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2016年4月 9日 (土)

中漠:明応軍乱編⑭本願寺参戦Ⅰ

 本稿の内容は過去『川の戦国史』で書いたことと概ね内容が被っております。具体的には細川政元の要請を受けて本願寺九世法主実如が門徒衆を参戦させたところです。しかし、明応の政変から引き続く細川政元の軍事行動の流れにそってこれを見ればまた新しい発見もあるのではないかと思い改めて書いてみました。

 まずは『川の戦国史』で書いたことのおさらいです。実如の先代の蓮如は宗教界のスーパースターでした。彼一代で延暦寺青蓮院の一末寺に過ぎなかった本願寺が一大教団に発展して門徒衆を組織し、加賀国を支配するまでに至ったのでした。それは蓮如個人の非凡な才能によるところも決して小さくはなかったのですが、僧の妻帯を可とする浄土真宗開祖の親鸞の血統を教団の特徴とする本願寺には室町幕府中枢との人脈も自動的についてまわっておりました。
 まずは親鸞自身、貴族である日野家の出身と伝えられております。日野有範の息子であるらしいのですが、異説もあるとのことです。少なくとも親鸞廟を本願寺として寺院化し自らを本願寺三世と称した覚如は日野広綱の孫であることは間違いなく、以後歴代の本願寺法主は日野一門の猶子となっています。蓮如は日野一門の広橋兼郷の猶子、蓮如の後継者である実如は裏松日野勝光の猶子です。日野勝光は足利義政の正妻日野富子の兄であり「押大臣(おしのおとど)」と呼ばれた剛腕政治家でもありました。

 蓮如には五人の妻がいて、その内の第一、第二夫人が伊勢氏から、第五夫人を能登畠山氏から迎えており、それぞれの息子が本願寺教団の枢要を担う諸寺院の住持として収まって幹部連を形成しておりました。第一夫人の如了の息子たちが加賀の寺院を持っているのは、加賀一向一揆で守護の富樫政親を倒してしまい、以後加賀の政務を事実上加賀の三ヶ寺が担うことになってしまったためです。(長子の順如は蓮如より先に亡くなりました)蓮如は応仁の乱中越前と加賀の国境にある吉崎に逗留して布教を行った結果なのですね。富樫政親は幕府に加賀守護を任せられた重臣であり、直前まで足利義尚の六角征伐に従軍していた人物です。それに反逆して死に至らしめてしまったので、蓮如がその責任を問われかけたわけです。その時に反乱を起こした加賀門徒衆には「叱りの御文」という譴責状を出すことで許してもらえました。本来はそのようなことで許してもらえるはずもないのですが、蓮如を処罰した場合加賀門徒衆が暴徒化する恐れもあり、蓮如に対しては不問に付されました。日野家や伊勢家のとりなしもあったものと思われます。しかし、本願寺教団はこれで細川政元に対して大きな借りを作ってしまいました。

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 蓮如の第五夫人蓮能は畠山家出身でした。畠山庶流ではあるのですが、細川清氏の乱の時に没落した畠山国清の系統であり、国清の失脚がなければ本来の嫡流でありました。応仁乱時の当主である政栄は畠山義統に仕えて西軍に属しております。蓮能が蓮如に嫁した時期は1486年(文明十八年)、蓮如実に七十二歳でありしかも蓮能との間に五男二女を設けるという絵に描いたような絶倫振りでありました。
 しかし、この翌々年、加賀一向一揆が起こって富樫正親が一向一揆衆に責め殺されてしまいます。能登守護の畠山義統は富樫政親を支援しておりましたので、本願寺と嫁の実家との関係は冷え込んだとも思われるのですが、大事に至りませんでした。先に述べた通り細川政元に借りを作ったのですね。

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 明応の政変の三年後、1497年(明応六年)蓮如は山科本願寺を実如に任せて自らは摂津石山に移ります。寺務の引き継ぎ自体はその六年前に済ませておりました。摂津石山は摂津欠郡と呼ばれる地にあり、摂津の国ではありながら分国として摂津国守護の支配は及ばない土地でした。そして摂津国人一揆が起こった1482年(文明十四年)までは畠山義就に抑えられてもいた所でもあるのですね。その地に蓮如と本来の畠山宗家である血筋の蓮能が入ったのです。とてもではないですが、隠居や遁世の沙汰ではないと思われます。国の境目の川沿いに根拠地を置くのは蓮如の常道でした。
 おそらく蓮如は細川政元への借りを返そうとしていたのではないでしょうか。すなわち、畠山旧宗家の血筋を引く蓮能とともに石山(大坂)に入り、河内の国人・土豪衆を門徒化、組織化することによって畠山義就・政長の対立を超えた第三極を作ろうとしたのかもしれません。しかし、現実は蓮如たちの思惑を超えて性急で、事態はより流動的でした。畠山義就の病死を機会に畠山政長が足利義材を動かして義就の子、基家(義豊)を討つべく河内遠征に出たのです。これには蓮如もあわてたはずですし、細川政元もこれはあずかり知らぬことでした。しかし、細川政元はクーデターを起こして遠征軍の糧道を断ち、畠山政長は基家(義豊)の反撃を食らって自害に追い込まれます。
 その後細川政元は畠山義豊(基家)と結んで同盟を結びますが、その義豊は六年後に畠山政長の遺児尚順に討たれてしまいます。その同じ年に蓮如は示寂するのです。石山には蓮能と実賢を頭とする息子たちが遺されました。
 それまでは総州家とつながった細川政元の支援を受けた石山御坊の摂河泉における役割は明確であったのですが、蓮如と畠山義豊が相次いで亡くなったことで迷走します。本願寺の方を見るにしても、後継者の法主実如の母親は伊勢氏の出身であり、本寺の統率に唯々諾々と従うことに抵抗があったものと思われます。
 総州畠山義英にとって、尾州畠山尚順は父義豊を討った親の仇であり、尚順の父政長はその総州畠山義豊(基家)に攻め殺されています。いわば双方の家が親の仇でありこの内乱は妥協点を見いだせないようにも思われましたが、赤澤宗益の大和進撃が止まって、薬師寺元一の反乱などで細川政元の権力基盤が揺らいだタイミングで意外なことが起きました。無間地獄の如き根深い抗争を繰り広げていたと見られていた両畠山家が何と和睦に至ったのです。

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