順が一度手痛い敗北をして両勢力が拮抗したことや、総州畠山家の後ろ盾の細川政元の政権基盤が薬師寺らの反乱で揺らいだことも考えられるのですが、石山御坊の蓮能の存在もあり得たのではないかと想像します。まずは旧宗家の血筋である事。また、法体であるので俗世利益からは中立であるように見えます。そして何よりスーパースター蓮如の嫁というステータスは両畠山による無間地獄のような抗争を終結させる仲介者に誰よりもふさわしいように見えます。
 ただ、蓮如が山科本願寺の法主の座を実如に譲って石山御坊に入る理由、それも畠山家の血を引く蓮能とその子供たちと一緒に移り住む理由は細川政元の期待に応えること以外に考えにくいです。すなわち、説法で総州畠山家支持者を増やし、尾州畠山を追い詰めることです。蓮如は優れた話術をもった説法のエキスパートでもありました。なので、それは決して困難なことではなかったでしょう。
 ただ、それが実現する前に蓮如は亡くなりました。石山御坊に残された蓮能とその子供たちは自分たちがすべきことを自分たち自身で考えたとすれば、彼女らの目標はおのずから両畠山の和睦というようなことになるのではないでしょうか。それを前提とした和議であれば、両畠山家は長きにわたって対立抗争を捨てて共存共栄の道を選択したことになり、畠山一族全体にとってこれは目出度いことでもあるのですが、そうは問屋がおろしませんでした。

 両畠山家の和議を知ると、細川政元は即座に山科本願寺に河内出兵を命じます。この頃細川政元は畠山家が分裂抗争をしていた間隙をついて大和国を確保していました。もっとも実働部隊の赤澤宗益が謀反の罪で逃亡していたのですが、政元は一族の細川政賢、政春らを大和に派遣して興福寺と和議を取り結んでおります。一方河内の畠山が一つにまとまってしまえば、好むと好まざるにかかわらず、大和国への細川家の影響力が脅威にさらされます。そして、それをもたらしたのが、蓮如の嫁の畠山旧宗家出身の蓮能ということになれば、細川政元としては山科本願寺の裏切りを疑わざるを得ません。仏教教団に自らの意志で参戦せよと命じるのはこれ以前は無かったはずです。元寇の頃であっても、武士以外の組織に敵と戦えと命じることはあり得たとは思えないのですが、蓮能の関与が疑われていたとすれば、細川政元としては本願寺実如に「ショウ・ザ・フラッグ(旗幟を鮮明にせよ)」を迫ることは当然でしょう。

 これは実如にとっては寝耳に水の事でもあったはずです。自分たちは仏教組織であることを盾に拒否しようとしましたが、本願寺教団にはかつて加賀で一向一揆をおこして守護大名である富樫政親を自害に追い込んだ前科があり、それを細川政元に許してもらった経緯がありました。断りきれずに石山御坊の蓮能たちに細川方として参戦せよとの命令を伝えたのですが、今度はその石山御坊からそんな前例はないと拒否をされてしまいました。この頃の本願寺は信長の頃のような教団としての統制は全く取れておりませんし、そんな準備も行っていませんので石山御坊が拒否をしたのは当然と言えば当然なのですが、経緯が経緯なだけにそれをそのまま細川政元に伝えるわけにもいきません。結局の所、加賀から兵を募って河内へ派兵することとなりました。
 本願寺の派兵は畠山尚順を刺激したようです。その報復からか、尚順は古市澄胤を除く大和国人衆全員を味方につける約定を取り付けてこれに対抗します。実如としては一刻も早く事態を収拾させたかったのですが、今度は石山御坊の方が北陸門徒の動員に憤って本山の本願寺を見限って分派独立を策するようになりました。これを許せば山科本願寺は細川政元に潰されかねません。実如は苦渋の決断の上で、石山に下間頼慶を派遣して蓮能一派を拘束しました。これを称して大坂一乱、もしくは河内国錯乱といいます。
 細川政元は大和国に対しては逃亡中の赤澤宗益を赦免、山城守護代に戻した上で三好之長をつけて大和・河内攻略を命じます。そして本願寺に対しては加賀と国境を接する越前国と越中国に対して開戦を命じました。越中国に対しては般若野で長尾・神保連合軍を破ったりしますが、越前国に対しては九頭竜川合戦で大敗を喫します。越前国の朝倉貞景はこれを機に国内の本願寺教団を禁教し、全ての寺院を焼き払いました。蓮如とも所縁の深い吉崎御坊を初めとして、和田本覚寺、超勝寺ら越前にあった本願寺派寺院は悉く焼き払われて僧侶たちは門徒を引き連れて加賀に落ち延びます。それ以後、彼らは加賀において越前奪還運動を叫ぶようになりますが、それが後々本願寺教団内部の抗争の火種となってゆきます。

 この後、実如は嫡男円如と弟蓮淳を起用して教団内部の統制を強化しはじめます。蓮能を初めとする畠山家の血筋は本願寺教団(の中の蓮如の血筋)においては一段下の存在として見なされるようになりました。法主の一族に一門一家制を敷いて序列を定めるのですが、これにおいて連枝の資格を持つはずの実賢・実従らは一家の扱いとなります。法主の異母弟の蓮芸も連枝として扱われているにもかかわらずです。蓮能は畠山家の共存共栄を望んだはずが、全てが裏目にでてしまったわけです。
 細川政元は内衆である波々伯部氏、中途採用の赤澤氏らの自力勢力による勢力拡大に限界を感じて後、なりふりかまわず阿波細川氏や本願寺教団の援軍・蜂起を促しましたが、その協力者をもう一つ次稿にて紹介します。山城国一揆から提携関係にあり、本願寺教団に対しても法主の姻族として影響力を持っていた伊勢氏です。

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2016年4月 9日 (土)

中漠:明応軍乱編⑭本願寺参戦Ⅰ

 本稿の内容は過去『川の戦国史』で書いたことと概ね内容が被っております。具体的には細川政元の要請を受けて本願寺九世法主実如が門徒衆を参戦させたところです。しかし、明応の政変から引き続く細川政元の軍事行動の流れにそってこれを見ればまた新しい発見もあるのではないかと思い改めて書いてみました。

 まずは『川の戦国史』で書いたことのおさらいです。実如の先代の蓮如は宗教界のスーパースターでした。彼一代で延暦寺青蓮院の一末寺に過ぎなかった本願寺が一大教団に発展して門徒衆を組織し、加賀国を支配するまでに至ったのでした。それは蓮如個人の非凡な才能によるところも決して小さくはなかったのですが、僧の妻帯を可とする浄土真宗開祖の親鸞の血統を教団の特徴とする本願寺には室町幕府中枢との人脈も自動的についてまわっておりました。
 まずは親鸞自身、貴族である日野家の出身と伝えられております。日野有範の息子であるらしいのですが、異説もあるとのことです。少なくとも親鸞廟を本願寺として寺院化し自らを本願寺三世と称した覚如は日野広綱の孫であることは間違いなく、以後歴代の本願寺法主は日野一門の猶子となっています。蓮如は日野一門の広橋兼郷の猶子、蓮如の後継者である実如は裏松日野勝光の猶子です。日野勝光は足利義政の正妻日野富子の兄であり「押大臣(おしのおとど)」と呼ばれた剛腕政治家でもありました。

 蓮如には五人の妻がいて、その内の第一、第二夫人が伊勢氏から、第五夫人を能登畠山氏から迎えており、それぞれの息子が本願寺教団の枢要を担う諸寺院の住持として収まって幹部連を形成しておりました。第一夫人の如了の息子たちが加賀の寺院を持っているのは、加賀一向一揆で守護の富樫政親を倒してしまい、以後加賀の政務を事実上加賀の三ヶ寺が担うことになってしまったためです。(長子の順如は蓮如より先に亡くなりました)蓮如は応仁の乱中越前と加賀の国境にある吉崎に逗留して布教を行った結果なのですね。富樫政親は幕府に加賀守護を任せられた重臣であり、直前まで足利義尚の六角征伐に従軍していた人物です。それに反逆して死に至らしめてしまったので、蓮如がその責任を問われかけたわけです。その時に反乱を起こした加賀門徒衆には「叱りの御文」という譴責状を出すことで許してもらえました。本来はそのようなことで許してもらえるはずもないのですが、蓮如を処罰した場合加賀門徒衆が暴徒化する恐れもあり、蓮如に対しては不問に付されました。日野家や伊勢家のとりなしもあったものと思われます。しかし、本願寺教団はこれで細川政元に対して大きな借りを作ってしまいました。

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 蓮如の第五夫人蓮能は畠山家出身でした。畠山庶流ではあるのですが、細川清氏の乱の時に没落した畠山国清の系統であり、国清の失脚がなければ本来の嫡流でありました。応仁乱時の当主である政栄は畠山義統に仕えて西軍に属しております。蓮能が蓮如に嫁した時期は1486年(文明十八年)、蓮如実に七十二歳でありしかも蓮能との間に五男二女を設けるという絵に描いたような絶倫振りでありました。
 しかし、この翌々年、加賀一向一揆が起こって富樫正親が一向一揆衆に責め殺されてしまいます。能登守護の畠山義統は富樫政親を支援しておりましたので、本願寺と嫁の実家との関係は冷え込んだとも思われるのですが、大事に至りませんでした。先に述べた通り細川政元に借りを作ったのですね。

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 明応の政変の三年後、1497年(明応六年)蓮如は山科本願寺を実如に任せて自らは摂津石山に移ります。寺務の引き継ぎ自体はその六年前に済ませておりました。摂津石山は摂津欠郡と呼ばれる地にあり、摂津の国ではありながら分国として摂津国守護の支配は及ばない土地でした。そして摂津国人一揆が起こった1482年(文明十四年)までは畠山義就に抑えられてもいた所でもあるのですね。その地に蓮如と本来の畠山宗家である血筋の蓮能が入ったのです。とてもではないですが、隠居や遁世の沙汰ではないと思われます。国の境目の川沿いに根拠地を置くのは蓮如の常道でした。
 おそらく蓮如は細川政元への借りを返そうとしていたのではないでしょうか。すなわち、畠山旧宗家の血筋を引く蓮能とともに石山(大坂)に入り、河内の国人・土豪衆を門徒化、組織化することによって畠山義就・政長の対立を超えた第三極を作ろうとしたのかもしれません。しかし、現実は蓮如たちの思惑を超えて性急で、事態はより流動的でした。畠山義就の病死を機会に畠山政長が足利義材を動かして義就の子、基家(義豊)を討つべく河内遠征に出たのです。これには蓮如もあわてたはずですし、細川政元もこれはあずかり知らぬことでした。しかし、細川政元はクーデターを起こして遠征軍の糧道を断ち、畠山政長は基家(義豊)の反撃を食らって自害に追い込まれます。
 その後細川政元は畠山義豊(基家)と結んで同盟を結びますが、その義豊は六年後に畠山政長の遺児尚順に討たれてしまいます。その同じ年に蓮如は示寂するのです。石山には蓮能と実賢を頭とする息子たちが遺されました。
 それまでは総州家とつながった細川政元の支援を受けた石山御坊の摂河泉における役割は明確であったのですが、蓮如と畠山義豊が相次いで亡くなったことで迷走します。本願寺の方を見るにしても、後継者の法主実如の母親は伊勢氏の出身であり、本寺の統率に唯々諾々と従うことに抵抗があったものと思われます。
 総州畠山義英にとって、尾州畠山尚順は父義豊を討った親の仇であり、尚順の父政長はその総州畠山義豊(基家)に攻め殺されています。いわば双方の家が親の仇でありこの内乱は妥協点を見いだせないようにも思われましたが、赤澤宗益の大和進撃が止まって、薬師寺元一の反乱などで細川政元の権力基盤が揺らいだタイミングで意外なことが起きました。無間地獄の如き根深い抗争を繰り広げていたと見られていた両畠山家が何と和睦に至ったのです。

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2016年4月 2日 (土)

中漠:明応軍乱編⑬阿州参陣

 明応のクーデターの後、細川政元は叡山や南都の寺院を焼き払って威勢を示しますが、それで足利義尹や畠山尚順らが屈服するわけでもありませんでした。むしろ攻勢限界点に近づいているかのようにも見えました。それは赤澤宗益が軍事能力には優れていても、占領地を統治・支配する能力が欠けていたこともありました。細川政元はクーデターの折に将軍家直属の奉公衆を解体しておりました。なので、政元が使える兵力は自らが守護を務める丹波衆・摂津衆と一門衆が治める阿波・讃岐、和泉ほかいくつかの国からの兵力しかありません。その内の摂津衆は応仁の乱の最中にずっと畠山義就に占領されていたせいで、乱が終わってそこを取り返したまではよかったのですが、そこにいた細川家の被官たちはすっかり畠山派になってしまっていたため、叛乱を起こされてしまいこれを弾圧してしまった結果、一世代ほど使い物になりませんでした。薬師寺元一や長忠らが守護代としてこれを支えてはいましたが、これとて応仁の乱後に二人の父親の元長が、叛乱を起こした茨木氏や吹田氏の後釜に据えられたもので、ほぼ新参者といってよいでしょう。
 丹波衆は細川家近習として政元を守る任務を担っております。したがって、細川政元が自らの手駒として使えるのは赤澤宗益のような新規採用の外様くらいであったでしょう。使い捨てにしても畠山氏のように子孫・一族がわらわらと湧いて出て勢力が維持されることは起きえないからだろうなと推察します。これが結構使い出がよく、かつ宗益自身も武将としては有能かつ慣習や迷信にとらわれずに真摯に勝利を求める豪傑でありました。しかし、その背景に一族郎党がいないと占領地の維持もままなりません。しかも攻め込んだのが仏教王国の大和でした。桓武天皇が逃げ出すほどの強力な地元勢力が蟠踞する難治の土地であり、古市澄胤を味方につけたくらいでは如何ともしがたかったわけです。

 そこで細川政元はテコ入れを画策します。それは阿波守護家の兵力を自分の命令で使えるようにすることでした。阿波守護家は細川成之は阿波、讃岐、三河の三国の守護を兼務しておりました。三河守護の役職は一色義貫を足利義教が粛清した後始末によこされたものであり、もともとが足利一族の第二の本貫地で御一家衆である吉良家の領地があったり、政所執事の伊勢氏が管理する将軍家直轄領があったりして、ただでさえ権力構造がややこしいところに、守護大名として国人衆の被官化を進めようとした矢先に応仁の乱が始まってしまい、細川成之の支配が及ばなくなっていました。その後を吉良氏や伊勢氏がおいしくいただいた感じです。残りは阿波と讃岐です。細川和氏以来の根拠地であり、一門衆が強力な支配力を及ぼしています。三好之長のような有能な武将も抱えていて戦力に期待を持てる勢力でした。細川政元にとって足利義尹を周防に追いやった後の当面の敵は畠山尚順です。大和を抑えた後はそのまま河内に攻め込みたいところでしたが、難治の大和国を維持すること自体に困難さが付きまとっております。赤澤宗益は軍事的には強いが、譜代の家臣団を持っていないので統治はできませんし、古市澄胤も興福寺を頂点とする大和国の中では並び名士の一つにしかすぎません。というか、国人クラスで突出した者が出てこないようにするのが興福寺のシステムで、その中で野心をむき出しにした古市澄胤に対しては他の国人たちが総スカンをくらわしています。

 そこで三好之長を直属の部下とするためにとった手段は嫡男として九条家から養子に迎えた聡明丸(後の澄之)を廃嫡して阿波細川家から成之の孫の六郎(後の澄元)を迎えたのです。この時、聡明丸と六郎はともに満十五歳。後継者としての器の違いなど判る筈はありません。にもかかわらず廃嫡を強行したのは六郎の背後にある阿波守護家の力が必要だったからなのでしょう。その力の象徴が六郎の執事として上洛してきた三好之長でした。もっとも、三好之長は京風の礼儀作法に疎く、長期にわたる洛中従軍の兵糧確保のために平気で町衆の土蔵を襲ったり、自ら土一揆を起こしたりしたために、体面を重んじた阿波守護細川成之から帰国命令をくらったほどのいわくつきの人物でした。もちろん京雀たちからは蛇蝎のごとく嫌われております。
 この事態に動揺したのが丹波衆、摂津衆、そして新参の赤澤宗益でありました。摂津守護代の薬師寺元一と山城守護代の赤澤宗益は叛乱を起こして片方は斬罪となり、もう片方は罪を許されて引き続き山城守護代を続けることができました。さらには、そのゴタゴタの間に味方の筈の畠山義英が尚順と和睦をしてしまうおまけまでついてしまいます。それ程までに阿波細川家の参陣、その中でも三好之長が細川政元の手足となって戦うことには大きなインパクトがあったわけです。
 実際のところ、三好之長の本質は赤澤宗益とさほどかけ離れているわけでありませんでした。ともに伝統を鼻にも掛けずに、必要に応じて軍事力を用いるタイプです。なので、罪を許された赤澤宗益は三好之長と組んで大和・河内征伐を行い、見事に成功させるという結果を出してしまいました。

 それと並行して、細川政元は完全に敵方に回ってしまった畠山氏に対抗するために、さらにいくつかの手をうちます。その一つは畠山の領国で一向一揆を起こさせることでした。

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