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2016年4月16日 (土)

中漠:明応軍乱編⑮本願寺参戦Ⅱ

 両畠山家が和睦に至った経緯を考えるに、尾州畠山尚順が一度手痛い敗北をして両勢力が拮抗したことや、総州畠山家の後ろ盾の細川政元の政権基盤が薬師寺らの反乱で揺らいだことも考えられるのですが、石山御坊の蓮能の存在もあり得たのではないかと想像します。まずは旧宗家の血筋である事。また、法体であるので俗世利益からは中立であるように見えます。そして何よりスーパースター蓮如の嫁というステータスは両畠山による無間地獄のような抗争を終結させる仲介者に誰よりもふさわしいように見えます。
 ただ、蓮如が山科本願寺の法主の座を実如に譲って石山御坊に入る理由、それも畠山家の血を引く蓮能とその子供たちと一緒に移り住む理由は細川政元の期待に応えること以外に考えにくいです。すなわち、説法で総州畠山家支持者を増やし、尾州畠山を追い詰めることです。蓮如は優れた話術をもった説法のエキスパートでもありました。なので、それは決して困難なことではなかったでしょう。
 ただ、それが実現する前に蓮如は亡くなりました。石山御坊に残された蓮能とその子供たちは自分たちがすべきことを自分たち自身で考えたとすれば、彼女らの目標はおのずから両畠山の和睦というようなことになるのではないでしょうか。それを前提とした和議であれば、両畠山家は長きにわたって対立抗争を捨てて共存共栄の道を選択したことになり、畠山一族全体にとってこれは目出度いことでもあるのですが、そうは問屋がおろしませんでした。

 両畠山家の和議を知ると、細川政元は即座に山科本願寺に河内出兵を命じます。この頃細川政元は畠山家が分裂抗争をしていた間隙をついて大和国を確保していました。もっとも実働部隊の赤澤宗益が謀反の罪で逃亡していたのですが、政元は一族の細川政賢、政春らを大和に派遣して興福寺と和議を取り結んでおります。一方河内の畠山が一つにまとまってしまえば、好むと好まざるにかかわらず、大和国への細川家の影響力が脅威にさらされます。そして、それをもたらしたのが、蓮如の嫁の畠山旧宗家出身の蓮能ということになれば、細川政元としては山科本願寺の裏切りを疑わざるを得ません。仏教教団に自らの意志で参戦せよと命じるのはこれ以前は無かったはずです。元寇の頃であっても、武士以外の組織に敵と戦えと命じることはあり得たとは思えないのですが、蓮能の関与が疑われていたとすれば、細川政元としては本願寺実如に「ショウ・ザ・フラッグ(旗幟を鮮明にせよ)」を迫ることは当然でしょう。

 これは実如にとっては寝耳に水の事でもあったはずです。自分たちは仏教組織であることを盾に拒否しようとしましたが、本願寺教団にはかつて加賀で一向一揆をおこして守護大名である富樫政親を自害に追い込んだ前科があり、それを細川政元に許してもらった経緯がありました。断りきれずに石山御坊の蓮能たちに細川方として参戦せよとの命令を伝えたのですが、今度はその石山御坊からそんな前例はないと拒否をされてしまいました。この頃の本願寺は信長の頃のような教団としての統制は全く取れておりませんし、そんな準備も行っていませんので石山御坊が拒否をしたのは当然と言えば当然なのですが、経緯が経緯なだけにそれをそのまま細川政元に伝えるわけにもいきません。結局の所、加賀から兵を募って河内へ派兵することとなりました。
 本願寺の派兵は畠山尚順を刺激したようです。その報復からか、尚順は古市澄胤を除く大和国人衆全員を味方につける約定を取り付けてこれに対抗します。実如としては一刻も早く事態を収拾させたかったのですが、今度は石山御坊の方が北陸門徒の動員に憤って本山の本願寺を見限って分派独立を策するようになりました。これを許せば山科本願寺は細川政元に潰されかねません。実如は苦渋の決断の上で、石山に下間頼慶を派遣して蓮能一派を拘束しました。これを称して大坂一乱、もしくは河内国錯乱といいます。
 細川政元は大和国に対しては逃亡中の赤澤宗益を赦免、山城守護代に戻した上で三好之長をつけて大和・河内攻略を命じます。そして本願寺に対しては加賀と国境を接する越前国と越中国に対して開戦を命じました。越中国に対しては般若野で長尾・神保連合軍を破ったりしますが、越前国に対しては九頭竜川合戦で大敗を喫します。越前国の朝倉貞景はこれを機に国内の本願寺教団を禁教し、全ての寺院を焼き払いました。蓮如とも所縁の深い吉崎御坊を初めとして、和田本覚寺、超勝寺ら越前にあった本願寺派寺院は悉く焼き払われて僧侶たちは門徒を引き連れて加賀に落ち延びます。それ以後、彼らは加賀において越前奪還運動を叫ぶようになりますが、それが後々本願寺教団内部の抗争の火種となってゆきます。

 この後、実如は嫡男円如と弟蓮淳を起用して教団内部の統制を強化しはじめます。蓮能を初めとする畠山家の血筋は本願寺教団(の中の蓮如の血筋)においては一段下の存在として見なされるようになりました。法主の一族に一門一家制を敷いて序列を定めるのですが、これにおいて連枝の資格を持つはずの実賢・実従らは一家の扱いとなります。法主の異母弟の蓮芸も連枝として扱われているにもかかわらずです。蓮能は畠山家の共存共栄を望んだはずが、全てが裏目にでてしまったわけです。
 細川政元は内衆である波々伯部氏、中途採用の赤澤氏らの自力勢力による勢力拡大に限界を感じて後、なりふりかまわず阿波細川氏や本願寺教団の援軍・蜂起を促しましたが、その協力者をもう一つ次稿にて紹介します。山城国一揆から提携関係にあり、本願寺教団に対しても法主の姻族として影響力を持っていた伊勢氏です。

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