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2016年4月 2日 (土)

中漠:明応軍乱編⑬阿州参陣

 明応のクーデターの後、細川政元は叡山や南都の寺院を焼き払って威勢を示しますが、それで足利義尹や畠山尚順らが屈服するわけでもありませんでした。むしろ攻勢限界点に近づいているかのようにも見えました。それは赤澤宗益が軍事能力には優れていても、占領地を統治・支配する能力が欠けていたこともありました。細川政元はクーデターの折に将軍家直属の奉公衆を解体しておりました。なので、政元が使える兵力は自らが守護を務める丹波衆・摂津衆と一門衆が治める阿波・讃岐、和泉ほかいくつかの国からの兵力しかありません。その内の摂津衆は応仁の乱の最中にずっと畠山義就に占領されていたせいで、乱が終わってそこを取り返したまではよかったのですが、そこにいた細川家の被官たちはすっかり畠山派になってしまっていたため、叛乱を起こされてしまいこれを弾圧してしまった結果、一世代ほど使い物になりませんでした。薬師寺元一や長忠らが守護代としてこれを支えてはいましたが、これとて応仁の乱後に二人の父親の元長が、叛乱を起こした茨木氏や吹田氏の後釜に据えられたもので、ほぼ新参者といってよいでしょう。
 丹波衆は細川家近習として政元を守る任務を担っております。したがって、細川政元が自らの手駒として使えるのは赤澤宗益のような新規採用の外様くらいであったでしょう。使い捨てにしても畠山氏のように子孫・一族がわらわらと湧いて出て勢力が維持されることは起きえないからだろうなと推察します。これが結構使い出がよく、かつ宗益自身も武将としては有能かつ慣習や迷信にとらわれずに真摯に勝利を求める豪傑でありました。しかし、その背景に一族郎党がいないと占領地の維持もままなりません。しかも攻め込んだのが仏教王国の大和でした。桓武天皇が逃げ出すほどの強力な地元勢力が蟠踞する難治の土地であり、古市澄胤を味方につけたくらいでは如何ともしがたかったわけです。

 そこで細川政元はテコ入れを画策します。それは阿波守護家の兵力を自分の命令で使えるようにすることでした。阿波守護家は細川成之は阿波、讃岐、三河の三国の守護を兼務しておりました。三河守護の役職は一色義貫を足利義教が粛清した後始末によこされたものであり、もともとが足利一族の第二の本貫地で御一家衆である吉良家の領地があったり、政所執事の伊勢氏が管理する将軍家直轄領があったりして、ただでさえ権力構造がややこしいところに、守護大名として国人衆の被官化を進めようとした矢先に応仁の乱が始まってしまい、細川成之の支配が及ばなくなっていました。その後を吉良氏や伊勢氏がおいしくいただいた感じです。残りは阿波と讃岐です。細川和氏以来の根拠地であり、一門衆が強力な支配力を及ぼしています。三好之長のような有能な武将も抱えていて戦力に期待を持てる勢力でした。細川政元にとって足利義尹を周防に追いやった後の当面の敵は畠山尚順です。大和を抑えた後はそのまま河内に攻め込みたいところでしたが、難治の大和国を維持すること自体に困難さが付きまとっております。赤澤宗益は軍事的には強いが、譜代の家臣団を持っていないので統治はできませんし、古市澄胤も興福寺を頂点とする大和国の中では並び名士の一つにしかすぎません。というか、国人クラスで突出した者が出てこないようにするのが興福寺のシステムで、その中で野心をむき出しにした古市澄胤に対しては他の国人たちが総スカンをくらわしています。

 そこで三好之長を直属の部下とするためにとった手段は嫡男として九条家から養子に迎えた聡明丸(後の澄之)を廃嫡して阿波細川家から成之の孫の六郎(後の澄元)を迎えたのです。この時、聡明丸と六郎はともに満十五歳。後継者としての器の違いなど判る筈はありません。にもかかわらず廃嫡を強行したのは六郎の背後にある阿波守護家の力が必要だったからなのでしょう。その力の象徴が六郎の執事として上洛してきた三好之長でした。もっとも、三好之長は京風の礼儀作法に疎く、長期にわたる洛中従軍の兵糧確保のために平気で町衆の土蔵を襲ったり、自ら土一揆を起こしたりしたために、体面を重んじた阿波守護細川成之から帰国命令をくらったほどのいわくつきの人物でした。もちろん京雀たちからは蛇蝎のごとく嫌われております。
 この事態に動揺したのが丹波衆、摂津衆、そして新参の赤澤宗益でありました。摂津守護代の薬師寺元一と山城守護代の赤澤宗益は叛乱を起こして片方は斬罪となり、もう片方は罪を許されて引き続き山城守護代を続けることができました。さらには、そのゴタゴタの間に味方の筈の畠山義英が尚順と和睦をしてしまうおまけまでついてしまいます。それ程までに阿波細川家の参陣、その中でも三好之長が細川政元の手足となって戦うことには大きなインパクトがあったわけです。
 実際のところ、三好之長の本質は赤澤宗益とさほどかけ離れているわけでありませんでした。ともに伝統を鼻にも掛けずに、必要に応じて軍事力を用いるタイプです。なので、罪を許された赤澤宗益は三好之長と組んで大和・河内征伐を行い、見事に成功させるという結果を出してしまいました。

 それと並行して、細川政元は完全に敵方に回ってしまった畠山氏に対抗するために、さらにいくつかの手をうちます。その一つは畠山の領国で一向一揆を起こさせることでした。

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